Web版 有鄰

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有鄰

平成16年12月10日  第445号  P4

○座談会 P1   鯨捕りと漂流民 — ペリー来航前夜 (1) (2) (3)
大隅清治/川澄哲夫/春名徹/松信裕
○特集 P4 島崎藤村はなぜ大磯に終の棲家を求めたのか  黒川鍾信
○人と作品 P5   津島佑子と「ナラ・レポート」


島崎藤村はなぜ大磯に終の棲家を求めたのか



黒川鍾信
黒川鍾信氏
  黒川鍾信氏


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大磯駅前が閑散としているのは、向かいにお椀を伏せたような「愛宕山[あたごやま]」があるからだ。 この小山は、戦前までは三菱財閥の創始者・岩崎家の別荘で、戦後は養護施設「エリザベス・サンダース・ホーム」になった。

愛宕山の東斜面に沿った坂道を下ると、承和[じょうわ]4年(837年)に開祖された「地福寺」がある。 境内は小さな梅林で、その老梅に囲まれ島崎藤村の墓がある。 この墓は藤村七回忌に石碑になったが、葬儀の折に先代住職が「境内に埋葬されると観光地になってしまう。」と強く反対した通り、昨今墓を訪れる人は、墓前で記念写真を撮るだけである。



藤村の大磯移住の理由や地福寺埋葬の経緯は、研究者の間でもナゾの部分が多い。 たとえば、藤村の大磯訪問は、「天明愛吉[てんめいあいきち]に誘われ、左義長[さぎちょう]祭りに立ち寄った。」が定説になっている。 が、天明と藤村の関係は誰も知らない。

そこで研究者の多くは、失恋の苦悩で漂泊の旅に出る自伝的作品『』を引き合いに出す——旅の2日目、飲まず食わずの主人公は「湘南」(名称の発祥地は大磯)の海で命を絶とうとするが、<どうかして生きたい>と思い直す箇所に注目して、「この海に暗い惨憺[さんたん]たる青春の記憶が焼き付いていた。 しかし<青春>はそこで挫折中絶していた。」と解説する。

  藤村と静子夫人 (昭和18年)
  藤村と静子夫人 (昭和18年)

地福寺埋葬の件も同じで、「藤村はここの白梅が好きで静子夫人(後妻)とよく散歩の途中に立ち寄った。」が定説である。 しかし、『藤村 妻への手紙』を読むと、東京の本宅を守る彼女はよく散歩するほど大磯へきていない。

私はこのあたりの事情を早くから知っていたが、藤村文学の愛読者に過ぎないので口をつぐんできた。 研究者に逆らって定説をくつがえす勇気はなく、またその必要もなかった。

ところがあるキッカケから、私はナゾの部分を解き明かさなければならなくなった。



藤村死去から60年の平成13年、信州小諸の人たちが藤村文学を舞台公演で広めようと、「表白のとき 小諸日記〜藤村と冬子〜」を企画した。 これを姉妹都市大磯でも上演したいと町の有志に打診してきた。 実行委員会が結成されるが、統一がとれず、最後は逃げる私に委員長のお鉢が回ってきた。 そして、公演準備を進めるうちに委員から「藤村はなぜ大磯へきたのだろう。」という疑問が出た。

同じ頃、私は藤村学会前会長・剣持武彦と親しくなる。 私が藤村の大磯移住のカギを握る人物について話すと、剣持は「ぜひそのことを本にまとめなさい。」と私を励ました。

これも何かの縁だろう。 こう思って私は、「叔父」のことを書くことにした。



叔父の氏名は天明愛吉。 65年の生涯を実家の資産で暮らした「高等遊民」である。

慶応義塾普通科を卒業後、父親の「ノンビリやればいい。」の言葉に従い、読書と芝居見物の日々を送る中で、愛吉は『若菜集』に出合う。 七五調の詩形とリズムに惹かれ、やがて作者を“師”に文学修業を始めようと決心する。

この頃の藤村は、『破戒』(岩波文庫新潮文庫)を世に送り、『春』を執筆中だった。 愛吉は手紙で弟子入り願いをする。 藤村の返書は、「すべての人を師とせられよ。 私は弟子はとらないが、君が青年らしい鋭気をもって文学のことなど語りにくるなら喜んで迎えよう。」であった。

