Web版 有鄰

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有鄰


平成16年2月10日  第435号  P2

○鎖国から開国へ   P1   加藤祐三
○座談会 関家住宅   P2 P3 P4   関 恒三郎関口 欣也西 和夫神崎 彰利井上 裕司
○人と作品   P5   いしい しんじと『絵描きの植田さん』

 座談会

東日本最古級の民家
国指定重要文化財 関家住宅 (1)

関家22代当主   関 恒三郎
横浜国立大学名誉教授・日本大学工学部客員教授   関口 欣也
神奈川大学工学部教授・文化庁文化審議会委員   西 和夫
相模原市史編纂特別顧問   神崎 彰利
財団法人文化財建造物保存技術協会工事主任   井上 裕司
左から神崎彰利氏、西和夫氏、関恒三郎氏、関口欣也氏、井上裕司氏
左から神崎彰利氏、西和夫氏、関恒三郎氏、関口欣也氏、井上裕司氏

(大きな画像はこちら約~KB)… 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。

    はじめに
 
編集部 日本の伝統的な民家は、都市化が進むにつれて次第にその数を減らしています。一方、すぐれた民家は保存のための調査が行われ、江戸時代の住まい、あるいは、そこに住む人々の生活を今に伝えてくれます。

本日は、横浜市都筑区勝田町にあります国重要文化財に指定されている関家住宅(非公開)についてお話を聞かせていただきたいと思います。

関家は江戸時代に名主を務めたお家柄で、お住まいになっている建物は、現在、文化庁建造物課の指導のもとに解体修理が行われております。修理に伴う調査の概要をご紹介いただくと同時に、約千点に及ぶ古文書が伝えられておりますので、近世豪農の暮らしなども教えていただきたいと思います。

ご出席いただきました関恒三郎様は、関家のご当主で、関家の歴史は、戦国時代の小田原北条氏の頃にさかのぼると伺っております。

関口欣也先生は、横浜国立大学で長く日本建築史の講座を担当され、現在は財団法人文化財建造物保存技術協会理事長、日本大学工学部客員教授でいらっしゃいます。

西和夫先生は神奈川大学工学部教授で、文化庁文化審議会委員を務められております。関家の修理工事に当たっては、専門委員会委員長として工事の指導をされております。

神崎彰利先生は相模原市立博物館長等を務められ、現在は相模原市史編纂特別顧問でいらっしゃいます。神奈川県史編纂に際して、関家の古文書を調査されました。

井上裕司様は、財団法人文化財建造物保存技術協会に所属され、現在、関家住宅の設計監理事務所の工事主任を務めておられます。


  ◇現当主は22代目、450年たった家柄

編集部 関家住宅が注目されるようになったのは、関口先生の調査がきっかけだそうですね。

関口
関家・主屋 (昭和60年)
関家・主屋 (昭和60年)
昭和31年に、横浜国立大学で、私の恩師、大岡実先生が神奈川県全体の近世民家の調査を始められました。その調査の大きな特色は、あちこち調査しないで、神奈川県なら神奈川県という範囲をできるだけ詳しく調べようということで、学生の卒業論文のテーマとしてそれを指導する形で継続調査されました。

関さんのうちが見つかったのは昭和36年の夏です。最初、学生の石塚計志君らが見つけ、当時東大大学院生の宮沢智士氏も、どういう価値があるかわからないけれど普通の古い民家とは様子が大分違います、と。私は見た途端に、これは、一般的にある元禄ぐらいの民家とは、およそ様相が違っている。非常に貴重なものと思いました。

そして、大岡先生と文化庁の伊藤延男先生と三人で伺って、昭和41年に主屋[おもや]が重要文化財に指定されました。

その後、昭和53年に長屋門などの追加指定のときに非常に広大な屋敷地があるわけで、建物だけの保存では雰囲気は残らないため、屋敷地も指定しようという画期的な保存が行われたわけです。

いずれにせよ、関東で有数の古民家、一番古いと思ってもいいかもしれないものが見つかったということです。


    天和2年から「八郎右衛門」を10代続いて襲名
 
編集部 関さんは何代目にあたられるのですか。

私で22代です。私が来たときに父から、「このうちはもう400年たっているんだよ」と言われたんです。私は他家から養子に来たんですが、それから50年たちますから、もう450年になるわけです。

編集部 系図などもございますか。

系図は文化・文政のころ、8代目の関八郎右衛門政重という方が書かれたのが蔵にあったんです。途中なくなっているところがあったので調べていただいて、ちゃんとしたものをつくりました。

うちは、天和2年(1682)ごろから「八郎右衛門」を襲名させて、それが10代続いていたんです。おじいさんまでが関八郎右衛門で、父の代から普通の名前に変わりました。


  ◇小田原北条氏の家臣が土着したと伝える

編集部 古文書も多く残されていますね。

神崎 神奈川県史編纂の過程で、県内の古文書の悉皆[しっかい]調査をやりました。私は、近世の担当で、小田原藩領を除いて全県下を歩きました。その中で、関さんの古文書が見つかりました。昭和40年代です。驚きましたのは、約千点と紹介がありましたが、非常にすばらしい内容のものばかりでした。

「都筑郡勝田村五人組書上覚」 延宝3年(1675)
「都筑郡勝田村五人組書上覚」 延宝3年(1675)
関恒三郎氏蔵(大きな画像はこちら約120KB)

私は、近世の中でも、『神奈川県史』資料編8の近世5上と近世5下の2冊とその他で、全部でおよそ2,000ページ程度になりますが、それを分担いたしました。神奈川県内は、幕領が多いというのが定説ですが、これは間違いで、中心は旗本領で、その古文書が多数残っているんです。上巻には相模国、下巻には神奈川県下の武蔵三郡の久良岐郡[くらきぐん]、都筑郡[つずきぐん]、橘樹郡[たちばなぐん]の旗本領の資料を入れる形をとりました。

