Web版 有鄰

486平成20年5月10日発行

[座談会]生糸が結んだ横浜と八王子 – 1面

津久井町史編集委員・沼 謙吉
多摩地域史研究会会員・馬場喜信
横浜開港資料館調査研究員・西川武臣

左から、西川武臣氏・沼謙吉氏・馬場喜信氏

左から、西川武臣氏・沼 謙吉氏・馬場喜信氏

はじめに

桑都朝市 『桑都日記』から 八王子・極楽寺蔵

桑都朝市 『桑都日記』から
八王子・極楽寺蔵

編集部横浜が開港し、海外との貿易が始まった時期の主な輸出品は、生糸や茶などでした。その中でも生糸は大きな割合を占め、幕末から明治にかけて輸出量は増加し、日本を代表する輸出品となります。横浜港は、日本の生糸輸出の大部分を取り扱い、その需要にこたえるため、生糸は生産地から、さまざまなルートを経て横浜まで運ばれていました。

八王子は当時、生糸の生産地であり、集荷地でもありました。生糸の流通によって、横浜と八王子はそれまで以上に、お互いにとって重要な関係になったと言えます。

本日は、八王子の町の歴史や、横浜や神奈川との交流の移り変わりなど、開港期にとどまらず、さまざまな視点からお話をしていただきたいと思います。

ご出席いただきました沼謙吉様は、日本近代史がご専攻で、多摩・相模地域の市町村史の執筆に数多く携わっておられ、八王子の歴史に関する多くのご著書がございます。現在は津久井町史編集委員をお務めです。

馬場喜信様は、多摩地域史研究会会員として八王子の歴史を中心とした研究を手がけていらっしゃいます。八王子に関する本も多く執筆しておられます。

西川武臣様は横浜開港資料館調査研究員で、日本近世史をご専攻です。なかでも、幕末開港期の横浜を中心に研究されております。

横浜の生糸貿易は開港直後から隆盛に

西川横浜が開港したのは、安政6年(1859年)6月2日ですが、生糸貿易が盛んになってくるのは7月の中旬以降ぐらいです。その後、生糸貿易は非常に隆盛していきます。

開港以前から、生糸を外国側が求めているという情報はすでに入っていて、幕府や生糸を生産する藩などが横浜に向けて出荷する体制をある程度整えていたことが生糸貿易隆盛の背景にあると考えられます。

当時、ヨーロッパでは蚕の病気がはやっていて、そのかわりになる生糸をアジアに求めていました。中国からかなりの生糸が輸出されていましたが、中国では阿片戦争後も戦乱が続いて、生糸の輸出が停滞ぎみになるんです。

ちょうどその時期に、横浜が開港され、日本から大量の生糸が輸出される体制ができた。それに向けて各藩、あるいは幕府の経済官僚や外国方の官僚が生糸の輸出体制を貿易商たちと一緒につくっていったんだと思います。

その頃から、かなり大量の生糸が横浜に集荷されるようになります。横浜は、開港前は90戸ぐらいしかなかった半農半漁の町ですが、生糸貿易の隆盛に伴い、日本最大の貿易港、国際港都として急激に発展していくわけです。

津久井や甲府、長野の生糸も八王子に集荷

西川当時は幾つかの生糸生産地がありまして、現在の群馬県を中心とする地域の生糸が、横浜に入ってくるものとしては最も多かったことは間違いないようです。その中心的な流通ルートは、主に利根川を使って、関宿(現千葉県野田市)で江戸川に入り、江戸を経由し、海路で横浜に入ってくるものです。

そのほか奥州、福島県もかなりの生糸を産出していて、これは陸路で江戸を経由して入ってくる。途中で利根川に入る生糸も一部あったはずです。

3番目が、八王子を経由する横浜道とか浜街道と呼ばれるルートで、旧来は神奈川道と呼んでいた道です。八王子周辺、あるいは津久井地方の生糸なども含めて八王子に集荷された生糸が横浜道を通って入ってきます。八王子にはさらに西の甲府、あるいは長野県あたりの生糸も集荷されていたはずです。

八王子は生糸の大きな集荷市場の一つですが、恐らくそれ以前から東海道沿いの地域との流通はかなり盛んだったと思われます。それは生糸以外のもの、甲州産物(材木や炭など)が八王子を経由して東海道地域、あるいは江戸に運ばれていくということもありましたし、八王子そのものが、江戸時代から絹織物地帯であったということがあると思います。

