Web版 有鄰

487平成20年6月10日発行

[座談会]近代建築の先駆者 遠藤於菟と横浜 – 1面

横浜国立大学大学院教授・吉田鋼市
工学博士・堀 勇良
東京大学大学院教授・北沢 猛
有隣堂社長・松信 裕

右から、北沢猛氏・吉田鋼市氏・堀勇良氏と松信裕

右から、北沢 猛氏・吉田鋼市氏・堀 勇良氏と松信 裕

はじめに

三井物産横浜ビル 大正初期 遠藤於菟設計 明治44年竣工 正面は横浜税関

三井物産横浜ビル 大正初期
遠藤於菟設計 明治44年竣工
正面は横浜税関

松信幕末の開港にともない横浜は西欧諸国からさまざまな文化や近代技術を受け入れる窓口となりました。西洋建築もその一つで、横浜の市街地では、明治から戦前にかけてつくられた近代建築物を震災や戦災を経た今でも数多く見ることができます。その中には、先駆的な建築スタイルを特徴とした建築家・遠藤於菟[おと]の作品も残されております。彼が大正期に設計して建造された旧帝蚕倉庫は、今年から数年かけて行われる北仲通北地区の再開発事業によって、一部移動して保存されることになったと伺っております。

遠藤於菟(1866~1943)

遠藤於菟
(1866~1943)

本日は、明治後期から大正期にかけて活躍した遠藤於菟の足跡を中心に、横浜の近代建築やまちづくりの歴史について、また歴史的建造物の保存や再開発事業などについてもご紹介いただきたいと存じます。

ご出席いただきました吉田鋼市様は、横浜国立大学大学院工学研究院教授で、横浜市域の近代建築の調査にも携わっておられます。また横浜の建築に関するご著書を多数出版されていらっしゃいます。

堀勇良様は工学博士で、近代建築史がご専門です。横浜だけでなく、日本全国の近代建築や幕末・明治期の外国人建築家について研究されております。2005年に、「履歴を通じての近代日本外国人建築家の研究」で日本建築学会賞(論文)を受賞されました。

北沢猛様は東京大学大学院工学部教授で、都市工学を専攻されております。横浜市都市計画局都市デザイン室長を務められたご経験もあり、横浜のまちづくりの歴史に詳しくていらっしゃいます。

居留地の存在が横浜の近代建築の特徴

横浜の近代建築を考えるとき、やはり居留地があることが、一番大きな特徴だと思います。居留地があり、外国人の建築家がいて外国人用の建物を建てる。それは横浜だけではなくて、居留地があった長崎、神戸もそうです。

ただ、近年、私は、従来言われていることについて、ちょっと違うかなと感じていることがあるんです。

開港直後の10年ぐらいの間の建物は特に、開港したばかりで外国人建築家もまだいない状況の中で、外国人の指示で日本人の大工がつくるので、居留地といっても和風色の強い建築が多かったわけですが、それは日本の大工が、西洋建築をまだまだ勉強できていなかった未熟さのあらわれだとよく言われます。しかし、そうではないのではないか。

20年ぐらい前、朝日新聞社が出したオランダのライデン大学所蔵の写真集『甦る幕末』で、居留地にあったフランス海軍病院の写真を初めて見たんです。それは屋根は確かに和風寺院なんですが、外国人がむしろ和風を好んでつくりたかったんじゃないかとそのとき思ったわけです。

すると、明治初期の日本の擬洋風建築を考えるとき、かなり素直につながるんじゃないか。特に日本各地の擬洋風は、横浜に来た大工さんたちが居留地の建築を見て、出身地に帰って洋風建築をつくる。長野県松本の開智学校が有名ですね。

その出発となったところには、いわゆるジャポニズムが要素として外国人に最初からあったんじゃないか。居留地の建築を考えるときに一方でそれを考えなくてはいけないのかなと思います。

外国人の設計にジャポニズムの影響が考えられる

吉田居留地のグランドホテルの裏にあった、お寺のような大きな屋根のヘボン邸も仮に外国人の設計だったとしたら、それもジャポニズムの可能性があるわけですね。

ヘボンの日記によると日本の大工を指導してつくらせた。

吉田いわゆるモダニズムが出てくるまでは、土地の文化や風土を尊んでそれに従って建てるという建築教育ですから、建築家にはそういう心情があったと思う。すごく面白い視点ですね。

