Web版 有鄰

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有鄰

平成16年12月10日  第445号  P3

○座談会 P1   鯨捕りと漂流民 — ペリー来航前夜 (1) (2) (3)
大隅清治/川澄哲夫/春名徹/松信裕
○特集 P4   島崎藤村はなぜ大磯に終の棲家を求めたのか  黒川鍾信
○人と作品 P5   津島佑子と「ナラ・レポート」



座談会


鯨捕りと漂流民 (3)
ペリー来航前夜
 

大きな画像はこちら約〜KB  … 左記のような表記がある画像は、クリックすると大きな画像が見られます。



  ◇上海にいた漂流民「音吉」の足跡を追う
 
松信  

漂流民について、春名先生は、天保3年(1832年)に愛知県知多半島の音吉たちの乗る宝順丸が14か月間漂流して、北米に漂着した『にっぽん音吉漂流記』をご執筆されましたね。
 

春名  

僕はもともと中国の近代史専攻で、日本と中国との関係に興味があったんです。 それで学生のころから、上海にいた音吉という日本人に関心を持っていて、いろいろ調べ始めたんです。

ところが漂流という概念は非常にあいまいなんです。 日本人の漂流は、江戸時代には対外認識の問題として幕府がきちんと全部把握していた。 それが明治になって制度が崩れた途端に意味がわからなくなってしまった。

それで、背景には漂流民送還制度があって、中国を中心にした東アジア全体に関する漂流民の送還のシステムが成り立っているということを実証した。 音吉をきっかけにして僕の研究もいろいろ広がったわけなんです。
 


   7人の漂流民を乗せモリソン号が江戸湾に入る
 
松信  

音吉は漂着したアメリカからロンドンに送られ、マカオからモリソン号で浦賀に来るんですね。
 

春名  
嘉永2年に中国人・林阿多と名のって日本へ来た音吉  
嘉永2年に中国人・林阿多と名のって日本へ来た音吉  
(大きな画像はこちら約82KB)
(「海防彙議補」から)
 
国立公文書館蔵
 
 

アメリカの商人、C・W・キングという人が、マカオにいた7人の漂流民を日本へ送り返そうと計画した。 宝順丸の岩吉、音吉、久吉の3人。 それから九州の庄蔵、寿三郎、力松、熊太郎の4人。 彼らは、ルソン島に漂着し、その後でマカオへ送られてきた。 その2組の漂流民がたまたまマカオにいたんです。

キングはオリファント商会の共同経営者なんですが、当時のヨーロッパ商人はほとんどアヘンを扱って利益を貪っていた中で、自分たちはアヘンを扱わないということを明言して、アヘン戦争のとき、キングは林則徐[りんそくじょ]のアヘン廃棄に立ち会っている。 そういう理想主義的な人でした。

モリソン号という船を彼らはゴスペルシップ(福音の船)と呼んでいて、当時のアメリカの海外伝道会の宣教師たちがアジアへ来るときはほとんどその船で来ているんです。 その船に7人を乗せて、1837年の7月4日、アメリカの独立記念日にマカオを離れた。 キングはロシアの使節団レザーノフが長崎で官僚主義的な扱いをされたことを知っているので、長崎は忌避[きひ]したい。 江戸湾へ直航する。 さらに理想主義的立場から非武装で来るわけです。
 


   日本の状況を知らず浦賀で砲撃され追い返される
 
春名  

  天保8年に浦賀で追い返されたモリソン号
  天保8年に浦賀で
追い返されたモリソン号
(大きな画像はこちら約173KB)
 
「浦賀奉行異船打払ノ始末届書」から・国立公文書館蔵 
 
江戸時代は、外国船が来たら渡航目的を聞いて、たまたまコースを失った船だったら、水や食糧を供給して退去させろというのが原則的な幕府の方針でした。 ところがそのときは、ちょうど文政8年(1825年)の無二念打払令で、いわば問答無用に外国船を攻撃して打ち払えという政策の時期です。 これは江戸時代では極めて異例なことなんです。

だから、キングの予想と、日本側の態度に、冷酷なまでに違いが出てくる。 日本側には、キングの意図や国籍に関心がありません。 外国船が近づいてきたので命令どおりに打ち払っただけです。 だから、キング自身が本当に日本人を帰したかったのかどうか、わからない。 彼は福音という目的は捨てたと言っていますが、日本を開国させることによって、日本にキリスト教を広めたいという抱負は持っていたに違いない。