八王子は甲州街道屈指の宿場町

八王子十五ヶ宿

八王子十五ヶ宿
『武蔵名勝図会』文政3年(1820年)から
国立公文書館蔵

江戸時代の八王子の様子は『武蔵名勝図会』等に描かれています。これによりますと、八王子は、八王子または八王子十五宿、または横山宿と呼ばれたようです。甲州街道沿いの東から横山宿、その次が八日市宿、八幡宿、八木宿と並び、十五宿の町ができていたわけです。

『甲州道中宿村大概帳』という、天保年間から安政年間に書かれた記録によりますと、人口は概略6,000人、男が3,100人、女が2,900人、戸数は1,550です。

馬場具体的に比較してみると、甲州街道の最初の宿場の内藤新宿、現在の新宿は2,300人、甲州道中で2番目に大きな府中は2,700人ほどですから、八王子の6,000人というのは、いかに大きなものであったかをイメージしていただけると思います。

宿屋は大・中・小、全部で34軒ある。横山・八日市宿に問屋場があります。重要なのは宿場だけではなく市が開かれたことです。特に織物の市です。

八王子の町の西から南、そして北にかけての山村地帯では養蚕が盛んで、織物の生産を行なっていた。そこから八王子の市に持ってくるんです。市は四と八の市で、月に6回、開かれていた。六斎市です。

他のものも一緒に市で売買していたんですが、元禄から享保のころに市を分離し、織物だけの市を独自に開くようになった。織物の市は朝、今の時間で言うと八時から十時頃まで開きました。桑都[そうと]朝市といって、関東でも有名な市になっていたんです。

町のようすは外国人の紀行文にも

西川少し古いところをお聞きしますが、八王子の養蚕は後北条氏の時代までさかのぼることができますか。

当然そうでしょう。八王子城の城主だった北条氏照は、「八王子八景」という和歌を詠みました。その一つに「桑都青嵐」というのがあって、「蚕かふ桑の都の青あらし 市のかりやにさわぐもろびと」と歌っています。桑の都、つまり養蚕が盛んであったということですね。

市が盛んになるのは江戸時代で、そのありさまは『桑都日記』に出ています。

馬場横浜が開港して居留地ができると、そこから外国人たちが遊歩を許されている地域の北限の八王子まで馬に乗って遊びに来て、町を観察した記録を残してくれた。例えばハインリッヒ・シュリーマンの八王子紀行など、日本人では気がつかないようなことも書かれています。

町は、街道の中央に用水を通して、その両側に市が背中合わせになっていた。用水路には井戸が点々と掘られていて、その数は18もあり、滑車付きの釣瓶で水を汲んでいた。これは別の本に記録されていますが、市場に来た人たちは、南北に分れた市場が背中合わせにあるので、北から入れば一回歩いて、ぐるっと巡って南側の市をのぞいて一周する。そういう仕組みになっていた。なかなか工夫をこらした市だったようです。

江戸に入った家康が浅川の扇状地に町を開く

編集部現在の町につながるような八王子はいつ頃つくられたのですか。

馬場秀吉の小田原攻めで、天正18年(1590年)に北条氏の支城であった八王子城も落ち、その後、徳川家康が江戸に入り、八王子の宿ができた。八王子城は、現在の市域の西の丘陵地にあった山城でした。

八王子は丘陵に囲まれた盆地ですが、現在の市域は浅川という多摩川の支流の流域全体に広がっていて、多摩の中で最も大きな市域を持っています。

浅川のつくった扇状地の荒れ地に町を開いたのは大久保長安です。そういう立地の選定のよさというか、そこの旧扇状地がしだいに町の中に取り込まれて、宿場、市場が大きくなるという、近世初頭における宿、市の成立が八王子のその後の歴史を決めたと思うんです。

甲州口の警備として置かれた千人同心

八王子千人同心「長槍水打の図」 『桑都日記』から 八王子・極楽寺蔵

八王子千人同心「長槍水打の図」
『桑都日記』から 八王子・極楽寺蔵

編集部江戸時代の八王子には、千人同心という人たちがいたんですね。

千人同心は小人頭[こびとがしら]にはじまります。八王子城が落城し、その直後に家康は甲州の小人頭を八王子城下に配置します。甲州からの出入口は9口あり、小人頭はそこの警備を担当していた。その9人の小人頭と、同心250人を八王子城下に配置し、治安の維持に当たらせました。