アール・デコが流行する少し前の1910年代ぐらいから、フランスの建築家がモロッコのカサブランカで活躍し始めるんですが、最初はイスラム風の強い建築を建てるんです。そのうちにヨーロッパ風のアール・デコと混交したようになり、1930年ぐらいからはイスラム風がなくなっていきます。今のお話と似ていますね。

北沢ドイツ人建築家のエンデ&ベックマンによる和洋折衷の国会議事堂案を最初に見たときに、これは日本政府に迎合して描いた非常に政治的な配慮の産物かと思ったのですが、ジャポニズムの影響があり、このデザインがいいという確信で描いたのかもしれませんね。

確信はないかもしれないけれど、かなり面白がってやったのではないか。

外国人の建築家と仕事をしながら学ぶ日本人建築家も

明治期になると、居留地建築家といわれる外国人建築家が横浜で活躍します。その一方で、日本人建築家も明治の中期以降に出てくる。横浜では、外国人と日本人の建築家のすみ分けみたいなものが比較的はっきりしていて、日本人は日本人街の建物を建てるんですが、中には外国人の仕事をする人もいました。

遠藤於菟は外国人の仕事は余りしませんが、建築事務所は山下町に設けますから、外国人の仕事をしようという意識があったのでしょうし、遠藤と同世代の下田菊太郎は、西洋建築に日本風の屋根を乗せる帝冠様式の提唱者で、遠藤と重なる時期に横浜で活躍する。下田は渡米してアメリカの建築士の資格を持って日本に帰ってきたんですが、仕事がないので、横浜に来て外国人相手に仕事をした。

外国人建築家について仕事をしながら西洋建築を学んだ人もいます。東京高等工業学校(東京工業大学の前身)出身の建築家宮内初太郎の先代は、フランス人建築家のサルダの仕事を一手に引き受けていた。馬車道の日本火災海上ビル(元川崎銀行横浜支店、現日本興亜損保)を設計した矢部又吉は横浜の出身で、先代の矢部国太郎も横浜にいてドイツの建築家のゼール、デ・ラランデなどの仕事をした。

外国人居留地の建築や建築家をめぐって、日本人の建築家や請負業者らが交差する中で、横浜の近代建築は、居留地がなくなった後も、戦前期を通して、昭和の戦後すぐもそうかもしれませんが、途切れることなく居留地建築の伝統が続いて、各時代さまざまな建築をつくり出してきた。それが横浜の近代建築の、ほかにはない大きな特徴だと思います。

遠藤於菟は近代建築教育の第二世代

松信明治中期から、本格的な教育を受けた工部大学校の卒業生の日本人建築家たちが活躍し始めますね。

日本人が本格的な西洋建築をつくるとき、まず材料が違うんです。設計というより、もっとそれ以前の、材料を調達するというところから始め、なおかつ煉瓦なら煉瓦、石なら石を積んでいく技術からやらなくてはいけない。

ですから、日本の建築教育では、その最初期の人、ある程度経ったときの人、それから教育が確立した後の水準からスタートできる人、世代によって、全然違うんです。工部大学校が明治12年に最初の卒業生を出します。これがいわゆる第一世代で、辰野金吾は日本銀行や、東京駅をつくる。片山東熊は宮廷建築家ですので、今の迎賓館(赤坂離宮)をつくりますが、彼らは設計から煉瓦を焼くこと、煉瓦を積むこと、そういう材料、施工のところから全部やった。

遠藤於菟は明治27年卒業で、第二世代です。半分は第一世代と同じようなところから西洋建築を学んで、さらに違う新しさを出す。

横浜正金銀行本店の工事監督を務める

松信遠藤於菟が横浜に来たきっかけは何だったのでしょうか。

吉田遠藤は慶応元年12月(1866年1月)に木曽福島で生れてますね。

横浜に来た直接のきっかけはよくわからないです。当時の最高の建築教育機関は工部大学校から東京帝国大学の建築学科しかないんです。遠藤の時代ぐらいまでは各学年が2人とか4人とか、そんなものです。本格的な洋風建築の需要は、日本では公共建築、官庁建築しかない時代ですので、大学を出て一般の会社に就職することはほとんどありません。大体、官公庁に勤める。

遠藤も明治27年に卒業して、28年に神奈川県の技師になっています。その前に、横浜税関の煉瓦造の倉庫を建てたのが横浜での最初の仕事です。横浜税関は大蔵省の施設ですので、当時大蔵省の建築にかなり影響力を持っていた妻木頼黄[つまきよりなか]の要請で横浜に来たのではないかと想像されます。その後、横浜正金銀行本店の建築に関係するわけです。

