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有鄰

平成16年10月10日  第443号  P1

○座談会 P1   ジャズの街・横浜 (1) (2) (3)
五十嵐明要/澤田駿吾/平岡正明/バーリット・セービン/柴田浩一/松信裕
○特集 P4   明治の棟梁たちの西洋館   増田彰久
○人と作品 P5   玄侑宗久と「リーラ」


座談会

ジャズの街・横浜 (1)
~「モカンボ・セッション」の時代を語る~
アルト・サックス奏者   五十嵐明要
ギタリスト   澤田駿吾
評論家   平岡正明
ジャーナリスト   バーリット・セービン
「横濱JAZZプロムナード」実行委員会チーフ・プロデューサー   柴田浩一
 有隣堂社長    松信裕
 

伊勢佐木町のクラブ「モカンボ」で行われた「モカンボ・セッション」 昭和29年7月27日
伊勢佐木町のクラブ「モカンボ」で行われた「モカンボ・セッション」 昭和29年7月27日
左から 澤田駿吾(ギター)、1人おいて渡辺明(アルトサックス)、五十嵐明要(同)ら
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松信裕 バーリット・セービン氏 五十嵐明要氏 澤田駿吾氏 平岡正明氏 柴田浩一氏
右から、柴田浩一氏、平岡正明氏、澤田駿吾氏、五十嵐明要氏、B・セービン氏、松信裕
横浜・野毛「ダウンビート」にて


    はじめに
 
松信  

世界中で多くの人々に親しまれているジャズは、20世紀初頭にアメリカ南部のニューオリンズで生まれました。 日本では、大正時代に初めて横浜でジャズが演奏されて以来、本場アメリカからレコードが輸入され、特に戦後の横浜には米軍が駐留したこともあって関内や伊勢佐木町のクラブでジャズが演奏され、さまざまなセッションを通じて広く日本に浸透していきました。

また横浜では、毎年10月に、日本最大級と言われるジャズ・フェスティバル「横濱JAZZプロムナード」が開催されております。

本日は、中区野毛のジャズ喫茶「ダウンビート」にお集まりいただいて、横浜とジャズとのかかわりの歴史、当時の熱い横浜を語っていただきたいと思います。

ご出席いただきました五十嵐明要様は、アルト・サックス奏者として活躍されております。

澤田駿吾様はギタリストとしてご活躍のかたわら、ルーツ音楽院学院長を務められております。 お二方は、昭和20年代後半、多くのすぐれた日本人ジャズ・ミュージシャンを生み出すきっかけとなった伊勢佐木町での「モカンボ・セッション」に参加されました。

平岡正明様は評論家でいらっしゃいます。 横浜を拠点として、ジャズ、文学、芸能、映画など、幅広い評論活動を行っていらっしゃいます。

バーリット・セービンさんは、21年間横浜にお住まいのアメリカ人ジャーナリストでいらっしゃいます。 小社より『A Historical Guide to Yokohama(ヨコハマ歴史ガイド)』(詳細)を出版され、その中でジャズと横浜のことについても触れておられます。

柴田浩一様は「横濱JAZZプロムナード」実行委員会のチーフ・プロデューサーを務めておられます。
 


  ◇大正14年に伊勢佐木町でジャズのコンサート
 
柴田  
松旭齊天勝一座の広告記事
松旭齊天勝一座の広告記事
「横浜貿易新報」 大正14年
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大正14年の『横浜貿易新報』(神奈川新聞の前身)に、松旭齊天勝という女性の奇術師が、アメリカに行って帰ってきて、大正14年の7月1日から一週間、伊勢佐木町の喜楽座、オデヲンのちょっと先の、今の日活会館の所で帰朝公演をやるという広告が出ている。 そのときアメリカからジャズミュージシャンを連れてきていて、演奏したのが、ガーシュインの「サムバディ・ラヴス・ミー」とか「ライム・ハウス・ブルース」なんです。 「サムバディ・ラヴス・ミー」はその1年前(1924年)につくられたものです。 それがもう横浜で演奏された。
 