以後、しだいに人数を増やしていき、小人頭を10人にする。同心も500人にする。そして文禄2年(1593年)には城下の元八王子から千人町に移し、甲州口の西の守りを固めます。そして代官大久保長安のとき、500人を1,000人にし、名実ともに千人同心になりました。それが、1600年の関ケ原の戦の1年前の慶長4年です。

大久保長安が千人同心をつくって甲州口の守りにし、その統括もしていたということです。

馬場徳川家康が江戸に入ったときに、甲州は秀吉側の領地になるんです。それまでは駿河、甲州は家康が持っていたんですけれども、それが取り上げられて、関東が家康のものになる。そうなると、小仏峠をはさんだ江戸と甲州とは緊張した関係になる。家康が実力をつけているとは言え、とにかく政権は秀吉が持っていたわけですから、そこの防衛が一番大事でした。それが千人同心の置かれたいわれです。

西川江戸と山梨との間ですね。軍事的にも経済的にも八王子はその中間点に位置していたんだろうと思います。

千人同心は普通の武士とは違い、半農半士です。日常は農業をしていて、事が起こった場合には弓矢をとって戦う。10人の千人頭は千人町にいましたが、多くの同心たちは八王子を中心として、北は埼玉県の飯能のあたり、南は相模原、東は三鷹、西は相模湖の向こうの藤野といった地域に分布していた。そういう体制ができていたんです。

ところが、平和な時代になると、千人同心の本来の仕事はなくなる。慶安年間には新しい役目として日光の火消しを命じられます。

その後、日光勤番は寛政改革によって人数が減らされ、千人頭1人、同心50人が半年交代で日光に行き、警備の役目をしていました。

八王子の文化を生んだ千人同心

馬場千人同心は、最終的には文化活動にいそしむようになります。日光や江戸の火の番で大変だったようですから、時間は余りなかったと思いますが、その中から文化人も生まれてくる。それが江戸時代後期の八王子の文化を生んだのだと思うんです。

千人同心の中には、学問に非常にすぐれた人物がいた。蘭学者も出てきます。

『武蔵名勝図会』の著者の植田孟縉[もうしん]は、千人同心の1人です。「憲政の神様」尾崎行雄が生まれたのは津久井の又野ですが、この植田孟縉の娘が散田の峯尾家に嫁ぎ、その息子の行正が津久井郡の又野村の尾崎家の婿に入ります。そして生まれた長男が尾崎行雄です。

馬場『武蔵名勝図会』は孟縉の主要な著作の一冊で、『鎌倉攬勝考』『日光山志』といった著作もあります。『鎌倉攬勝考』は、鎌倉の地誌としては現在でもよく使われています。江戸時代の初めに水戸光圀が水戸藩の力で鎌倉の地誌『新編鎌倉志』をつくりましたが、それに並ぶような著作です。そのほか『新編武蔵国風土記稿』の「多磨郡」の部などの編さん・著作にも携わっています。

塩野適斎 八王子・極楽寺蔵

塩野適斎
八王子・極楽寺蔵

先ほど話に出た『桑都日記』も千人同心の塩野適斎がまとめたものです。これは八王子や多摩地方の近世史を考える場合の必読の書です。そういう文化活動が最近注目されてきて、彼らの著作は、八王子や多摩の近世史あるいは中世史までさかのぼって考えるときの貴重な史料とされています。

植田孟縉と塩野適斎は千人同心の中の碩学で、研究者、学者であったと見て間違いありません。植田孟縉は絵が大変上手で、渡辺崋山に絵を学んでいます。『日光山志』の中の絵は渡辺崋山の影響があるんじゃないかと思っています。