横浜正金銀行本店 (神奈川県立歴史博物館) 神奈川県立歴史博物館蔵

横浜正金銀行本店
(神奈川県立歴史博物館)
神奈川県立歴史博物館蔵

吉田横浜正金銀行本店は設計が妻木頼黄、遠藤は工事監督を務めて、明治37年の8月に竣工します。

本格的な西洋建築をつくるとき、設計することと、それを実現する過程に、設計したものを忠実に建てるための工事の監督が必要になります。今の用語で言うと、設計監理の監理というところだと思います。この工事は5、6年かかっていて、遠藤はその過程で、構造など、西洋建築のつくり方の本質のようなものの実地を習得したんだと思います。第一世代がやってきたことを踏まえて、そこから何か新しいものを考えるときに、横浜正金銀行の経験は、遠藤の非常に大きなバックボーンになったでしょうね。

施工面では、インテリアにいわゆる日本風の趣味がかなり入っていた。その設計は遠藤もやっていますから、ジャポニズムの中に新しいデザインのきっかけみたいなものを見出していったんじゃないかと思います。

事務所を設立した独立第一作が横浜銀行集会所

横浜銀行集会所 『神奈川県建築史図説』から 日本建築学会蔵

横浜銀行集会所
『神奈川県建築史図説』から
日本建築学会蔵

遠藤はその後、明治38年に独立して横浜に設計事務所を開く。最初の仕事が北仲地区の弁天橋際にあった横浜銀行集会所の建物で、日本でのアール・ヌーヴォーやセセッションの最初期の作品と言われています。横浜正金銀行とはまるで違う、新しさに満ちた建築をつくり出します。独立第一作にふさわしい建築ですね。

松信独立して事務所を設立したのは、日本人建築家としては早いんですか。

北沢正金銀行本店の工事が終わった後の、明治38年の設立です。遠藤の世代は、卒業後10年ほどは習得、修練の時期があるんです。日本人では辰野金吾が明治36年に事務所を設けていますから遠藤の事務所も最初期と言えると思います。

吉田『ジャパン・ディレクトリィー』の宣伝広告では於菟を「OTO」でなく「OTTO」と書いていますね。オーストリアの建築家オットー・ワーグナーとかけたんじゃないですか。

震災前、伊勢佐木町の有隣堂の斜め前にあった越前屋の建物は遠藤が設計したんですが、明らかにワーグナーの作と通ずるものがありますから、意識はしていたんじゃないでしょうか。

日本初の全鉄筋コンクリートで三井物産ビルを設計

松信日本大通にある三井物産ビルは、遠藤の代表作のひとつですね。

私は大学院の修士論文で遠藤を取り上げて、そのとき、横浜の磯子に住んでおられた遠藤於菟の次男の方から資料を提供していただきました。遠藤は昭和9年に、自分の作品歴を解説した『大震災前鉄筋コンクリート造の経歴』という文を書いていて、そのときに、自分の作品をまとめた写真帖もつくっています。それらを見ますと、突然三井物産ビルみたいな鉄筋コンクリートの作品ができるわけではないんです。横浜正金銀行や、一番わかりやすいのは第一作の横浜銀行集会所で、それは煉瓦造なんですが、日露戦争の後から明治の末ぐらいまでは模索の時期で、新しい鉄筋コンクリート構造を採用したり、ヨーロッパの最新のスタイルを導入したり、いろいろ試行錯誤して、いくつかの煉瓦造の建物をつくっています。

三井物産横浜ビル(右)と旧三井物産倉庫

三井物産横浜ビル(右)と旧三井物産倉庫

煉瓦造に順次鉄筋コンクリートを使いながら、明治38年から6年ぐらいかけて、44年、初めて全鉄筋コンクリート建築がつくられる。それが三井物産の横浜ビルです。それで一段落した後、大正期に入って、これまた作風を変えて生糸検査所にたどり着くような鉄筋コンクリートの建築をつくるということではないかと考えています。

構造、意匠、機能の三つの新しさがある

そして、現物が日本大通りにあることが非常に重要だと思います。とりわけ三井物産ビルは日本大通りに面している建物だけでなく、その裏に煉瓦造の倉庫がある。これは三井物産が主に扱っていた生糸のための倉庫です。それが非常に面白くて、側周りは煉瓦の壁です。ところが中に入ると、地下があるんですが、1階、2階、3階の床は木造で、柱と屋上の屋根スラブ等は鉄筋コンクリートでつくられている。三井物産ビルができる1年前の建物です。