とくに、関家所蔵の「都筑郡勝田村五人組書上覚[かきあげおぼえ]」は、県内でも有数の価値があるものと判断できましたので、口絵の1ページ目に載せました。

関さんの文書は、全体では約60点ほど収めさせていただきました。旗本領の一つの村でそれだけ収めたのは、関さんと、もう一つ伊勢原の堀江家で、関家文書は都筑郡の古文書の中で、量・質ともに一番そろっているといっていいと思います。


    秀吉の禁制に「かちた」文禄の検地帳に「勝田郷」と記載
 
神崎
「武州都筑郡師岡荘小机内勝田之郷御縄打水帳」 文禄3年(1594)
「武州都筑郡師岡荘小机内勝田之郷御縄打水帳」 文禄3年(1594)
関恒三郎氏蔵(大きな画像はこちら約86KB)

関さんのお宅のある村名の勝田は「かちた」「かつた」などいろいろですが、中世の承元3年(1209)ころから見られます。これは源実朝の全盛期で、その4年前に二俣川で畠山重忠がやられる。そんなに古いんですが、それ以降はずっと消えてしまって、次に出てくるのは、戦国時代も終わりの天正18年(1590)です。

天正18年は豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼしましたけれど、そのときの秀吉の禁制では、小机の庄に、平仮名で「かちた」とあります。ご所蔵の文書で文禄3年(1594)のものには、漢字で「勝田郷」とあり、慶長4年(1599)には、この村に江戸幕府の久志本[くしもと]という旗本が配置されますが、そのとき幕府から久志本氏に与えた宛行状によりますと、「鍛治田」になっている。さらに、3代将軍の家光のころに、幕府でつくった『武蔵田園簿』という資料では、「歩田」なんです。しかし、これはほんとに例外で、その後、寛文12年(1672)の検地帳にはもう「勝田」となり、そしてずうっとその村名が続く。そういう流れです。


    『小田原衆所領役帳』に記載がないのは直轄地だったからか
 
神崎 県史の編纂の過程では、プライベートな部分は一切意識的に見ないという方針で調査したんですが、江戸後期の『新編武蔵風土記稿』に先祖は関加賀守とありますように、関さんのお宅には、小田原北条氏の家臣であったという伝えが残っております。

永禄2年(1559)の『小田原衆所領役帳[しょりょうやくちょう]』という、北条氏関係の武士とその所領を書き上げた文書があります。この文書には、近辺の大棚とか山田ほか多くの村が出ているんですが、そのなかに「勝田」と関家は載っていないんです。ということはもしかしたら小田原北条氏の家臣の土地ではなくて、小田原北条氏の直轄地であったために載ってないのかなという推量もできる。

編集部 所領役帳は簡単にいうと、家臣が負担すべき役目を記した台帳ですからね。

神崎 私は県史が終わった後の1994年ころに、『後北条氏遺臣小考』という、神奈川県下の北条氏の家臣が、北条氏が滅びて土着したか、あるいは徳川氏に仕えたか、そういう論文をまとめたんです。その過程でも関家が北条氏の家臣であったことを明確にはできませんでしたが、残っている材料から見ると、勝田は恐らく小田原北条氏の直轄地であったろう。そのために所領役帳に名前が出ない。

関加賀守については、今まで文献には出てこないんですが、優秀な評定衆の一人で、小田原で最高の位に、関兵部丞[せきひょうぶのじょう]という家臣がいる。恐らくその一家じゃないか。そうした推察は全く不可能ではないと思います。


    家康が関東に入り都筑郡一帯を検地
 
神崎 徳川家康が関東に入ったのは、天正18年(1590)ですけれども、その4年後の文禄3年(1594)に勝田の土地の調査、検地をやります。その検地帳が残っています。

残っています。屋敷地とか、畑と水田ね。みんな書かれている。

神崎 この検地をやった人は、『風土記稿』では小宮山八左衛門と書いてある。この人は大久保長安の家臣です。大久保長安は八王子に陣屋を持っておりまして、その家臣がこの辺一帯、都筑の検地をやったんです。長安がじきじきに出てきてやっていると思うんですが、その実務を小宮山八左衛門らが扱った。その現物の検地帳を見ますと、屋敷の筆数が十九筆、そのうちの四筆が関さんのお宅で、この時期は図書[ずしょ]の持ち分であった。そういうことがわかりました。

図書という方は、小机城主の三男の方なんです。

江戸時代の勝田村
江戸時代の勝田村
(「武蔵国古写大絵図」部分)
神奈川県立図書館蔵
(大きな画像はこちら約140KB)

    伊勢神宮の神官で家康の侍医の久志本氏が領主に
 
神崎 神奈川県全体を見ても、天正から文禄の検地で、一家のお宅で屋敷地をそれほど持つのは、やはり小田原北条氏の流れが多いのです。他の材料がなくても、そういう推察はできますし、この時期から村内きっての豪農であったことがわかります。

領主の久志本氏は、もとは、伊勢神宮の神官です。2代目の常顕が三河で家康に召し抱えられたという家です。

神官で、お医者さんだった。徳川さんが病のときに薬を献じて飲ませたところ、ほかの殿様が薬をあげても効かなかったのが治った。それで、ごほうびとして、勝田と牛久保の三百石を徳川さんからいただいて、領主になった。それから久志本氏の所領として270年、明治維新まで続いたんです。

神崎 久志本氏は家康の侍医で、慶長3年(1598)に秀忠の病気治療の功で、勝田と牛久保の二か村を与えられております。



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