澤田  

大正年間ね。 すごいですね。
 

柴田  

もっとさかのぼること、今から150年前、日米和親条約が結ばれたときに、ペリーが来て軍楽隊が演奏しているんです。 だから、日本で初めて西洋音楽に触れたのは、横浜の人たちだったんではないかと思うんです。 横浜の音楽文化は歴史がある。
 

平岡  

ペリーが来たとき、晴天のへきれきが二つあった。 一つは黒船の号砲であり、一つは、彼らが連れてきた楽団、西洋楽器の音量と音質、それを初めて日本人が聴いて、それが相当ショックだった。 その影響で生まれたのが、文久2年の「野毛節」らしいという説があります。
 


   ダンスホールやチャブ屋で静かに潜行
 
柴田  
昭和初期のチャブ屋の内部
昭和初期のチャブ屋の内部
横浜市史資料室提供
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それで、ジャズが大正年間にそのまま浸透するのかなと思ったら、ダンスホールに潜っちゃうのね。 それでチャブ屋が登場する。 当時、今の本牧の山手警察署の裏あたりの十二天の所に、チャブ屋街があった。 チャブ屋の建物は1階がダンスホールで、お酒が飲めるようになっている。 女性がたくさんいてダンスが踊れる。 そこでジャズが静かに潜行するわけだけど、何で表舞台になかなか出れなかったんでしょうね。
 

平岡  

昭和10年代から軍国主義になるから、退廃的な音楽というので、大正時代に一度流行しそうになったのが、みんな禁止になった。
 

柴田  

新聞にも書いてあるんだけど、ジャズを入れてはいけない、太平洋を渡らせてはいけないって、そんなばかなことを言っている。
 

澤田  

でも、大正時代には結構ジャズっぽい音楽が出ていますよね。
 

柴田  

大正13年の『横浜貿易新報』に出ているんですが、ポーランド人の声楽家がシアトル経由で横浜港に立ち寄ったらしいんです。 当時は外国人の音楽家が珍しくて、新聞記者がきっと飛んで来たんでしょうね。 ポーランド人が「あめりか人には音楽の妙味は判りません。 彼等にはジャッズ・バンドの面白味しか判りません。 窶披€狽セから一流の音楽家は出ませぬ。」と言ったとあります。
 


   長谷川伸の作品にジャズ風の音楽が登場
 
平岡  

昭和3年7月に書かれた、長谷川伸の『舶来巾着切』という作品があります。 その一番最後の場面なんですが、ノルウェー人の船員たちがいて、足元に楽器がある。 話の最後、本船から迎えの舟が来るんです。 それに合わせてジャズ風の音楽のエンディングで閉じる。

この芝居の時代設定は、明治29年までなんですね。 ですから、大正14年に天勝さんと一緒に来た人たちが演奏する前に、チャブ屋ではもしかするとジャズがあったんじゃないかと思う。
 

柴田  

でも、現実的にはジャズじゃないと思う。 ジャズ風だったんじゃないかな。
 

セービン  

チャブ屋の音楽のことは、谷崎潤一郎も描写していますよね。 ピアノがあって、壊れたような音で、毎晩同じ曲が聞こえると。
 


   関東大震災前にグランドホテルでラグタイムを演奏
 
セービン  

バーネット・ハーシーというアメリカの新聞記者が大正12年の関東大震災直前の横浜に来まして、彼は、横浜に着いて数時間もしないうちに、グランドホテルでジャズを聴いた。 それは今のホテル・ニューグランドではなくて、もっと堀川に近い場所にあった、震災で姿を消したホテルです。

当時、横浜に6つぐらいジャズ団があるんです。 彼はそれを本に書いてます。 1つはヨーロッパのミュージシャンで、リーダーは元米海軍のバンドマスターで、グランドホテルで「ラグタイム」をやっていた。 あとの5つは日本人のバンドです。 それでこの記者は、日本人もすごくうまくて、東洋人はすごくものまねが上手だということを物語っていると書いています。
 