この現日東倉庫の側周りを鉄筋コンクリートに変えれば、ちょうど三井物産ビルになる。鉄筋コンクリートの技術の重要なメルクマールとなる二つの前後の作品がそろって残っていて、技術の変遷を目の当たりにできるという意味でも貴重だと思います。

三井物産ビルは、私はよく言うんですが、三つの新しさを持っている。明治の建築なんですが、明治建築らしくなくて、昭和初期に建ってもおかしくないような格好をしているという意味での先駆性みたいなものがあります。

一つは、装飾のない、現代建築に非常に近い、開口部の大きな建築であることです。

それから、それまで赤煉瓦が支配的であったものに対して白タイルを張っているという新しさが一つあります。そういう構造的な新しさ、意匠的な新しさ。

もう一つは機能的な新しさで、これは三井物産の支店のビルですが、プランニングを見ますとオフィスビルディングのプランニングになっているわけです。東京の丸の内で丸ビルなどに先駆するような平面を持っている。こうした三重の先駆性を持っていると思います。

鉄筋コンクリート造の倉庫は震災にも無傷で残る

鉄筋コンクリート詳細図 「三井物産横浜支店関係資料」から 横浜都市発展記念館蔵

鉄筋コンクリート詳細図
「三井物産横浜支店関係資料」から
横浜都市発展記念館蔵

北沢三井物産ビルを建てるとき、壁は煉瓦で積めば1メートルぐらいの厚さになるけれど、鉄筋コンクリートなら何10センチで薄くできますよというのが遠藤於菟が説得した一つの材料なんですが、それが当時は理解されなかった。本当に大丈夫なのか、三井物産はアメリカに設計図を送って、アメリカの技術者にチェックをしてもらわざるを得なかった。

松信やったんですか。

北沢ええ。壁の厚みがこの程度あれば大丈夫だという経験的・感覚的判断ではなくなっていたということです。鉄筋とコンクリートと、曲げに耐えるものと加重をうけ持つものを組み合わせる。その工法の発想自体がなかなか理解しにくい。見た目にわからないでしょう。

吉田三井物産横浜支店一号ビルは、日本で最初の全鉄筋コンクリートのオフィスビルですが、そのあと、震災後の昭和2年に二号ビルが増築されます。

一号ビルの横浜公園寄りにある二号ビルは、生糸検査所と同じように、梁がないフラットスラブの事務所建築で、鉄筋コンクリート技術の後の展開もここで見ることができるんです。

吉田ワーグナーに似ているかもしれないですね。白い磁器タイルは、昭和6年建造の東京中央郵便局の先駆的な例だと言えなくもない。造形的にもすごいと思います。

倉庫とビルの間は、連続的にも思えるけれども、ポンと切れているようなところもある。その後をたどるのがおもしろいんですよ。

北沢倉庫とビルは一緒に設計したのでしょうかね。タイルの使い方やディテール、意匠的には近いものですね。

吉田表面はそうですね。

最初から恐らく一体の建物で設計しているはずですね。三井物産の支店として建てる。三井物産の横浜での主力は生糸だから当然生糸倉庫が必要だということで、やはり一体で設計していて、1年の差は、全部の躯体を鉄筋コンクリートでやるための準備の期間だったのかなと思いますね。

松信震災のときも倉庫は無事だったそうですね。

三井物産からの感謝状が残っています。周りはほとんど崩れて、ビルのほうもたしか火が入ったはずなんですが、倉庫は無傷で、その生糸を震災後、最初にアメリカに送り、三井物産は生糸貿易の復興の中で非常に有利な位置を占めることができたと、震災の貿易復興史に書かれています。

松信三井物産ビルにはすぐれた機能があったそうですね。

北沢屋上に雨水が流れ込む水槽があって、その水をトイレなどに使う。今で言う中水道ですね。

雑用水に使う。

吉田当時としては相当に早い時期のものであり、画期的だと思います。アメリカでもそういうことが普及していたという話は聞いたことがない。遠藤於菟がどこでヒントを得たのかよくわかりませんが。また、生糸検査所の屋上には庭園があった。従業員の休息の場ともなっていたそうで、今でこそ屋上緑化も増えていますが。