この返書は、藤村書簡の中でも優れた一通で、戦後、高校の習字の手本になり、木曽福島の教育会館前の石碑に刻まれる。

愛吉に文学より役者の素質ありと見た藤村は、親友の小山内薫と二世市川左団次が興した「自由劇場」で役者修業をしないかと勧める。 が、健康に自信のない愛吉は、結論を出すのに4年かける。

藤村の目に狂いはなかった。 左団次の下で稽古を重ねた愛吉は、半年で『ヴェニスの商人』のサレイニオウ役で初舞台を踏む。 新人としては大役である。 藤村は「演劇界の明日をになう役者になれ。」と、愛吉に「市川朝之助[とものすけ]」の芸名を贈り、初日にはパリへ旅立つ直前にもかかわらず本郷座へかけつける。

藤村のパリ行きは、後に「新生事件」といわれる、姪との肉体関係が原因だった。 異国で苦しむ藤村に朝之助好演の知らせは何より嬉しく、折々に励ましの手紙を送る。 愛吉もまた、自由劇場の様子などを詳しく知らせた。

だが生来の虚弱体質。 ハードな役者稼業に身体がついてゆけず、愛吉は舞台で倒れ役者を辞める。 藤村に何と知らせよう。 悩んだ愛吉は、「役者の才能がない。 台本書きに転ずる。」と偽りの手紙を書く。

この手紙は、パリ滞在3年、望郷の念にかられ苦しむ藤村の逆鱗に触れた。 <あゝ新人の努力の爲[な]すなき……私に溜息を吐かせてください。>で結ばれた絶縁状が送られる。



この日から再会までに、28年という長い歳月が流れる。 藤村は文豪へ上り詰めるが、実家の資産で学問や芸術を楽しむ高等遊民・愛吉もまた彼なりに多才な人たちとの交遊で、真の教養を深める。

藤村が最初の手紙で<すべての人を師とせられよ。>と諭[さと]したことを愛吉は忠実に実践してきた。 それが再会時に、藤村の評価を得たのだろう。

このあたりのことは、拙著『高等遊民 天明愛吉 (藤村を師と仰ぎ 御舟を友として)』(筑摩書房)の中に詳しく書いた。 紙面の関係でここではその後の愛吉の略歴を記す。

愛吉は結婚して一男一女を得る。 左団次一座時代の親友・初代中村又五郎と、浅草で「民衆座」を興すが、又五郎36歳の突然死で一座は解散。 愛吉は又五郎の長男を二世に襲名させ演劇界から身を退く。 坪内逍遥[しょうよう]の愛弟子・吉田幸三郎を知り、彼の紹介で今村紫紅[しこう]を中心とした「再興美術院」の画家、安田靫彦[ゆきひこ]、小林古径[こけい]、石井鶴三らと交遊が始まる。 とりわけ幸三郎の妹・弥[いよ]と結婚した速水御舟[はやみぎょしゅう]とは兄弟のように交わる。 が、数え42歳で御舟は病死。 同じ頃、愛吉の遊民生活を援助していた兄も鬼籍に入る。

愛吉は海辺の町で静かに暮らそうと、借家探しに靫彦や学友で慶応教授の高橋誠一郎の住む大磯を訪ねる。 ここで地福寺の住職と出会い、住職が書斎用に建てた本堂裏の離家を借り、東京から大磯へ移住する。

昭和15年師走、太平洋戦争に備え「65歳以上の者は帝都を去る準備をせよ。」の布告が出た。 そこに愛吉が「先生ご夫妻を左義長祭りに招待したい。」(絶縁後も文通は続いていた)と言ってきた。

翌年1月、大磯駅で藤村と夫人を迎えた愛吉は、あえて夫妻を駅前から墓地を抜けて離家に通じる愛宕山の山道(現在は通行不可)へ導いた。

薺垣居  
明治42年、愛吉が住んでいた芝白金三光町(現・港区)の家に藤村が、芭蕉の<よく見れば 薺(なずな)花咲く 垣根かな>一句にちなんでつけた家名。 この扁額は昭和17年に贈られたもの。 馬籠藤村藤記念館蔵

高台の墓地からは湘南の海が一望できる。 藤村は冬の海に感動、さらに「薺垣居[せいえんきょ]」の表札がかかる離家の、西と北を囲む石垣に「小諸を思い出す。」と感動する。 離家は静かで、造りが藤村の信条「簡素」そのものであった。