鎌倉古道などで東海道筋と結ばれていた

幕末の鑓水 (八王子へ向かう道)  F・ベアト 横浜開港資料館蔵

幕末の鑓水 (八王子へ向かう道)
F・ベアト 横浜開港資料館蔵

編集部八王子を通る道は、かなり昔からいくつもあったんでしょうか。

武田信玄は、永禄12年(1569年)に小田原攻めを行ないます。信玄は甲府をでて、韮崎、佐久へと北に進み、碓氷峠を越えて安中を通過し、北条氏邦の鉢形城を包囲します。次に一気に南下して八王子で氏照の居城の滝山城を攻める。ところがそれが落ちなかったので、さらに南の小田原の方に下っていった。その道が小田原道です。途中の相模原市に、縄文時代の勝坂式土器で有名な勝坂というところがあります。そこでときの声を上げ渡河したところから、この地名が生まれたと言われています。

いま一つは鎌倉街道です。これも大変重要です。片倉で小田原道から分かれ、鑓水[やりみず]峠から鑓水に入り、町田の方向に行く。これが鎌倉古道で、『新編武蔵国風土記稿』の片倉村のところに、「村内に相州へ通ずる一條の往来あり、南の方上相原村より北の方杉山峠を越て、相州橋本村に達す、道幅二間より三間に至る、又鎌倉古道と云一條あり、是は鑓水峠をこえて小山村の方へ通ぜり、中ほどにては今の相州道を合せり」とあります。杉山峠は今は御殿峠と言われているところです。

編集部八王子は、平安時代後期に、武蔵七党の一つである横山党が興ったところですね。多摩の横山から鎌倉へ出てくる。

横山党は鎌倉時代にかけてこのあたりに割拠した武士団です。本拠地だった横山庄は八王子の南の部分と考えられています。畠山重忠を討ち取った弓の名手、愛甲季隆も横山党です。八王子の川口町の西のほうに鎌倉古道があります。その道には畠山重忠が駒をつないだという石が残っています。

馬場石には小さな穴があって、そこに馬のひもをつないだという駒繋石ですね。

鎌倉古道の一部が「絹の道」になるんです。

西川横浜が開港して初めて、八王子と横浜の関係ができたというのは違いますね。恐らく鎌倉時代以来の交流がある。

南に下っていく、明治になって八王子道と呼ばれる道があります。平塚から厚木を通り八王子に達する道で、さらに北へ進んで、川越古道となります。東海道筋との交流があって、例えば海産物を運んだのではないですか。

神奈川・八王子のルートが江戸問屋を脅かす

西川近世になると、流通していたのは海産物だけではないと思うんです。「旧幕府引継書」などをを見ますと、江戸の問屋たちが、浦賀と神奈川湊の商人を訴えることが非常に多いんです。

しょう油とか塩、肥料といったものについても、神奈川で揚げるなと言っている。江戸問屋がそんなことを言うのは、本来なら江戸問屋が扱って内陸へ送るべき商品を、一気に浜街道(横浜道)を通って八王子に持って行かれてしまうからです。神奈川の宿場の商人が、浜街道を使って、西国の商品を八王子まで持って行く。八王子は北方地域の埼玉県側とも、西の甲州ともつながりがあって、かなり広い流通圏を持っていますから神奈川・八王子ルートは江戸問屋の権益を侵してしまう。それで江戸問屋が怒る。それほどの機能を持っていたと考えたほうがいいと思っています。

馬場海産物とか、干鰯の流通のルートは、横浜道ではなくて、鶴見川沿いの道が使われていたようです。

『新編武蔵国風土記稿』を見ますと、生活の面では、原町田ぐらいまでは、まだ、直接神奈川とのつながりはなくて、浜街道の中間点ぐらいに位置する鶴間村では、江戸の後期、延享三年に、「買物は江戸又ハ神奈川ニ而調之申し候」と書かれていますから、日常生活でも行き来があったようですね。ただ、商人の関係としては八王子と神奈川は直接結びついていたとは思うんです。

西川恐らく明治になってもその機能は残っているんだろうと思います。貿易との関係で生糸ばかりに焦点が当てられますが、鉄道ができるまでの間は、流通ルートとしては八王子の役割は生糸だけではなくて、ほかの商品についても、東海道沿いの地域と、甲州、江戸・東京と呼ばれる地域とのターミナルとして再評価をしたらおもしろいかもしれないですね。