とにかくキングという人は善意の人で、平和的に日本を開こうと思って江戸湾へ行った。 ただ、彼は状況を全然認識していなかったために砲撃されて追い返された。 ほんとに漂流民を帰す気ならば、長崎港へ入れば漂流民だけは受け取られます。 主観的な善意ほど人迷惑なものはない、というのが僕の考えですが、なまじのキングの理想主義が、7人の漂流民を一生日本へ帰れなくさせてしまった。
   


   ◇マンハッタン号で帰国した漂流民
 
春名  

1845年のマンハッタン号のときと対比するとよくわかるんですが、アメリカ捕鯨船のマンハッタン号が鳥島で日本人の一グループを拾い、さらに日本への航海中の海上で別の船をピックアップして、合計22人の漂流民を乗せて江戸湾に来た。 公式な長崎、千島以外で、外国船が日本人の漂流民の身柄を引き取らせたという例です。

なぜそれが可能になったかというと、時の浦賀奉行が極めて有能だったこと、それから時代の変化が日本にも伝わってきている時期です。 それと、たまたま逆風で江戸湾になかなか近づけなくて、本船が入る前に一部の漂流民を上陸させて事情を伝えさせている。 日本の国内で状況を把握して検討する時間があった。

しかも、浦賀奉行が、日本の漂流民が日本の国内で外国船に拾われて帰ってきたんだからと幕府の上層部に対して言う。 その中で老中筆頭の阿部正弘が、臨機応変の策で、あえて受け取ると決断する。
 

松信  

この時期に、無二念打払令が薪水給与令[しんすいきゅうよれい]に緩和されているんですね。
 

春名  

マンハッタン号に日本人が乗船して細部を写生したものがたくさん残っているんです。 それはまるで『白鯨』の絵解きを見るようです。 日本人がアメリカの捕鯨の実態を知った、多分最初の例でしょう。
 


   二人の漂流民から世界情勢を学んだ福沢諭吉
 
川澄   音吉と福沢諭吉の接点はシンガポールですか。
 

春名

  そうです。 その前に長崎でも会っていることは会っていますが。 日本人がヨーロッパ認識を深めていく非常に大きな流れの中の一環として、福沢はたまたまシンガポールで音吉に出会うことになる。 でも、その前に、万次郎と福沢が、咸臨丸[かんりんまる]でアメリカに行っていますね。 2人がサンフランシスコでウェブスターの辞書を買ったことは話題になった。
 
川澄  

万次郎は、天保12年(1841年)に土佐清水の沖に出た船が漂流し、鳥島に漂着していたところをアメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカの学校で学んだり、ゴールドラッシュの西部で金鉱掘りをしたりして、10年後に琉球に上陸し、日本に返ってくるんです。

福沢諭吉は、万次郎と音吉という二人の漂流民から、アメリカや中国のことを聞き出しているんです。

咸臨丸では、ほかの士官たちは万次郎を軽蔑して虐待するんですが、福沢だけが万次郎といろいろ話している。 当時、世界について知っているのは漂流民だけですから。 福沢の偉さはそんなところにあるような気がするんです。
 

春名   この時代の日本にとって、漂流民の果たした役割は大きかった。 音吉は嘉永2年(1849年)にイギリス船マリナー号が浦賀に来たときに通訳をしています。 ペリー艦隊の日本語通訳のウイリアムズは音吉たちから習っていたんです。
 

   音吉の息子は日本に入籍願いを提出
 
春名   音吉については、その後、シンガポールの文書館で、帰化の記録と埋葬記録を見つけました。
 
川澄  

音吉の息子は日本に来ているんですね。 神奈川県令にあてた日本人民の籍に入りたいという「入籍願い」の記録が残っていますね。
 

春名  

マレー人の奥さんとの間に生まれた息子のオトソンについて、私の著作では、恐らく市民権は得られなかったと書いたんですが、外務省の記録を調べたら、1864年12月20日付で、日本の国籍に入っている。

彼を受け入れた人はどういう人かわからないけれども、横浜あたりで彼のことを利用しようとしたのではないか。 しかし、彼は、日本に来たものの、日本語もできないし、次第に嫌気がさしたのでしょうか。 その後、日本の国籍を脱してイギリス籍に戻りたいと願い出ているんですが、それが拒絶されている。

