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有鄰


平成14年2月10日  第411号  P2

 目次
P1 P2 P3 ○座談会 中世の魅力を語る (1) (2) (3)
P4 ○アイデアの世界遺産一齣マンガ  牧野圭一
P5 ○人と作品  峯崎淳と『大欲−小説 河村瑞賢(かわむらずいけん)』        藤田昌司

 座談会

中世の魅力を語る (2)


 

  同時代人の目線で中世人の心を考える

大隅 つまり、何に対して親鸞なり法然なりを比較するかということが、余りされてなくて、歴史の中にどういうふうに位置づけるかという論が立てられないんです。だから、何とかして土台の部分を考えなくてはいけない。私は学生のころからそういうことを考えていました。

それで、無住(むじゅう)というマイナーな宗教者がいるのですが、その無住に聞く形で、今回は書きました。無住は一宗派に所属しないで、いろんな所を渡り歩き、思想としては浅いのですが、自分が見られる範囲でいろんなものを見て、それを説話に書いた。

篠崎 それが『沙石集(しゃせきしゅう)』など、いくつかの作品になっていくわけですね。

大隅 そうです。それで同時代人の目線で見た中世の宗教というのはどんなものだったのかを、あまり難しく考えないで単純に紹介してみるのも意味があるのではないかと思い、宗教改革論みたいな事がらは別にして、中世のことを考えたいと思ったのです。


特定の宗派を選択(せんじゃく)することに反対した無住

篠崎 無住という名、一般的にはあまり知られていませんね。

大隅
無住像 (名古屋市・長母寺蔵)
無住像 (名古屋市・長母寺蔵)
無住は梶原景時の子孫だと言われています。証拠は何もないんですが否定するような材料もないし、梶原の一族だと考えれば都合よく読めることが多いのです。

梶原一族が頼朝に滅ぼされた二十六年後の嘉禄二年(一二二六)に鎌倉で生まれています。とても貧乏だったらしく、あちこちを転々として、南都にも京都にも行くのですが、それが面白いところだと思うんです。

鎌倉を出て、常陸あたりに行ったけれども、そこも何となく住みづらい。奈良、京都に行ってもだめで、結局、尾張に住み着くわけです。ですから、京都と鎌倉の中間の尾張で、五十年ぐらいの年月を過ごす。そういう所で見たものを『沙石集』に書いているんです。

篠崎 無住は最初に、鎌倉の寿福寺に入ったんでしょうか。

大隅 そこで最初に文字の読み書きを覚えたわけです。

五味 それで、禅の修行をしたんですが、どうもうまくいかない。

大隅 結局、基礎をきちんとやってないから、何をやってもみんな挫折するんです。一時は律宗に傾いたけれど、共同で何か事業をやると、いつも仲間外れになって、やめてしまう。それから座禅に憧れて座禅をしたのですが、脚気になって座れなくなり、それもあきらめる。

だから、結局、特定の宗派に属さないわけです。たくさんある仏教の中で一つだけ選んで、それを簡単にして、例えば念仏を唱えれば救われるとか題目を唱えればいいんだというので宗派ができる。それを選択(せんじゃく)と仏教史で言うんですね。無住はそれを偏執(へんしゅう)といって終始反対する。人々を救おうとしている点ではどの宗派も究極は一つで、補い合えばいいと。

『沙石集』は、無住が説法する際の手控えみたいなものですが、読者は無住と同じような坊さんですから、難しい専門用語なんかを使っています。無住が書いた本は一生懸命写され、回し読みされた。だから、『沙石集』は無住と似たような説教師が喜んで読むような格好になっています。

それと、自分も少しは仏教を勉強したんだというので、ちょっと教義めいたことも書いてある。これらが積み重なって『沙石集』になっていると思うのです。

 

  中世の信心の雰囲気がわかるような話

篠崎 『沙石集』って、どういう意味なんですか。

大隅  石を割って玉の原石を見つけて、それを砂でみがくということです。それで宝玉をつくるわけです。だから自分が書いたものは、砂や石のようなものだけれど、これを理解してうまく使ってもらえば、美しい玉を手にすることができるかもしれないと序文に書いてあります。

