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有鄰


平成11年5月10日  第378号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○インタビュー 永井路子 歴史小説の周辺 (1) (2) (3)
P4 ○ロシア文学は今  水野忠男
P5 ○人と作品  中島京子と『だいじなことはみんなアメリカの小学校に教わった。』   藤田昌司

 インタビュー

永井路子 歴史小説の周辺 (2)


 

  文句なくその時代を語る考古学の成果

永井  それと、重要視すべきは考古学の成果ですね。出土したものは、文句なくその時代を語っていますから。 例えば『氷輪』という小説の中では、唐招提寺の講堂の発掘のときに見たんですが、 礎石が薬師寺と全く違う。薬師寺は国の力で建てているから一つ一つの礎石が大理石でちゃんと彫刻がある。 ところが唐招提寺のは、本当にサイズの違う石を持ってきて、ここに置くという感じで。

  しかも、唐招提寺の前には何があったかということに興味を持ち、いろいろな先生方のご研究を拝借すると、 唐招提寺は鑑真が来たときにはまだできていない。講堂は少なくともできていなかったということで、 鑑真はどういう待遇を受けたかが、そこでわかってくる。ですから、 考古学的なものも、これからは非常に重要になると思います。

編集部  先生には、このほかに『源頼朝の世界』や『歴史の主役たち』などの史論的な作品もありますが、 『北条政子』などを原作にNHK大河ドラマ「草燃える」が放映された後は中世から古代へと小説の舞台を移されました。 これは中世を執筆されるときに確立された方法で、次は古代をみてみようというお考えもあったんですか。

永井  鎌倉時代のことは、もちろん『吾妻鏡』が基本になりますから、本当に表紙が擦り切れるまで読みました。 最近、家のなかを整理していたら、『吾妻鏡』を書き写したノートも出てきました。 私は小説を書くときに、まず最初に詳しい年表をつくり、系図を丹念に調べます。 そして史料を読み込んでいく。中世のものを書くときに、その方法を使いましたが、 古代を見るときも同じですから、そのとおりかもしれませんね。

編集部  史実が少ししかわからないほうが、想像力がふくらんで書きやすいということはありませんか。

永井  私の場合、年表が厚ければ厚いほどいい。

編集部  ご自身でおっしゃっているように、「史料の上を虫が這うように」史料を調べた上で、 作品をお書きになるわけですね。


気になる人びと ──外国との触れ合いで見えてくる日本人像

編集部  『別冊文藝春秋』に「気になる人びと」を発表していらっしゃいますね。

永井  私もだんだん年を取って、もう幕引きだと。 これは二、三年前からわめいていまして、こういう仕事は自分で幕引きをしないと、老醜をさらすと思っているんです。 私自身は、歴史小説をやっていますから、「あの辺があの人間のピークだったな」とか、 「あれは生き過ぎたな」(笑)とか、つまり、人のこととしてはかる尺度みたいなものが、 いつの間にか自分の中にできて、その物差しを自分にあててみると、「もうこれが最後だよ、 観念しなさいよ」ともう一人の永井路子がいっているような。

  それから、五十年たつと、いろいろ歴史も変わってきます。 戦後の歴史のために私のいいたいことはいいました。 ある意味では、現代から見て、その歴史がどうだったかということを、私は思い続け、書き続け、 そして年老いたという気がしています。 もし違う歴史小説が出るとすれば、今度の戦後五十年を過ぎてからだと思うし、 それは次の方がなさることです。

  最後に、少しずつ書きためたのが、もう少しで一冊にまとまるかなという感じがします。 一つは言い残したこと、それからもう一つ、私は自分と関わりのある人のことは書いてきませんでしたが、 この辺で書いておいたほうがいいかなと。いろんなものの寄せ集めですが、いってみれば、 「気になる人びと」で、今まで四人を書きました。それを通観すると、 不思議なことに外国との触れ合いをした人ということになってくる。


空海─中国で何を見たか

永井  例えば空海は海を渡って中国に行った。そのときに見たものは何だったのか。 そこにあっても見なかったものもあるんではないかということが一つ。 それから空海という人は非常に伝説に包まれているので、例によって、その伝説をはぎとっていくと、 どういうことになるのかということを書いています。

  空海と同時代に、中国では白楽天(白居易)がいますが、どこかに接点があるのかどうか。 調べてもわからないんですが、この辺は、本にするときにもう一度調べてみたい。

  空海の詩はどうもよくわからないんですが、長い文章は極めてクラシックです。 唐の文章というよりも、もう少し前の四六駢儷(しろくべんれいたい)的なものがあったり。 文化人とはどういう接触をしたのか、しなかったのか。阿倍仲麻呂と李太白がつき合っているのは、 詩のやりとりでわかるのですが。