横浜の開港によって近代的な経済関係のルートに発展

幕末の神奈川湊 ガワー 横浜開港資料館蔵

幕末の神奈川湊
ガワー 横浜開港資料館蔵

西川東海道沿いの神奈川と八王子の関係も、恐らく江戸時代からあって、江戸との関係だけではなく、神奈川湊との関係も非常に大きな意味があったと思われます。

横浜の鶴見あたりでは、江戸時代の後期に、甲州道荷物扱という商売が出てきます。それは、明らかに八王子を経由して山梨の林産品を持ってくる。あるいは神奈川湊に入る西国の商品が、横浜ルートを使って八王子を経由していく。そういったターミナルの場所として、八王子は横浜市域と関係を深く持っていた地域で、山梨の甲府あたりの調査をしても、八王子との経済関係はものすごく強い。さらに八王子を経由した江戸と神奈川という関係も強いんじゃないか。

さらに言えば、戦国時代の段階でも、小田原に本城を構える後北条氏の重要な拠点である八王子城があり、それとの間に小机城を置いて、そこを結ぶ関係で神奈川湊は非常に大きな意味を持っていたと思われます。

その神奈川湊の横に、開港後、横浜という大きな国際港ができ、前近代の関係が国際貿易という近代的な経済関係に変わり、それまでのルートを使って、さらに発展していくんだろうと思います。

横浜道は数多くあった「絹の道」の主要な一本

編集部生糸の流通ルートになるのは開港後ですね。

西川原善三郎、茂木惣兵衛、吉村屋幸兵衛といった横浜の大きな貿易商が、奥州糸、信州糸、武州糸などを全国的に集めるんです。八王子も大きな集荷市場の一つなので、開港直後から、こういった売込商、つまり外国商館に日本の商品を売り込む商人たちが八王子に乗り込んでいきます。特に1860年代に入ると、そういった大きな貿易商との関係を八王子は非常に強めてきます。

一時期、上州糸も奥州糸も全部が八王子に集まって、日本最大の生糸の道がここだったという話がつくられたことがあり、いまだに「前橋から全部八王子に持ってきた」みたいな話をされることがあるんですが、恐らくこれは間違いですね。ただ、甲府あたりで調べてみると、上州糸が一部分、山梨あたりにも入っているんです。これは、買い集めてきて、甲州糸として出荷されたんじゃないか。量からいくと、八王子を通ってくる生糸は、割合としてはやや低いんだろうと思います。

「絹の道」の誕生から、誤解を生じている部分があると思うんです。この名称がいつどのように生まれたかということなんですよ。

西川いつなんですか。

昭和30年代です。「絹の道」の名は、橋本義夫さんが書かれた『鑓水商人』が最初です。橋本さんは「ふだん記」運動の指導者で、郷土史上の無名の人物を発掘して、石碑をつくるという運動を展開していたんです。

昭和27年に、裸麦の新しい品種をつくった河井宗兵衛の裸麦の頌徳碑を建てる。28年には、困民党首領塩野倉之助という碑を、29年には散田の真覚寺に万葉歌碑を建てられたんです。

「絹の道」の石碑

「絹の道」の石碑

『鑓水商人』は、生糸を買い集めて横浜へと運んで売った鑓水の商人について書かれた冊子です。その最後の部分にこう書いてあるんです。「横浜街道、道了様のそばの最も眺望の良いところへ、「絹の道」と、風雅な文字で書き、名勝の石標でも建て、鑓水商人を記念し、多摩丘陵の名所にしたいものである」。

そこでその話がどんどん膨らんでいくのです。

西川地元の顕彰ということだったんでしょう。

そうですね。それで昭和32年に「絹の道」の碑ができる。その年にはキリスト教の先覚の碑というのもできますから、橋本さんの活動の一つだったわけです。

ところが、それから間もなく、日本のシルクロードの研究者が郵政賃金表から、信州・上州から八王子を経て横浜のルートを究明し、さらに、『アサヒグラフ』の取材で、信州から甲州から生糸の輸送ルートを調べていた人が、鑓水に来てびっくりするわけです。そこに「絹の道」という碑があるものですから、「我、幻の碑を見たり」となる。このように「絹の道」の碑に関心が集まり、ここだけが生糸の輸送ルートと誤解されてしまった。