篠崎  どのようなことが書かれているのですか。

大隅
『頬焼阿弥陀縁起絵巻』
『頬焼阿弥陀縁起絵巻』
『沙石集』とほぼ同様の説話が描かれている(鎌倉市・光触寺蔵)
例えば、阿弥陀の利益(りやく)ということが出ています。鎌倉の町の局が、あるとき怒って、身近かに使っている女童(めのわらわ)の片方の頬に、銭を焼いて押し付けた。ところが、自宅にまつってある阿弥陀を見ると、その火印が女童にではなく、阿弥陀の頬にあった。女童が念仏を信じていたから、仏が身代わりになってくれた。日ごろの信心が大切であるという話です。

これと同じような話が鎌倉の光触寺に伝わる『頬焼阿弥陀縁起絵巻』という鎌倉末期の絵巻に書かれています。ですから、そういう部分を並べてゆけば、中世の信心の雰囲気を読者にわかってもらえるような話が多いんです。

 

  説話を使って歴史を考えられるようになれば面白い

五味 それまでの説話集は大体京都を中心としたものですが、これが東国を中心に話が集められ、つくられるというのは、何か特質があるんでしょうか。

大隅 あると思いますね。無住は京都が余り好きじゃなかった。

五味 それ以前の説話集はかなりワンパターンな説話になっていますが、無住のはちょっと違いますね。

大隅 説話集というべきかどうか、議論の余地はあります。日本の古典の中で歌集は別格で数が多い。ジャンル別にして物語、文学、紀行文、随筆と言いますが、今、中世前半までのもので残っている物語・紀行文はそんなに多くはない。

説話は三、四十は残ってますから日本の古典の中では大きなグループです。だけど書いてあることは荒唐無稽で物語や軍記物以上に歴史の史料にならない。歴史を書くときのちょっとしたエピソードとして利用されるぐらいです。でも、かなりの分量があるので、説話を使って歴史を考えられるようになれば、中世史はもっと面白くなるんですけどね。

私は、二十世紀の歴史学では説話は扱えなかったけど、二十一世紀には扱えるようになる、それが二十一世紀の歴史学だ、頑張ってくれと若い人に言ってきました。

 

  地獄に落ちる話は庶民や武士ではなくお坊さん

大隅 面白いと思ったのは『沙石集』のなかに、地獄の話がいくつかありますが、庶民や武士が地獄に落ちた話はほとんどない。地獄に落ち、地獄でもこんなことをやっているというのは皆、坊さんです。 

無住のような人が「地獄は恐ろしい」と言ったら、聞きにくる人がいなくなり、収入がなくなるだけです。ですから地獄絵でも、平安末から鎌倉前半までの、知識人の自己批判とか、危機意識みたいなものを裏づけにした地獄絵は迫力があるけれど、中世の後期に入ったら、全然迫力がなくなる。

つまり、庶民は地獄なんか全然恐れていない。地獄に落ちても、地獄にはお地蔵さまがいて救ってくれるという話になる。仏教も大衆化してきて、坊さんも適当なところで妥協し、みんなを喜ばせるような話をして、たくさんお布施をもらうというのが、坊さんの生き方になってくるわけです。


兼好の古典的感覚と無住の庶民感覚

篠崎 中世というと、『徒然草』の兼好法師というか、清貧の思想のようなイメージをもつんですが……。

五味 兼好が清貧であったかどうか、実のところよくわからないのですが、無住と兼好がすれ違って会って会話をしたらどうでしょうか。兼好は無住をばかにするかもしれませんね。

兼好の精神風土はまさに古典文化からの生粋なものを受け継いでいるのであり、当時の世相を冷ややかに見ていて、書いたものには結構毒がありますが、無住のものにはありませんよね。

大隅 そう、それがなさ過ぎるのが問題ですね。

五味
兼好法師像 (神奈川県立金沢文庫蔵)
兼好法師像
(神奈川県立金沢文庫蔵)
ですから無住は世の中になかなか受け入れてもらえない。われわれは兼好的な感覚に一方では憧れるんですが、でも現実に生きているときは無住的な生き方で、何か一つのことをやっていても徹底し切れないというのがあります。ただ、あまりにも自分に近過ぎるから、ちょっと共感しがたいのかもしれない。