クラシックな通りには異質に見えたモダンな建物

横浜の建築は、特に明治中期以降から大正期、横浜正金銀行や開港記念会館などもそうですが、屋根にドームとか塔があるんですね。スカイラインが非常ににぎやかな時期です。ところが遠藤は、塔みたいなものをやめてしまった。それは鉄筋コンクリートだからなんでしょうけど、陸屋根(平屋根)の建物をいち早くつくります。それはむしろ昭和初期の建築の特徴みたいなもので、それを先取りしていた。そういう意味では横浜のスカイラインの多様さをなくしてしまったような一面はあるのかなというのは確かにあります。

北沢三井物産がある日本大通りは中心的な場で、街のつくり方も古典主義でした。正面に塔のある税関があり、県庁などのクラシック建築が並ぶ通りでした。モダンなものができたのですから異質に見えたんだと思うんです。大正初期の絵はがきを見ると、ポツンと白いかたまりが写っている。街並みとしても異質なものだった。

松信当時の評判は、あまりよくなかったのですか。

やっぱりわかりづらいんでしょう。特に大正期の建物はそういうところがあると思います。逆に言うと、どれを見ても、遠藤の建物だという特徴が出ている。そういう建築家は日本では非常に珍しいんです。日本はヨーロッパの影響を受けているので、建築の種類によって、学校なら学校とか、その都度、作品ごとにスタイルを変えるようなところがある。遠藤はそういう、様式を使い分けることをまるっきりしない人で、何でもかんでもみんな同じデザインでやってしまう。それもちゃんと評価しないといけないとは思うんですが、そういう意味で遠藤は「日本のペレ」という言われ方をよくするわけですね。

吉田まさにそうだと思うんです。オーギュスト・ペレは鉄筋コンクリート造のパイオニアで、ル・コルビュジエと並ぶフランス近代建築の巨匠です。しかし、遠藤を「日本のペレ」と誰が言い出したのですか。

建築史の著作が多い建築家、蔵田周忠がそう言ったのが最初だったと思います。

吉田生糸検査所で最も近づきましたね。まさにペレだと思います。三井物産ビルはまだワーグナーのほうにむしろ近いかもしれない。

フランスのトニー・ガルニエなんかとは違うのですか。

吉田遠藤のほうがもっと造形的というか、意匠に凝っている感じがします。

大正15年に生糸検査所が竣工

吉田大正12年に関東大震災があって、そのあとに震災の復興建築がつくられていくなかで、遠藤が設計した生糸検査所が大正15年に竣工します。

遠藤は、明治29年に生糸検査所が創立したときにも関わっているんです。そのときは、木造庁舎の設計ではなくて、工事の監督からスタートしています。それ以降は設計を含めてすべてやっている。

北沢明治29年に生糸検査所を最初に立ち上げたときは民間ですね。商人の自主的なものだった。

震災の復興建築をやるときに、生糸検査所の設計を遠藤に嘱託した際の履歴書を見ると、ほぼ毎年、生糸検査所の何らかの建築にかかわり合っているんです。生糸検査所は、国の、今で言う農林水産省、昔の農商務省の所管ですから、そこでも営繕の担当の技術者は当然いるんですが、横浜だということで民間に出ていた遠藤に依頼があった。震災復興の生糸検査所は、遠藤の集大成の作品と位置づけられると思います。

吉田遠藤於菟は横浜の生糸検査所の初めからしまいまで全部かかわっていたわけですね。

ここは国の役所の出先みたいな施設でありながら、規模的には、本省よりも大きい。今は国の第二合同庁舎として使われていますが、建物としても非常に大きいものです。

吉田4棟の帝蚕倉庫も大規模ですよね。

生糸検査所は、震災前までは日本大通り今の横浜地方検察庁のところにありましたが、倉庫は余り大きくはなかったんです。震災復興時に今の場所に移り、線路を生糸検査所まで引っ張ってきて、信州や上州などの産地から入ってくる生糸を、直接すぐに検査をするようになる。検査の内容も変わったんでしょうが、庁舎内にあれだけの規模の倉庫が必要だった。横浜にとって、当時の生糸貿易がいかに重要であったかを象徴していると思います。

横浜から撤退し、東京へ拠点を移す

北沢遠藤は、横浜の商人との強い結びつきもありましたね。原合名会社などの民間の仕事も結構やっていますから、ある種のスポンサー、クライアントとして横浜商人の後押しはずいぶんあったんじゃないか。