西川全国の生糸を集めたとは、どこにも書いてないわけですね。

馬場生糸を横浜に運んだ数多くのルートの中の一本、しかし、主要な一本だった。

西川主要な一本であることは間違いないです。

「絹の道」は木の葉の葉脈のようにあるんです。橋本さんもそう言っています。

明治30年に外国人記者が記した「シルク・ロード」

鑓水の「絹の道」

鑓水の「絹の道」
(八王子市指定史跡)

ところで、私も「絹の道」という言葉を発見したんです。明治30年、津久井の青山村に横浜水道の取入口が新しくできるんです。そこで50人ばかり関係者を呼んで開所式を行ないました。その中にイギリスのジャパン・ウィークリー・メールの記者も横浜からやってきた。

その記者は、まず八王子に一泊しますが、八王子まで3時間かかった。翌日、そこから馬車に乗り、新しい街道の甲州街道、小仏峠ではなく、大垂水の山下というところに行くんですが、途中で馬車が壊れて歩くんです。実はこの道はいま一つの養蚕地帯である甲府と結んでいて、まさに「シルク・ロードだ」と記者は書いているんです。橋本さんが昭和32年に「絹の道」という名前をつけるずっと前、明治30年にイギリス人が「シルク・ロード」と書いているんです。

甲府のほうからくる生糸が鑓水を通る。御殿峠が新しく開発されるので、鑓水を通るのはそんなに長くはないと思うんですが、明治20年あたりまでは鑓水を通っていく。

西川開港直後、「五品江戸廻送令」が発令されたときに江戸に生糸の流通量を改める施設ができます。ただ、もう一つ、神奈川宿にも設けなさいと幕府は言います。それは、江戸を経由しない生糸があるから神奈川宿でもやらなければいけないということなんです。甲州街道と横浜道は主要な生糸流通ルートの一つであることは間違いないと思います。

馬場武州糸は大体八王子を通ったと思います。甲州糸は八王子経由あるいは津久井経由、もう一つは山越えで青梅街道を通って玉川上水を船で運ぶルートも一時あったようです。信州糸は、諏訪や高遠からは、やはり甲府に出て今のルートに行ったものと、高遠から名古屋に出て船で横浜に行くルートもあったということです。松代方面からは中山道で、倉賀野(現高崎市)の河岸から利根川です。奥州糸や上州糸も利根川ルートのほうが重要だった。

明治2年10月の記録があります。この年は非常な凶作で、10月には食べ物がなくなってしまう。このとき津久井の一番西の方の三井とか千木良の農民たちが、相模川の北側に、横浜に通ずる、馬や牛が通れる短距離ルートを開発しようと言っています。久保沢(現相模原市城山町)に通じて、さらに橋本を通り、そして原町田から横浜につながる新しい道ですね。この道の開削に従事して日銭を稼ぎたいということだったと思いますが、このような横浜への道が考えられるのです。

甲武鉄道が新しい「絹の道」に

明治22年4月に甲武鉄道の新宿・立川間が、さらに、その年の8月には八王子まで開通します。それ以降は、甲州や信州から集まった生糸は、八王子からは甲武鉄道を使ったと考えられます。甲武鉄道で新宿まで行き、新宿からは現在の山手線のルートで品川、そこから東海道線で横浜へ運びます。八王子から横浜道を使うということはしなくなった。

甲武鉄道を使ったのは、一刻も早く運びたいということです。八王子・新宿間の所要時間は2時間でした。先ほどのイギリス人記者が3時間かかったのは、新宿で50分待たされたからです。

そのイギリス人記者は、甲州街道は非常に壊れていたとも書いています。明治30年ですから、その原因は、新しいシルク・ロード、つまり鉄道の工事のさなかだったんです。中央線の八王子・甲府間の工事が明治29年に始まり、34年に八王子から上野原まで開通する。その2年後の36年には甲府まで延び、38年には信州まで入る。中央線は生糸商人たちの要求によって、そちらに向かっていくわけです。その後、甲武鉄道は国有化されて、現在の中央線になるわけです。

馬場簡単に振り返りますと、1859年に横浜が開港して、1876年(明治9年)に浜街道の鑓水峠越えのルートが神奈川県の県道となります。そして1889年(明治22年)に甲武鉄道が開通して、この頃からは鉄道のほうが主力のルートになります。翌年の1890年(明治23年)には御殿峠道、先ほどの杉山峠越えの道が大改修されて、それが横浜街道と正式に呼ばれるようになった。