でも、『沙石集』のようなものがそれ以前の時代に書けたかというと、書けない。ですから、あの時代は面白い時代だと思っています。沙石集』以外に『雑談集(ぞうたんしゅう)』『聖財集(しょうざいしゅう)』など幾つも書いてますし、こうした作品が鎌倉的な世界に、それまでとは違う形で読まれ、広がりができた。だから、その新しさが受け入れられたと思うんです。

読者が生まれて、それを回覧するような性格を持っています。その辺がそれまでとはちょっと違うと思う。

 

  無住に中世の人々の心があらわれる

五味 私は歴史学でも説話集をきちんと探らなければいけないということから、その方面の研究もやっているんですが、無住はかなり異質なのかもしれません。それ以前とちょっと違うんですね。

篠崎 そういう時代性は、どういうところから来るんですか。

五味
北条時頼像 (神奈川県立歴史博物館蔵)
北条時頼像
(神奈川県立歴史博物館蔵)
石井先生のご本にあるように、鎌倉の後期は、日本社会そのものがかなり大きな流動期に入っていまして、都市的な場である十三湊を始め、鎌倉も最初から都市として明確に発展したのではなくて、この鎌倉後期ぐらいから発展しています。

発掘の成果によると、鎌倉の中のいろんな遺跡・遺物が急速に出てきます。各地の現在につながるような港町とか門前町は大体鎌倉後期ぐらいに形がつくられてきているんです。

それだけ大きく流動している時期で、今までの王朝風の高尚な説話集というだけではとても済まず、絵巻に描かれたり、あるいは話の内容が庶民の中に入っていくようなものでないとだめになったんです。そのような歴史的な位置にあった無住をどう扱うかというと、大隅先生でないとなかなか味が出てこない。

ですから、私も無住はぜひとも扱いたいとは思うんですが、とてもそこまでは手に負えません。

篠崎 さきほど、日本の骨格とか、考え方の基準が中世にできたとおっしゃいましたけれども、その一つのあらわれなんでしょうか。

五味 そうですね。無住に帰結するような、例えば、神仏習合みたいな考えをはじめとして、大体、十世紀から十一世紀ぐらいに出てきます。

大隅 無住は神仏習合の動きもよくとらえています。

五味 そうした考えの大体は『沙石集』の中にも出てきます。ところが、中世後期になると、かなりまた異質なものが展開する。

その部分も無住の中に萌芽的にあらわれているように思います。無住を探ってゆくと単に中世だけではなくて現代でも、あまり人は変わっていないんだということがわかってきます。

 

  「北条時頼よりも自分の方がしあわせだ」

山形 大隅先生に教えられたことですが、無住は、日本でほとんど最初と言っていいくらいの自伝的文章を書いているそうですね。

大隅 『更級日記』みたいなものも自伝的なものだと言えば、いろいろな作品がありますが、ちゃんと問題を立てて、自分の一生は何だったのか、幸せだったのか、不幸だったのかということを一生懸命考えた文章を最初に書いたのは無住だといってもいいように思います。『雑談集』の中の一節です。

山形 北条時頼よりも自分のほうがしあわせだとか。

大隅 無住は年齢が近かったせいか、そういうときに時頼を意識しているんです。時頼は権力を握っているけれど、自分のほうが自由だとかね。

山形 素直で面白い歌をつくっていますよね。例えば、へつらって富めるよりも、へつらわずに貧しく生きるほうがいい、とか。

 

  中世にはなかった「宗教」という言葉

大隅 今回は同時代人の目というのを強く意識して書きました。例えば、中世には、今われわれが使っているような仏教という言葉はないんです。中世ではお経のことを仏教と言うんです。宗教という言葉ももちろんない。宗教という言葉は幕末につくられた訳語としての造語ですから、当時のものには、仏法と書いてある。それで仏法のほうがはるかに内包していることが多いのです。だから仏教という言葉は避けようとすると、説明がなかなかうまくいかない。(笑)

宗教的行為だとか、宗教的活動だとか、宗教家だという言葉は、言いたくても使わないようにしました。宗教・仏教という近代語を使うと、どうしても教義・教学のことに傾いてしまう。

天台座主の、慈円が書いた『愚管抄』でも、仏法は始終出てきますが、仏教という言葉は一度も出てきません。



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