そうですね。横浜銀行集会所のときは横浜正金銀行がバックにあったんでしょうが、確かに原富太郎さんや越前屋さんの仕事もしているので、むしろそっちのほうで積極的に展開していれば、大正になって横浜から撤退して東京に拠点を移す必要はなかったんだろうと思うんです。

北沢彼が最も活躍した40歳前後のころ、例えば1909年は開港50年で条約改正後10年ぐらいです。横浜が大きく成長するときに、遠藤は横浜に事務所を開き本格的に仕事をする。貿易商から産業資本に転換していく時期にちょうど横浜にいて、仕事が一気に増える。そこでクライアントとの関係が何でうまく続かなかったか。

明治42年に神奈川県仮庁舎の建設で業者が手抜き工事をして、工事長の遠藤が責任を取らされますが、それは官庁営繕の話で、むしろ民間ベースでもっと活躍できたはずですが。

遠藤は、大正2年に東京へ転居し、震災までに30近くの作品を残しますが、昭和になってからは建築活動は減ります。

遠藤の写真帖や図面などを保管

松信遠藤於菟の旧蔵資料が今、横浜都市発展記念館にございますね。

大まかに2種類あって、私の先生である村松貞次郎先生の時代に、東京で事務所を継いだ遺族の方からいただいた図面類がいくつか。それと、私が修士論文を書くときに遠藤さんのご次男から預かっていたものを、横浜市でちゃんとした形で公開できるようにしようということで、横浜都市発展記念館にゆだねて整理をしてもらい、青木祐介さんが『横浜都市発展記念館紀要』第一号に「遠藤於菟旧蔵建築資料目録」としてまとめています。その中には、三井物産ビルの青焼の図面や契約書なども含まれていますから、研究資料としては非常に興味深いものだと思います。

当時の建築家には珍しく、都市の問題にも関心を持つ

北沢遠藤於菟は耐震耐火建築の設計でも有名ですが、大正期に住宅の図集を出しますね。

何冊も出しています。『日本住宅百図』とか『西洋住宅百図』とか。

北沢『日本住宅百図』では、庶民のための普通の住宅のモデルプランを、敷地の大きさに合わせて、100ぐらいつくって見せる。1軒幾らとなるか、見積りがついていた記憶がありますが、どういう意図でこれをつくったのか。関東大震災の前ですが、横浜でも東京でも人口が急増して過密化してくるんですね。それに対応してどういう住宅をつくったらいいか。都市型の住宅を提案したのだと思うんです。

遠藤が実際に住宅をどれほどやったかはよくわかりませんが、普及版というか、庶民住宅みたいなものを含めて、都市における住宅を改良していくべきだというメッセージが込められていたと思える。

当時の建築家としては珍しく、都市の問題に関心を持っていたようなんです。耐震耐火建築や庶民住宅のモデルを開発しようという建築家は、まだあまりいなかったですからね。遠藤の評価に加えていい話と思います。

吉田大正5年に、集中的に出していますね。ちょうど50歳。

日本人としては非常に早くモダニズムを実践

吉田遠藤於菟は「日本のペレ」と言われますが、1866年生まれで、ペレより8つも上なんです。フランク・ロイド・ライトが1867年で、遠藤は1つ上です。にもかかわらず、モダニズム的な側面がものすごく強い。そういう意味では非常に早いモダニズムをやった人ですね。日本でこの世代で珍しいかもしれない。それはすごく評価されるべきかなと思います。

面白いのは、現代から見て、日本の建築をさかのぼったときにたどり着くのは遠藤の世代だと思うんですが、遠藤には、前の世代から引きずっている部分もあるんですね。日本の近代建築の、最初から来る流れと、現代からさかのぼったときのクロスするところに位置していると思います。

吉田確かに、第一世代と両方に首を突っ込んで、引き裂かれているという感じですね。どちらにも属さない。

北沢ポツンと孤独に。何となく流れから一人独立しているような。

あの世代はそういうところがありそうですね。下田菊太郎も、帝冠様式を提唱し続ける。それで余り受け継ぐ人はいない。(笑)

北沢オリジナリティーが高過ぎるんですね。

時代の巡り合わせみたいなものがあって、そうせざるを得ないようなところはあります。長野宇平治は遠藤より1つ年下ですが、古典主義の銀行ばかりつくる。

吉田遠藤於菟はすごく新しいですね。

新しいけれど、大正期になると本当に鉄筋コンクリートを開拓していくというわけではない。長野宇平治がスタイルを変えないように、遠藤も同じような建築ばかりつくる。何か共通するところがあるのかなと思います。