父親の音吉は、日本には帰れなかった。 息子は、逆に日本から出られなくなってしまった。 そうなると、音吉の後日談と息子の後日談が、何か二重になってきてしまう感じなんです。
 


   ◇捕鯨を中心に結ばれた和親条約
 
大隅  
日本に向けて出向するペリー艦隊
日本に向けて出向する
ペリー艦隊
(大きな画像はこちら約171KB)

"Gleason´s Pictorial"
1853年2月12日号
 

ペリーが来航したのは1853年、その翌年の1854年に「日米和親条約」が結ばれますが、その内容は、ほとんどが捕鯨に関連したものだった。 それで、下田と箱館が開港になったんですが、なぜ箱館かというと、アメリカの強い希望があったんです。 といいますのは日本海がセミクジラの主要な漁場になっていて、箱館は日本海への入り口に位置していて捕鯨船の補給に重要だったわけです。 それで下田と箱館の開港も捕鯨につながる。 そういう意味で私たちは、和親条約は捕鯨を中心にして結ばれたと考えているんです。
 

春名  

和親条約では、そのほかに、漂流民の救助費用の分担問題があり、救助送還は「両国互に同様の事ゆえ」相手国に請求しないという明文(第三条)があります。
 

川澄  

ペリーが来る前年に津軽海峡を200隻の捕鯨船が行き来した、という情報があってペリーの耳にも入っている。 だから箱館開港にはすぐ賛成するわけです。 それから、ペリーが日本にやってくるきっかけになったラゴダ号の鯨捕りのことと、日本に幽閉されたロシアのゴロヴニンのことがあります。 ペリーは多分、ゴロヴニンについての翻訳書を読んで、日本人をもっと知りたいということが箱館に行きたい理由の一つじゃなかったか。
 


   ペリーは来航前に捕鯨船に協力を依頼
 
川澄  

ペリーが横浜での会談の前に、もし日本がこちらの要求を入れなければ20日ぐらいの間に100隻の軍艦を連れてくると脅かしますね。 ペリーは日本に来る前にニューベッドフォードに行って、鯨捕りのデラノ船長に、ペリーの艦隊が江戸湾にいる間に、日本近海で操業している捕鯨船に、江戸湾にやってきて薪水・食糧を要求してほしいと言ってるんです。 歴史学者は日本近海にアメリカの軍艦が100隻もいるわけがないと言うんですが、ペリーは捕鯨船のことを考えているわけです。

これは下田での話ですが、林大学頭[はやしだいがくのかみ]がペリーに「祝砲ばかり撃たれると漁業に影響する。」と言うんです。 するとペリーは、漁師のためならと、下田にいる間、祝砲を撃つのをやめるんです。 ペリーは、版画などでは赤鬼のように描かれていますが、実は、あの憎憎しげな表情からは想像できない、細心で、ユーモアがあり、ときには、日本の庶民に思いやりあるところを示すという、すぐれた軍人・外交官であったと思います。
 

松信  

どうもありがとうございました。
 





大隅清治 (おおすみ せいじ)
1930年群馬県生れ。
著書『クジラと日本人』岩波新書 735円(5%税込)、『クジラのはなし』技報堂出版 1,890円(5%税込)
 
川澄哲夫 (かわすみ てつお)
1930年愛知県生れ。
著書『資料日本英学史 1(上)1(下)2』大修館書店 1(上)・2:12,600円(5%税込)/1(下):25,200円(5%税込)、『黒船異聞』ジャンプ詳細 有隣堂 1,785円(5%税込)。
 
春名徹 (はるな あきら)

1935年東京生れ。
著書『にっぽん音吉漂流記』晶文社 1,366円(5%税込)、共訳書『紫禁城の黄昏』岩波文庫 945円(5%税込)




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  19世紀前半、日本近海には数百隻の捕鯨船が押し寄せていた。 ペリーは、それらの捕鯨船員たちの要求や、難船して太平洋を漂う漂流民の存在を背景に来航した。

本書は、アメリカ捕鯨の発展から説き起こし、日本を開国に導いたペリー艦隊の航跡を、久里浜・横浜・下田・箱館にたどりながら、日米の異文化体験をつづった歴史ノンフィクション。





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