1903年(明治36年)、もうこの頃は、三多摩東京府に編入されていましたが、浜街道は補助道となり、1906年にはそれもなくなり、里道に格下げされてしまった。

期待ほどには機能しなかった横浜鉄道

「横浜鉄道線路全図」 (部分)

「横浜鉄道線路全図」 (部分)
明治41年 横浜開港資料館蔵

馬場明治41年に、豪商たちの運動もあって横浜鉄道(東神奈川・八王子間)が開通しますが、すでにその頃は浜街道沿いのルートはほぼ役割を終えていたと言えるように思います。

横浜鉄道は、商人たちが期待していたようには生糸を運ばなかったんじゃないかと言われております。

馬場そうです。横浜鉄道はせっかくできたにもかかわらず、当初の目的の機能を果たしたのはごくわずかな初めだけ、あるいは当時もそれほど大きな役割を果たせなかったというのが実情ではないかと思います。横浜鉄道はのちに横浜線になり、今年で開通から100年になります。当時の遺産ですね。

西川横浜鉄道が生糸で余り使われなかった理由は、東神奈川での積みかえの問題が大きいですね。横浜までダイレクトに入れない。

馬場甲武鉄道のほうが便利に使われたんでしょうね。

器機製糸の導入で最高級の輸出用生糸を生産

西川八王子は生糸の生産地としてはどうだったのですか。

馬場平安時代の『延喜式』に、絹をつくる国が上糸国、中糸国、麁糸[そし]国に分けて記されています。関東は麁糸国といわれ、かなり粗っぽい絹ばかりつくっていたようです。技術面でも遅れていたことがうかがわれます。

戦国期以降、関西では木綿の生産が盛んになり、養蚕・製糸はしだいに東国のほうに移ってきて、近世以降、東山道沿いに東山養蚕地帯が形成されます。その中で開港を迎えたので、東日本一帯の山地に広がっていた養蚕業は、生糸輸出の期待にこたえられたのだと思います。

ただし、八王子のものは特に優れているというよりも、むしろ下等のほうです。

西川そうですね。近代になっても、値段がやや低いようです。輸出用の生糸は節がないほうがいいんですが、江戸時代ではある程度節があったほうが味があるということはありませんか。

津久井で生産されている川和縞[かわわじま]という織物は紬で、糸が均一でない。それに味があるのでしょうが、よそ行きではない。普段着にするのが川和縞の織物でした。

それから、八王子織物はもともとは男物が中心だったんです。女物に変わっていくのは大正時代なんですが、八王子の織物はご婦人が着るには非常に地味なので、本妻には八王子の織物を着せろという諺があります。(笑)

神奈川権令野村靖が器械製糸の導入を要請

馬場明治になると、富岡の製糸工場からの技術指導なども受け、技術改良や品質の改善ができたようです。

糸の検査をする生糸改会社が明治6年に八王子にもできます。それから八王子の生糸を何とかしなければといったのが神奈川権(県)令の野村靖です。明治10年に八王子の生糸商人を集めて、質の高い器械製糸をつくってほしいと要請する。その頃の八王子は神奈川県でしたので。それにこたえて萩原彦七、田代平兵衛、萩原半蔵、矢島文七らが器械製糸を導入します。

馬場八王子初の器械製糸工場が萩原製糸場です。

小島製糸は、萩原製糸で学んで、明治21年に元八王子に工場をつくります。こうして次々に、器械製糸で生糸を生産していきます。

萩原は工場を次々に大きくしていくんですが、明治34年に片倉製糸に買収されてしまいます。

西川明治12年の各生糸の価格を調べたことがあります。全国で全部で39種類あって、1個あたりの価格でトップは上田の器械糸で725ドル、八王子器械糸は4番目で701ドルです。低いほうは500ドルぐらいですから、明治12年には、県の後押しで新たに導入したような器械糸は、全国でも最高級のものを八王子でつくっている。しかし、同じ時期、江戸時代以来のつくり方の八王子糸は39のうち37番目です。つまり、八王子では器械糸と、旧来品との品質に格段の差ができていた。