帝蚕倉庫群は2棟を保存

横浜第二合同庁舎 (旧横浜生糸検査所)

横浜第二合同庁舎
(旧横浜生糸検査所)

松信生糸検査所は、今は横浜第二合同庁舎となり、平成5年にファサードが新たに再現されました。横浜では近代建築の活用や、建物の形だけでも視覚的に残していくことが行なわれていますね。

吉田第二合同庁舎は、歴史的な建物を建て直すときに、何らかの形で残さなければいけないと国が意識した横浜で最初の例です。もちろん横浜市の力もあるのですが。その前に馬車道の日本火災海上ビルがありましたね。今日から見れば不満はいっぱいあるんですけれども、第二合同庁舎の意味は大きかったと思いますね。

生糸検査所の煉瓦タイルは昭和40年代に張りかえられていてオリジナルの材料はありませんでした。横浜地方裁判所はオリジナルの材料を多少再利用し、税関庁舎ではほとんどオリジナルの材料を使った。

あのときの委員会で吉田さんが、レプリカでなく、本物自体があるということの重要性を非常に力説していたのが印象に残っています。

もう一方で、「結局同じようなものができるんだろう。いいじゃないか」という意見もあった。やはりどういう形であれ、切れっ端であってもその物が何らかの形でその場所にあるということが非常に重要だと思うんですね。

北沢保存の議論のとき、生糸検査所は、市民から「キーケン」と呼ばれ、親しまれていたことが大きかった。単に文化財、建築技術的にというだけでなく、市民的な財産になっているということは、結構大きい説得材料だったと思います。

僕が非常に惜しかったなと思うのは、右側のウィングですね。フラットスラブで、内部空間がきれいなんです。

吉田これは増築なので時代はちょっと後ですね。

北沢今なら新しい補強方法も考えられたでしょうが、これは保存の最初のころの事業で、補強方法が一般化していなかった。その後丸の内の日本工業倶楽部は一旦基礎を切って、免震構造を入れて保存することができたんです。そこができなかったのが非常に惜しい。

吉田合同庁舎への建てかえのとき、4つあった帝蚕倉庫を一つ壊して駐車場にしたことも残念だった。生糸検査所に近いほうからA、B、C、D倉庫があったんです。そのときにAを壊しちゃって、今は3つだけ残っている。

帝蚕倉庫事務所 (旧生糸検査所事務所) 大正15年竣工

帝蚕倉庫事務所
(旧生糸検査所事務所)
大正15年竣工

この帝蚕倉庫も遠藤の設計で、隣接する倉庫事務所とともに1926年(大正15年)に竣工します。

松信帝蚕倉庫がある北仲通北地区では、再開発が行なわれて、歴史的建築物を保存・活用しながらまちづくりを進めていくようですね。

北沢今回の大掛かりな再開発では、旧帝蚕倉庫や倉庫事務所など5棟のうち2棟が保存され、文化施設になります。3棟は解体されますが、新築される高層ビルの低層部に、解体した倉庫の外壁煉瓦を再活用して景観が継承されます。

歴史的遺産が多い北仲通北地区を再開発

北沢横浜市が都市づくりの中で歴史的建造物を保存しましょうという話が始まったのは1980年代の半ばぐらいです。日本建築学会と調査をして、近代建築を380件余りリストアップした。当時は、まだ開発を進めており、保存をするというのは、都市づくりの足を引っ張ると抵抗もあった。今ほど保存や活用が一般的に議論されていたわけじゃないと思います。

今も印象に残っているのは、村松貞次郎先生のお話で、街というのは歴史が積み重なっているからある種の味とか奥行きが出るので、全部なくしてしまうと街のよさはなくなってしまう。だから古い時代のものから最先端のものまでをいかにうまく重ね合わせるかがこれからの都市づくりのポイントじゃないかとおっしゃって、僕もそのとおりだと思いました。

もちろん、いいものは完全な形で残すべきだと思いますが、再開発しながらも、そういう重なりはつくれるんじゃないか。日本火災海上ビルで外壁の景観を残したときも、一皮だけ残して意味があるのかとか、いろいろ非難はありました。ただ、記憶を継承していくことはできるだけやったほうがいいと思うし、建築だけでなく街のつくり方も、もともとあった道だとか、道の先に港が見えるというような光景自体も一つの歴史的な財産として継承しながら都市づくりをしたほうがいい。