座敷には、愛吉の友人の鶴三、靫彦、作家の中勘助が待っていた。 若き日に画家を目指したことのある藤村は、この人たちとの談笑を楽しみ、勘助から愛吉が役者を辞めた理由を聞いて驚く。

大磯滞在3日、藤村は「ここなら愛吉がいる。 安心だ。」という思いを強くする。 それが借家を探せとなって、愛吉が探した簡素な造りの借家(後に購入する)に移ってくる。

藤村は『東方の門』の執筆準備に入る。 午前の仕事が終わる頃、愛吉が訪ねてくる。 二人で茶と地元「新杵[しんきね]」の和菓子を楽しみ、夕方には身の回りの世話をするとし(福岡登志)に付き添われ駅前から山道を登り、墓地と海を眺めながら「ワシは馬籠には帰らん。 天明君のいるこの寺で眠るのだ。」と、毎回同じことをとしに言ってから、離家に愛吉を訪ねた。

この言葉は2年後の8月に現実となる。 『東方の門』執筆中に倒れた藤村は、そのまま帰らぬ人となり、生前の願い通り地福寺に埋葬される…が、そこは藤村が望んだあの海の見える南斜面の墓地ではなかった。 関係者は住職の反対を押し切り、長野県出身の神奈川県知事・近藤壌太郎の応援によって、官有地の境内に埋葬したのである。 さらに葬儀は「静かにこの世を辞したい。」と願った藤村があの世で驚くほど盛大なものになった。 関係者と住職の間で愛吉は沈黙を守るだけだった。

葬儀の翌朝から墓前には墓守をする愛吉の姿があった。 そこに浅草「民衆座」時代に親しくなった高田保が寺の近くに疎開してくる。

高田保(右)と愛吉 昭和19年大磯
 
高田保(右)と愛吉 昭和19年大磯
(写真提供/高田家)

師を失った愛吉は、文学や演劇を語り合える友を得て喜ぶ——高田保は大磯の若者たちに書斎を開放、梁山泊[りょうさんぱく]とする。 戦後は東京から徳川夢声[むせい]や水谷八重子を呼んで、娯楽に飢える町民を喜ばす。 愛吉の紹介で旧藤村邸に住み、名随筆『ブラリひょうたん』を書きながら病死。 彼を慕う町民たちは、勤労奉仕で駅裏の「坂田山」に公園と石碑を造る。 石碑を建ててもらった人は多くても、町民によって公園を造ってもらった人はいない。

墓守は、戦中、戦後と一日も欠かすことなく続く。 愛吉の真摯な姿に住職は、「師弟の縁は、前世・現世・来世の三世につながる深い因縁で結ばれている。」と感銘する。

藤村七回忌に石碑の墓が完成。 その2日後に愛吉は倒れる。 墓守を高田保に頼むとホッとしたのか、見舞いにきた静子夫人に、「早く先生のもとへ行きたいです。」と告げると、まるで芝居の大団円のように息を引きとる。



中勘助は<藤村先生は文士としてではなく人間としてまことにいい弟子をもたれた。 天明さんは純情の人だった。>と言う。 高田保は、墓の除幕式での愛吉の様子を<上布[じょうふ]の單衣に獨鈷[とくこ]の角帶をしめ、老優市川朝之助といった風の江戸前の粹[いき]な姿だった。>と記す。 地福寺の現住職は「あのように心のきれいな人に会ったことはない。」、取材に応じてくださった方々は一様に「懐かしい、天明さん。」と言う。

親族間での愛吉評は、「人畜無害の好人物」と低かったが、彼の生涯を書き終えた私は、天地自然の風物を友として詩歌・風流を楽しむ「嘯風[しょうふう]」(戒名につかわれる)の人生をまっとうした愛吉叔父さんに敬愛の念を抱くようになった。
(文中敬称略)



黒川鍾信 (くろかわ あつのぶ)

1938年東京生まれ。 明治大学情報コミュニケーション学部教授(英文学)・作家。

著書 『東京牛乳物語』 (絶版) 新潮社 1,785円(5%税込)、『神楽坂ホン書き旅館』 日本放送出版協会 1,785円(5%税込) ほか多数。



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