Web版 有鄰

487平成20年6月10日発行

永井路子と『岩倉具視』 – 人と作品

明治を語る言葉の衣裳を剥きながら人物と時代を描く

永井路子氏
永井路子

“大悪人”との噂もあった人物

下級公家は、いかに権力の中枢にのし上がっていったのか?永井路子さんが「岩倉具視を書きたい」と思ったのは昭和39年(1964年)、『炎環』で直木賞を受けてすぐ、40年以上前のことだった。

「具視は、“孝明天皇を毒殺した大悪人”との噂もあった人物です。私は、通説で評判がいい人物にあまり関心がわきません。“源義経を死に追いやった”といわれた梶原景時を『炎環』の中で書いたように、具視も書きたいと史料を集めましたが、なかなかできませんでした」

昭和40年、岩倉家嫡系の元公爵、岩倉具栄氏に会う機会を得たが、〈うかつには書けない〉と思った。さらに、『孝明天皇紀』『明治天皇紀』などの史料が、40年代以降になって現われる。戦前は議論されず、巷間の噂に止まっていた孝明天皇の死を毒殺とする一文を、歴史家の石井孝氏が本紙『有鄰』に寄せたのは昭和54年のこと。「悪性の天然痘で毒殺ではない」と、佐々木克・京都大学名誉教授が結論づけたのは、平成18年刊の『岩倉具視』で謎の霧が吹き払われたのはつい最近だ。

「石井氏の論考が、毒殺問題とともに孝明天皇が佐幕派だったとしたのは、卓見でした。私が子どもだった1930年代、米英に対する敵対意識が強まり“尊皇(つまり反幕)”という言葉が復活しましたが、元々、天皇当人に討幕の意思はなかったのです。言葉というのは妙な使われ方をして、虚偽の衣裳を身にまとう曲者でもある。明治を語る言葉の衣裳を剥く方法で具視と時代を書いてみようと、ようやく書ける気持ちになりました」

副題は「言葉の皮を剥きながら」。まず、徳川家康・秀忠父子が創った「譜代」「外様」などの幕政を確認し、19世紀後半の「権力」「権威」のようすを眺めた。将軍は「権力」、天皇は「権威」だが、天皇と公家社会は「権力」に牛耳られたロボットではなく、養われても頭を下げない勢力で、幕府の方が朽ちかかった「権力」だったという、虚妄の実態が現れた。

「国際情勢など分からなくても、公家は、『この世をば』で書いたように政治的な駆け引きにおいて平安時代からの“千年選手”ですから、しぶとい。老中・堀田正睦は、公家内部の勢力争いを読みきれず、贈賄先を間違え、攘夷派の公家の反対に遭って通商条約の勅許を得ることに失敗します。攘夷派公家の上層部の命令で動いたのが、下級公家の具視でした」

孝明天皇の寵姫・堀河紀子の兄だった具視に、薩摩が近づく。公武合体の波に乗ろうとした具視は、「姦物」と因縁をつけられ、公家社会から追放される。5年の幽居生活の中、大久保利通らに“秘中の秘”として、摂政・関白制度の打破を提案する。

「具視の生涯は、権力者に対する怨念の歴史でした。幕府廃止ばかりがクローズアップされますが、摂関廃止と幕府廃止は車の両輪で、このふたつによって19世紀後半の権力構造が崩れました。9世紀以来、1,000年続いた摂関政治を具視が打ち壊したことは、もっと注目されていい。歴史は1+1が2にならず、5になったり、マイナスになったりする。今思うと、すぐに書かなくて良かったですね。30、40代の私では、史料の奥にあるものが読み取れず、通説以上のものは書けなかったと思います」

史料が語りかけるものを大事に40数年かけて書く

歴史を動かすのは一人ではない。一人ひとりがひしめきあって、流れが変えられていく。同時進行する複雑な問題をどう描くか――。独特の史眼によって、描きあげた。

「やはり私は、史料が語りかけてくるものを大事にしたい。史料はいろいろ語りかけてくれて、面白い。著者が書きたかったこと、書かずにおいたことが見えて、私たちは、そんな史料の読み方ができた幸せな世代でした。この本は小説でも、膨大な史料を集めて研究者が書いた歴史書でもない。鎌倉時代のことを書いた『つわものの賦』と同じ書き方です」

大正14年(1925年)、東京生まれ。大河ドラマになった『北条政子』など、著書多数。『永井路子歴史小説全集』全17巻がある。59年に菊池寛賞、63年に、『雲と風と』ほかで吉川英治文学賞を受賞している。

「具視は1825年生まれです。ちょうど100歳違いの人物を、40数年がかりで書き、もう書く予定はありません。自分なりの具視への迫り方を模索して、これを抱えつづけることで私は死なずに生きてきた、といえます」

(青木千恵)

『岩倉具視』・表紙

岩倉具視
永井路子/文藝春秋/1,524円+税

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