  空海が行くのは、ちょうど密教が滅びる直前です。百年後だったら、空海は禅宗に行ったかもしれない。 つまり中国では、密教はもう否定されかけている。かろうじて生き残っていた恵果(けいか)阿闍梨から空海が伝授を受けている。

編集部  不思議ですね。

永井  はい。空海は天才で不世出の偉人だといわれて、そのあたりがぼやかされている。 伝説のヴェールをはいでいくのは私のいつものやり方ですが、例えばいろは歌は空海の作ではない。 もう少し時代が下がるはずだし、逆にいうと簡単につくれる。天才がやることではない。 だから空海がいろは歌をつくった、すごいというような祭り上げ方はもうやめたほうがいい。

 

  孤独を味わえたことは宗教家として幸せ

永井  密教も非常に難しいんですが、空海が生涯何を思っていたか。ある意味では宗教家というのは孤独です。 最澄も孤独だと思う。最澄の孤独さは、涙がこぼれるようなところがありますが、 その孤独を感じることが宗教家ではないかと、私はこのごろ思い始めています。

  キリストも、死ぬときは孤独です。弟子に背かれる。 そしてキリスト自身も、一度は神よ、我を見捨てたもうかという叫びを十字架の上であげる。 その後にすべてを許し、神にすべてをゆだねますといって死んでいくんです。

  空海、最澄にも同じようなつぶやきがある。もう自分は力は尽きているというつぶやき。 しかも最澄は、自分のために経を読むことも塔をつくることも要らない。 ただ、我が志を述べよといって死んでいく。これは宗教家としてはすごいことです。 しかし、孤独を味わえたことは、宗教家としては幸せなことですね。

 

  真の宗教家は何かということを見つめておきたい

永井  空海は、本当に人気があって、 流行作家のように「先生、あれ書いてください」「この追悼文を書いてください」と頼まれる。 そうすると断れない。まさに空海はそういう人のいいところもある。 それから偉いのは、有名な人だけでなく、つまらない人のためにも書いている。 それは決して力を抜かず、いい文章を書いている。

  「忙しくてたまらないよ」といいながら、最後に高野山に行って、入定するまで、 ある一種の孤独な時を持てたことは、これはやはり彼のためにいいことだ。 しかし、そういうふうには評価されていません。 みんなに持ち上げられ、天皇にも重んじられ、名文を書いて池を掘ったから偉いなんて。 池を掘るなどという土木事業は、誰だってできますよ。

  中国のお坊さんは、ある意味では建築家、土木事業家でもなければいけない。 例えば鑑真についてきた思託という弟子は八角の塔をつくることを命じられた。 これは実現しなかったけれど、それだけの建築技術、知識を持って来ている。 それはオールマイティーのものを身につけていることですが、本質はそれを身につけていることじゃなくて、 真の宗教家は何かということを見つめておきたいという気持ちがあるんです。


鷹見泉石──科学精神の土壌

永井  あとは、身近な人を書いているんです。私は東京に生まれ、子供のときから茨城県の古河で育っています。 古河藩に鷹見泉石(たかみせんせき)という家老がいます。 泉石の仕えた藩主は土井利位という人で、この人が『雪華図説』という雪の模様集を出している。

  今までの日本人の雪の絵は雪輪の模様で雪を表現した。 ところが、土井利位(としつら)は顕微鏡を眺めて、雪というのは六角の結晶だと初めて知る。 もちろん外国の文献も見ている。 それで初めて日本人に、雪の模様はこういうのだと教えたのが『雪華図説』です。

  しかも、百種以上の絵をかいて、版木におこして、将軍から大名仲間に配るんです。 情報の流れ方は速くて、それがたちまちにして浴衣の柄にまで雪華の模様が出てくる。 雪華模様の着物を着ている浮世絵もあります。それを、土井大炊頭(おおいのかみ)ですから、大炊模様 といって、一世を風靡したというんです。

  それは何かというと、オランダの顕微鏡に触れたことによって、そういうものができてくる。 その媒介者としては、鷹見泉石が非常に蘭学に関心を持って、みんな絵に写したり、 書き留めたりして海外情報をいろいろ持っていた。

  泉石の功績は、確かに政治的な情報、世界の動きを知っていたことです。 けれども、原点に戻ると、『雪華図説』的な物理学への興味があります。 土井利位が古河で顕微鏡で雪の模様を見て、そして彼は京都所司代になって、京都に行ってまた見る。 京都の雪も古河の雪も結晶の形は同じだというのを知る。

  その話をすると、みんなは笑うんだけど、物理的なものはみんな同じなんだということを、 自分の目で発見したという意味では、利位はなかなか面白いと思うし、それが結局物理学の第一歩です。

 

  根づかなかった土井利位、泉石の科学精神

永井  ところが、輸入されたのが余りに遅過ぎたのか、明治維新が早く来過ぎてしまったのか、 正当な意味での科学が日本に根づくことなく、その後の世代は軍需産業のほうに傾斜していく。 つまり西南雄藩の連中は、物理学ではなく、それを応用して大砲をつくるとか、実学のほうにいってしまう。