弁天様があり居留地や灯台寮もあった

北沢北仲も、古くを言えば弁天様があったときから、横浜の象徴的な場所であり続けた。それがわかるようにしたほうがいいのではないか。瓢箪池もあったという。弁天様を復元できるかどうは別にしても、次の時代には灯台寮があったり、再開発で掘り返してみると、恐らく、いろいろなものが出てきますよ。日本人町の中に外国の施設もあって、港があり、生糸の検査所があり、日刊新聞の発祥の地で、学校もあって、横浜の中で一番おもしろい場所だと思うんです。

吉田この場所は砂州の先端で、最先端は「象ヶ鼻」と呼ばれた景勝地で、かつ、横浜村の鎮守社の弁天社の社領地で、神聖な場所であり、村民の行楽の場でもあった。その後も公共的な施設が営まれ続けて、幕末期にはフランス公使館、ドイツ領事館、オランダ領事館が置かれた。明治初期までは一部居留地だったんですね。

日本の公共施設では、後に灯台寮、さらに灯台局と改称する灯明台役所が明治2年に置かれる。これは日本各地に灯台などの航路標識システムを完成させるための施設で、その技術者を養成する機関でもあった。

明治9年には海軍の東海鎮守府が置かれたり、翌年にはもとのフランス公使館の建物に横浜裁判所が移ってくる。一部が宮内省の御料地だった時代もある。海岸には、明治7年に国産波止場(日本波止場)が設けられる。

横浜の近代最初期の歴史に関わる枢要な施設が多く置かれた。非常に重要な場所ですね。

北沢灯台寮の護岸や波止場の突堤も復元されます。

明治初期の横浜のいろいろな歴史が積層している場所

吉田「事始め」的な歴史では、明治2年、日本人による最初の電信業務がここで行われた。明治7年に灯台寮構内に建てられた貯油倉庫は日本最初のコンクリート造建築で、同年の『試験灯台』は横浜最初の煉瓦造建築といわれている。明治3年創刊の、日本最初の近代的邦字新聞とされる横浜毎日新聞も北仲通南地区にあったのではないか。

確かに非常に興味深い場所ですが、わかりやすいようで意外とわからない部分が結構あるんです。国産波止場の由来もよくわからない。

新聞発祥の地の記念碑は、以前は生糸検査所の角のところにありましたが、どうも違うんじゃないか。もともと本町通りは馬車道のほうに入っていくのが正規のルートだったのが桜木町のほうに行く道につけかえられるんですが、その時期がはっきりしない。地番の改正も何回かやっているので、横浜毎日新聞が創刊されたときの地番が、今のどこなのかがわからない。

吉田最初期の教育施設としては、明治6年に相次いで設けられた壮行・如春・同文の三つの学舎のうち、如春学舎は当初からここにあって、この三校が明治8年にまとめられてできたのが横浜学校、後の横浜小学校ですね。

横浜商法学校(現横浜商業高等学校)北仲通校舎 横浜商業高等学校蔵

横浜商法学校(現横浜商業高等学校)
北仲通校舎
横浜商業高等学校蔵

明治15年創立の横浜商法学校(後の横浜商業学校)も、神奈川師範学校も短期間ですがこの地にあった。幕末の横浜フランス語学所もあったという。いろいろな歴史が積層しているんですよ。

北沢その後、生糸検査所の後が倉庫や公団のアパートになったりして、忘れられた場所となったのかもしれない。明治の初めのころの横浜の中心ですね。その歴史をもっと評価することが重要ですね。

松信ありがとうございました。

吉田鋼市 (よしだ こういち)

1947年兵庫県生れ。
著書 『[建築学入門シリーズ] 西洋建築史』森北出版 2,400円+税、『ヨコハマ建築慕情』 鹿島出版会 2,800円+税、ほか多数。

堀 勇良 (ほり たけよし)

1949年東京生れ。
著書『[日本の美術 447] 外国人建築家の系譜』 至文堂 1,571円+税、ほか。

北沢 猛 (きたざわ たける)

1953年長野県生れ。著書『[10+1 №45] 都市の危機/都市の再生』(共著) INAX出版 1,500円+税、『都市のデザインマネジメント』学芸出版社 2,600円+税、ほか。

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