Web版 有鄰

487平成20年6月10日発行

『被取締役新入社員』でデビューして

安藤祐介

TBS・講談社ドラマ原作大賞を受賞

『被取締役新入社員』・表紙

講談社:刊

拙著『被取締役新入社員』は、TBS・講談社ドラマ原作大賞の第1回受賞作として3月に刊行され、テレビ、ラジオでドラマ化された。

何をやってもダメな男、鈴木信男がなぜか一流広告代理店に採用され、役員待遇で迎えられる。信男は“代表被取締役・羽ヶ口信男[はけぐちのぶお]”として秘密の特命を受け、表向きは制作局のADとして仕事をしながら、社内の罵詈雑言を一身に浴びることでストレスの“はけ口”となる。しかし、あるプロジェクトをきっかけに状況は一変。最後は本当の意味で必要とされる喜びを知る。

書き出しは、とにかく面白おかしく笑ってもらいたいという想いが先立ち、コメディタッチのエピソードを立て続けに盛り込んだ。しかし、書き進むにつれて主人公の鈴木信男こと羽ヶ口信男が、作者である私を別の世界へ導いていった。「俺には話したいことがまだまだあるんだ」と。さらに、本の編集・刊行やドラマの制作・放送に携わった人達が、羽ヶ口信男に命を吹き込み、血を通わせてくれた。私にとって、かけがえのないデビュー作となった。

思い返せば、小さな頃から物を書くことが好きだった。そして幸いにも、身近に読んで面白がってくれる人がいた。小学校の頃には毎日提出した絵日記にコメントを付けて返してくれる先生がいたし、高校の頃は日直日誌に書いたバカ話を大笑いしながら読んでくれるクラスメートがいた。小説を書き始めたのも元はといえば5年ほど前、高校時代の友人にそそのかされて長い物語を書いてみたのがきっかけだった。いつも周りには、私の書いたものを「面白い」とおだててくれる人達がいた。そんな中で書き上げた物語が、縁あってドラマ原作大賞に選ばれたのだった。おだてられたブタが、木に登ってしまった。1,403作品の中の“頂点”ということになっているが、本当のところは選考に携わった人達との“縁”であると思う。

全ての縁に感謝したい。恵まれ過ぎている。デビュー作がいきなりドラマになって放送されるということを嬉しく思う一方、恵まれ過ぎていて恐ろしい心地すらした。

根なし草・万年新入社員の日々

私は、根なし草だ。ひとつの環境にしっかりと根を下ろした経験がほとんどなかった。20代は、アルバイトも含めて実に多くの仕事を転々とした。その中には、自分の体たらくが原因でクビになった仕事もあった。

プリクラショップの店番をするというアルバイトでは、店のカウンターでギターを弾いて遊んでいたところ、たまたま見回りに来たオーナーに見つかって、解雇。編集記者見習いとして入った酒販業界の業界新聞社では、「来月から来なくていい」と社長直々のお言葉を頂いた。泡盛展示会の取材で飲み過ぎてメモが取れなくなったり、社に持ち帰るべき新商品のサンプルを“お土産”と勘違いして家で勝手に飲んでしまったり、思い当たる節は色々あった。社会でプロとして仕事をするということを、甘く見ていた。自業自得、身から出た錆、踏んだり蹴ったりである。

編集記者見習いをクビになった後、諦めの悪い私は転職情報誌から「ライター」「編集」などと銘打って募集かけている会社を片っ端からピックアップし、規模の大小や給料の高低を問わず応募した。悪戦苦闘の末、携帯電話(iモードなど)向けの公式サイトを作るベンチャー企業に採用され、入社。仕事は「携帯サイトのウェブ・マガジンの編集」と聞いていたので何か記事を書けるものとばかり思っていたが、実際には「書く」ということからどんどん遠ざかっていった。むしろ自分の不得意なIT色の強い仕事に深く関わるようになった。カタカナだらけの専門用語の応酬に、戸惑った。理解できない分、失敗の数も増えた。それでも、携帯電話のインターネット機能を使ってテレビやラジオの生放送で視聴者投票やクイズ参加を実現する、『番組連動サービス』の事業に携わり、ささやかな夢を見い出した。その事業を追いかけながら、ほぼ1年ずつ3社を転々。どこも少人数の会社で、各人の仕事量が多かった。毎日馬車馬のように働き、土日はおろか眠る時間すらままならなかった。

こうして短い期間で職を変え、会社を移ってしまうため、仕事の上で後輩を持ったことがなかった。万年新入社員だった。新入社員というのは総じて、上司や先輩から怒られたり笑われたりするのも重要な仕事である。「まったくアイツはしょうがねえな」と苦笑されながらも、実はどこか優越感や爽快感を提供している。思い返せば『被取締役新入社員』の着想は、万年新入社員の日々に由来しているのかもしれない。

最後の転職に挑戦、神奈川県に入庁

私は、ひとつの土地に長く定着したことがない。そういう意味では、物理的にも根を下ろす場所を持たなかった。幼い頃は福岡で育ったが、父の転勤により、小学四年生の初めに東京へ移った。幼なじみと別れを惜しむ言葉も、その伝え方もよく分からぬまま、ただ「バイバイ」と手を振って別れたきり、疎遠になってしまった。だから、「ふるさとは福岡」と言うたびに少し哀しい。幸いにも、転校はこの1回限りだったが、大人になると、転居と転職を繰り返す、流転の日々が待っていた。