編集部輸出のために品質向上を図ったわけですね。

西川そういうことです。明治5、6年ぐらいから外国側が日本の旧来の製法の生糸は品質が悪いということを盛んに言い、国が中心になって生糸改会社をつくって品質向上を働きかけるんですが、八王子も敏感に反応したんじゃないでしょうかね。

鑓水商人が売込商になれなかったのは扱う生糸の量の問題

馬場横浜に生糸を運んだ鑓水の荷主商人たちは、一時期華やかな活動をしますが、なぜ彼らが売込商の役割まで果たせなかったのかというのが私は疑問なんです。

西川これは量の問題だろうと思います。上州出身の売込商たちが血縁・地縁を利用して大量の生糸を集めます。売込商は仲介手数料で経営が成り立っていますから、より多くの生糸を集められる商人が外国商館とより有利な関係を結べる。

幕末の鑓水 F・ベアト 横浜開港資料館蔵

幕末の鑓水
F・ベアト 横浜開港資料館蔵

当時は、外国商人と取引する権利を持っている特定の売込商が全部取り扱っていましたから、彼らの側から言えばどこから生糸が入ってきても同じなんです。八王子でも山梨でも、東北でも上州でも変わりはないわけです。鑓水の商人は荷主として、基盤のしっかりしている吉村屋とか野澤屋といった上州出身の売込商に生糸を持ち込み、それが外国商人に売られる。横浜ではそういうことが起きていたんだろうと思います。

馬場鑓水の南に浜見場という高台があるんです。そこから直接は港は見えないんですが、のろしのような合図で相場を知らせれば、すぐその日に出荷できます。あるいは値が下がったら見合わせる。そういう連絡ができて、近場の利益で、荷主としての活躍だけで何とか賄えるということもあったんじゃないかなと、勝手な想像をしていますけど。

西川それはあるでしょうね。外国で戦争が起きれば、生糸の値はあっという間に下がります。そこで集荷を調整するのは、距離が近いからできるということで、その点は当然有利だったでしょう。

横浜から八王子へは西洋文化が

馬場明治26年(1893年)2月の東京府及び神奈川県の境域変更法で三多摩は神奈川県から東京府に編入され、現在も東京都下ですね。これは横浜と八王子との関係では、たいへん大きな出来事だった。

横浜市の北端に高尾山(緑区)という100メートルほどの山があります。そこは浜街道の中間点にあたり、武相の中間にある。そこから相模原の台地越しに八王子の高尾山がよく見えます。そういうところにも高尾山信仰を通じて八王子と横浜のつながりがある。これはほんの一例ですが、武相の広域な範囲の中で両都市の関係を考えてみたいですね。

きょうは、八王子から横浜へ運ばれた生糸の話が中心でしたが、逆に、横浜から多摩地域へ入ってきたものも重要だと思っているんです。それは文化です。

まずキリスト教では、横川町出身の塚本五郎が横浜へ行ってサン・モール会で仕事をする。そこで明治8年に洗礼を受けて、それから東京に行き、片倉に帰って水車式精米所を始めます。その塚本家が八王子のカトリックの中心になるんです。

それから文芸では、福生の森田友昇[ゆうしょう]が、横浜の有名な生糸商人、芝生村の芝屋清五郎のところに勤めます。

西川芝屋は大量の甲州糸を扱い、八王子や甲州と深い関係がありました。

芝屋清五郎の支配人になり、明治になって独立し、海産物と生糸を扱ったようです。そして明治11年に生糸関係者たちの推薦により、江戸時代からの八王子近辺の俳諧の拠点である松原庵の四世を受けるんです。彼は『横浜地名案内』という本も書いていて、墓は保土ヶ谷の見光寺にあるそうです。これも八王子と横浜との関係ですね。

編集部長時間どうもありがとうございました。

沼 謙吉 (ぬま けんきち)

1932年八王子市生れ。
共著 『わが町の歴史・八王子』 文一総合出版 (品切)ほか。

馬場喜信 (ばば よしのぶ)

1937年東京都生れ。
著書 『浜街道「絹の道」のはなし』 (かたくら書店新書) かたくら書店 1,000円+税、ほか。

西川武臣 (にしかわ たけおみ)

1955年愛知県生れ。
著書 『横浜開港と交通の近代化』 日本経済評論社 2,500円+税、『幕末明治の国際市場と日本』 雄山閣 5,800円+税、ほか。

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