柴田  

アメリカ人が書いているんだから、信憑性がありますね。 きっと実にジャズっぽかったんでしょうね。
 

セービン  

そうですね。 ただ、私は本牧にあったチャブ屋のキヨ・ホテルの方に話を聞いたのですが、大体レコードだったらしいですね。 ピアノもなかった。 だから、ジャズと言っても、震災後から戦中まではレコードが多くて、楽器は多分、あってもピアノ程度だった。 あとラジオ。
 


   ダンスホールで演奏するためにバンドがつくられる
 
柴田  

チャブ屋にはピアノぐらいしかなかった。 あるいはレコードだったということになると、ジャズバンドが本格的に表舞台に出るのは、鶴見の花月園ダンスホールとかになるんですかね。
 

松信  

花月園のダンスホールは昭和の初めですね。
 

五十嵐  

東京だと白木屋とか三越とか、デパートがスポンサーになって、バンドをつくってやっていた。
 

平岡  

いずれにしても、きょうの話では大正14年説よりもっと前ということが考えられますね。
 

澤田  

アメリカでニューオリンズのジャズが発生したのは、南北戦争の後でしょう。 それにしたら、日本に入ってきたのは随分早いですね。
 

セービン  

早いですね。 入るのはやっぱり船で入ってきますね。
 


  ◇1930年代には浸透していたジャズ
 
松信  

みなさんが最初にジャズに触れられたというのは、いつごろだったんですか。
 

澤田  
ホテル・ニューグランドでのジャズ演奏 1930年代
ホテル・ニューグランド
でのジャズ演奏
1930年代 ホテル・ニューグランド提供
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僕が子どものころの印象としては、物心がついたときにすでにジャズを聴いていたんです。 うちに手回しの蓄音機があって、後に電気蓄音機になるんだけど、「マイ・ブルー・ヘブン」とかのレコードがあったんです。 おやじが好きだったんでしょう。

僕が5つぐらいのときから聴いているということは、1935年ぐらいには日本人の家庭には割合と浸透していたんじゃないですか。 エノケンの歌も、ジャズですね。 「マイ・ブルー・ヘブン」なんていうのは、その当時歌っているんですね。
 

五十嵐  

同じようなことなんですけれど、僕が5つだったから1937、8年ですかね。 僕の生まれたところの、隣の隣がカフェだったんですよ。
 

柴田  

五十嵐さんはどちらのお生まれなんですか。
 

五十嵐  

八丁堀なんですけどね。 毎晩、電蓄からレコードが表に聞こえてくるんですよ。 それが好きで好きで、そこでかかっていたのは、当時は全然わからなくて、終戦後になってわかったんだけど、「セントルイス・ブルース」とか、それから、タンゴが多かったですね。 「ベスタ」、「碧空」や、ジョー・ダニエルスの「フー?」とかが夜な夜なかかっていて、それをずうっと聴いていた。 だから、それの影響で多分、ジャズミュージシャンになったんだと思うんですよ。
 

柴田  

そのときは、ジャズとかいうジャンル分けはなくて、洋楽でしょう。
 

五十嵐  

そうです。 洋楽です。 カフェだから、聞こえてくる曲の中には、例えば東海林太郎の歌も当然出てくるんです。 だけど、わりと洋楽が多かったんです。

それから、近所に国華ダンスホールというのがあった。 夏場になると、窓をあけているものだから、そこから音が聞こえてくるんです。 昼間は、屋上で楽士がラッパを吹いたりして練習しているのを聞いていたんです。 僕が小学校のときですから、1939年か40年ぐらいですかね。
 


   昭和初期に東京や横浜にジャズ喫茶ができる
 
平岡  

野毛にある古いジャズ喫茶の「ちぐさ」ができたのは、昭和8年でしょう。
 

柴田  

「ちぐさ」の前身はミルクホールなんです。 ジャズ喫茶としては、8年のオープンで、横浜では2番目でした。

それより前に、東京にはすでにジャズ喫茶はあったんです。 昭和4年に、本郷赤門前に「ブラックバード」が開店しています。
 

五十嵐  

ジャズ喫茶というのは戦後になってできたんじゃないんですか。 それは知らなかったな。
 

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