社会に出てすぐにひとり暮らしを始めるが、前述のとおり仕事を転々とするのに伴って住み家も転々。保谷、目黒(実家出戻り)、本郷、練馬、日本橋小伝馬町とヤドカリのように移り住み、2年ごとの賃貸契約の更新を一度もしたことがなかった。

27歳の夏、会社が、私の追いかけていた事業から撤退した。撤退後、私はおよそ文系人間の世界を逸脱したIT一色の仕事に従事するようになった。これが転機となった。目標を持ってがむしゃらに働いていた日々は、良い意味で「流されてみよう」と思っていた。ひとつの事業を追いかけるということに、ランナーズ・ハイのような心地よさも感じていた。しかし、追いかけていたものが目の前からなくなったその時、ふと不安になった。このまま思わぬ方向へ流されていてよいのだろうかと考え、転職を決意した。

転職にあたって考えたことは大きく三つ。ひとつは、大きな組織で働いてみたいということ。二つ目には、どこかの土地に落ち着きたい、ということ。ひとつの環境や、ひとつの土地に落ち着きたかった。地に足をつけて自分の生活を築こうと思った。三つ目は、これまでと全く違った仕事をしたい、ということ。

そんなことを考えているうちに、公共のサービスに興味が湧いた。民間企業のサービスは“お客様”に対して提供するものだが、公共のサービスは文字通り“公”に提供するものであるという点で、根本から違う。

これが最後の転職と心得て会社を退職し、アルバイトをしながら公務員試験へ向けて勉強した。採用試験を受けるにあたって、東京隣接3県の中から最も惹かれた神奈川県を受験。なんとか合格し、翌4月に入庁した。

神奈川には人を惹きつけるエッセンスが

横浜・みなとみらい21地区のベイエリア

横浜・みなとみらい21地区のベイエリア

大きな組織での仕事は何もかも新鮮だった。憶えきれないほど多くの部署や多くの人の間を、膨大な量の情報が行き交う。長年蓄積されたノウハウ、確立された指揮命令系統に立脚して整然と仕事が進められる。大企業で働く人達にとっては当たり前のことかもしれないが、私にとっては別世界に来たような心地がした。スピード命で小回りが利き、個人プレーの比重が大きいベンチャー企業とはまた違った魅力があった。

横浜に移り住み、神奈川県庁で仕事をするようになって、私は神奈川が好きになった。出張や、あるいはプライベートで各地へ足を延ばすと、この小さな県土の中に人を惹きつけるエッセンスが詰まっていることに気付く。北は丹沢の山々、南は湘南の海などで名高い相模湾、東西を貫く東海道には歴史の足跡が点々と残る。山間部から平野へ、県土の中央を流れて相模湾へ注ぐ相模川は、その流域に数々の名勝を有する。相模川沿いを上流から中流にかけて10キロ程歩いたことがあるが、いつまでもこのままの姿であって欲しいと思った。

神奈川への愛着が芽生え、この土地に落ち着けるような気がした。また、生活のリズムも落ち着いてきた。普段は職場内外の多くの人と関わりながら仕事をし、夜と休日は近所のファミレスにパソコンを持ち込み、バッテリーの充電が切れるまで一人で小説を書く。家に帰ってまた充電しながら書く。このリズムは、とても上手く作用している。

横浜の懐の深さに甘えて

横浜へ引っ越してきて、はや2年余が過ぎた。横浜という街の印象をひと言で表わすと、懐の深い街。幕末の開港から明治の文明開化にかけて異国の文化をスポンジのように吸収し、いわゆるハイカラな街として発展してきた横浜には、雑多なものを受け入れて溶け込ませてしまうような寛容さがあるように思える。

例えば、横浜港には花火が似合う。ランドマークタワー、ベイブリッジ、赤レンガ倉庫などがベイエリアを彩り、パッと見た印象ではエキゾチックで花火の似合わなそうな風景。そこへ花火が上がる。すると、和洋折衷の妙というやつか、風景と花火が驚くほど調和し、美しい港の夏の夜を演出する。横浜の寛容さが織りなすマジックだ。

江戸っ子は三代から、ハマッ子は3日からなどと言われるが、この言葉も横浜の寛容さをよく表していると思う。多分、名乗った者勝ちなのだ。私も、もうすっかりハマッ子気取り。東京の友達へ「横浜案内するから遊びに来いよ」なんて言って呼び出し、地図を見ながらあたふたと中華街などを案内する。地元意識の表れか、東京へ出かけるときは“上京する”と言うようになった。

仕事も住む場所も“根なし草”だった私は今、横浜という街の懐の深さに甘えて、ひとつの場所に少しずつ根を下ろし始めている。生まれて初めて、住み家の賃貸契約の更新をした。4月には社会人生活で初めての後輩ができた。

これまで費やした時間が決して無駄ではなかったということを感じながらこの地に自分の居場所を見つけられたことは、幸せなことである。色々な人との縁やこの神奈川という土地との地縁に、改めて感謝したい。

安藤祐介氏
安藤祐介 (あんどう ゆうすけ)

1977年福岡県生れ。公務員。
被取締役新入社員』 講談社 1,500円。

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