  私はこれが、明治維新後の日本にすごい影響を及ぼしているのではないかという気がするんです。 科学精神とは、いろいろな現象を冷静に見ることでしょう。 例えば歴史学とか、社会科学とかは、そういうものに支えられているわけで、 その点が明治維新は弱くて、急激に軍需産業、富国強兵、そして植民地獲得というふうに走ってしまう。 そのあたり、泉石、利位がどこで外国と接触したか、外国の知識をどう受け入れたかを、 もう少し見てみたいなと。

 

  渡辺崋山がかいた「鷹見泉石像」は一世一代の晴れ姿

編集部  鷹見泉石というと、渡辺崋山がかいた画像もありますし、親しい関係ですね。

永井  あのときは背景が非常に面白くて、大塩平八郎の乱から始まるんです。 大坂城代だった土井利位は、大塩平八郎に逃げられたというのでみんなに笑われたりしているんです。 その後、探索して、どこに隠れていたのかがわかるんですが、これも古河藩と実は関係がある。

  古河藩は飛び地として大坂の平野に領地を持っている。 その平野郷のある娘が、大坂に奉公に出る。 そこの商家の旦那さんが、神様に供えるからお膳を持ってこいというので持っていく。 それを下げてくると空になっている。 神様が食べるわけがないのにおかしいというので、平野郷のうちに帰って話すと、そこのおやじさんが、 これはおかしいと泉石に通報する。そして、そこに踏み込んでとらえようとするんですが、自殺してしまう。 隠れ家は小さなうちですから、六尺棒では振り回すには長過ぎるので、六尺棒を半分に切ったのを持って飛び込む。 その総指揮官が泉石なんです。

  そこで城代に、よくやったということで幕府からおほめの言葉がある。 その後、幕府へ報告に行くんですが、城代は動けないので泉石がかわりに行く。 泉石は家老職ですから陪臣です。せいぜい裃(かみしも)。 ところが殿様の代理だというので、大紋を着て、折り烏帽子で幕府に言上して、 それから浅草の誓願寺という土井家の菩提寺へ行って報告して、帰りに渡辺崋山の三宅坂の邸に寄る。 いってみれば、一世一代のフロックコートなんですよ。

編集部  記念写真みたいなものですか。

永井  そういうことでしょうね。だから、これは記念すべき、我が一世一代の晴れ姿であるというのでかいてもらう。 渡辺崋山は西洋画の技法で、陰影を用いてかいているので、むしろ、モデルはどうでもいい。 渡辺崋山の西洋的技法が入っているというので国宝になった絵なんです。

 

  捕えられた崋山を助けたくても動けなかった泉石

永井  崋山と泉石は蘭学のつき合いがあって、泉石のところには、崋山が幕府の忌諱に触れて、 蛮社の獄で捕えられた原因となった『慎機論』の写しがあるんです。

  ただ、それにしては泉石はどうして崋山を助けなかったか。 実に冷たいやつだと、不評判なんですが、彼の殿様はとにかく老中です。 それで鳥居甲斐守が泉石も怪しいと探索している。 それを土井利位が聞きつけ、「おまえの身辺を探索しているから、気をつけろ」というような情報を送る。 そこで泉石は動けない。泉石がひっくくられると、利位まで累が及ぶ。 苦しいと思いながら、自分は渡辺崋山を救出する運動はできない。 裏からは援助はしているんですが、表立っては動けない。

  外国に行ったのではなく、外国と接触して何を得たか、得なかったかという問題を、 ちょっとやってみたいというのが泉石だったんです。


五姓田義松と渡辺幽香

永井  逆に、五姓田義松(ごせだよしまつ)のほうは外国に行く。

編集部  浮世絵師の五姓田芳柳(ほうりゅう)の子で横浜でチャールズ・ワーグマンに学んだ洋画家ですね。

編集部  義松の研究をしておられる神奈川県立歴史博物館の横田洋一さんのところに伺いました。 義松に個人的なつながりがあり、夫の黒板伸夫の母親が井上さきといい、結婚して黒板さきですが、 さきの兄の井上定次郎の奥さんが義松の姪なんです。井上家に来てから八重という名前になっています。 その人のお母さんが渡辺幽香という明治の初期の洋画家で、義松の妹です。 母の黒板さきが、時々「義松さんはね、フランスに行って失恋して、おかしくなったんだ」という。 私は明治の絵かきさんなんて関心がなかったから、「ああ、そうですか」と聞き流していました。 でも一応、五姓田義松という名前は覚えた。ところが後になって義松について興味が出てきましてね。

  それで横田さんの推理によるんですが、義松の「西洋婦人像」と裸体画のモデルが同じ人なんです。 恋人はこの人じゃないか。



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