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平成17年2月10日 第447号 P2 |
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○座談会 | P1 | 京浜地域の近代化遺産 (1)
(2) (3) 堀勇良/清水慶一/鈴木淳 |
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○特集 | P4 | 幕末の冒険写真家たち 斎藤多喜夫 | |
○人と作品 | P5 | 白岩玄と「野ブタ。をプロデュース」 |
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座談会 京浜地域の近代化遺産 (2) |
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◇古い機械や橋を残した「みなとみらい」の街づくり |
編集部 |
具体的に「遺産」としてはどういうものがあるんですか。 |
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堀 |
余り知られていないと思うんですが、土木産業遺構調査の中でリストアップされた機械類、産業遺構では、1号ドック・2号ドックを動かしていた排水ポンプのポンプカバーがあります。 これを三菱重工のほうで残してもらって、今、日本丸が入っている1号ドックの近くの、横浜マリタイムミュージアムの芝生のところに置いてあります。 それから、造船所全体を動かしていた、スチームハンマーのもとの動力、動力室にあったエアコンプレッサーは、4基あったうちの2基だけ残してもらい、今、マリタイムミュージアムの入口と1号ドックの入口付近の二か所に置いてあります。
2号ドックの周辺には、当初のキャプスタン(鎖を巻き上げる装置)も設置されています。 |
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清水 |
「みなとみらい」の都市整備は斬新というか、先駆的なやり方をしましたね。 歴史を生かした町の楽しみ方として、昔は古い建物とか、町並みを残すのが多かったんですが、たとえば工場があったら、本来だったら捨ててしまうような、そこで使っていた代表的な機械を、一種の彫刻というかモニュメントのように、芝生の上にドーンと置いてあったりするんです。 ドックそのものを30メートルぐらい移動して残したドックヤードガーデンとか、1号ドックには日本丸が繋留されていますし、汽車道では、古くからあったトラス橋を残して、ここに汽車が走っていたんだよということがわかるようになっている。 これらは、その地域に何があったかを具体的に示すものなので、今後そういうことも注目して、散策の折にはぜひ見ていただきたいですね。 |
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鈴木 |
エアコンプレッサーなどは大正期からのもので、横浜船渠が一番繁栄した時代の造船現場の技術を象徴しているということで非常にいいですね。 私も気がついていなかったんですが。 |
野外にモニュメントとして機械を置く |
堀 | 本来、工場の中のものは、工場全体を動かすシステムなんだけれども、システムとして残すのは、非常に難しい。
それをどう残すか、機械の評価みたいなものは当時なかなかできなくて、結局モニュメントとして、現代の彫刻を置くかわりというようなことで置いてもらったんです。 |
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編集部 | 町中に残す例は結構あるんですか。 |
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清水 |
外国では、普通ですね。 工業地域だと、平気でドーンと機械が置いてある。 |
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鈴木 |
炭鉱のやぐらが建ってたりもしますね。 |
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清水 |
日本でもこれから広がっていくかもしれません。 博物館などに置くよりも、野外で、都市づくりの中に、昔の記憶を保持しているものを置いていくというのは、抽象彫刻よりずっといい(笑)。
見て迫力があるし、私も最初は前を通ったときに、これは作品かなと思った。 よくよく見たらエアコンプレッサーだった。 いいもんですよ。 |
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編集部 |
横須賀では、製鉄所のスチームハンマーも残ってますね。 |
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鈴木 | 今、JRの横須賀駅前にヴェルニー記念館ができて、そこに置いてあります。 |
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清水 | 1865年製で、オランダから持ってきたものです。 |
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鈴木 |
ほんとに最初のものです。 横須賀製鉄所は、その後、横須賀造船所になるわけですが、先日、横須賀の市民向けの講座で造船所の話をしたときに、ある参加者から、「造船所はどこにあったんですか。」と質問されたんです。 今は米軍基地の中ですし、造船はしていませんからね。 20年前なら、造船所だと見ればわかったんだけれど、今はクレーンもないので、わからなくなってしまうのも無理はないのですが。 今、スチームハンマーが置いてあるヴェルニー公園のところだと思っている方もいらっしゃるみたいで……。 ものによっては、将来そういう誤解を招く可能性もありますから、「みなとみらい」のように、もともとあった場所に置いてあるということは重要ですね。 |
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清水 |
証拠品みたいなものですから、もし本当に、捨てたり、博物館などに置けないのなら、たとえ雨ざらしになっても、外に機械を置いておくというのも一つの考え方だと思います。
少なくともアメリカやヨーロッパの工業都市では、モニュメントのように置かれているところが多いですね。 横浜や横須賀では、探せば、そういう遺跡をたくさん見ることができる。 |
横浜ドックは重工業が京浜に広がるスタート点 |
鈴木 | 横浜、横須賀はドックが多いですね。 日本ではほかに類例がないでしょう。 |
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堀 |
ドックは船を修理するための施設です。 横須賀は海軍のドックで特殊ですが、民間用で国際港ということになると、大型の客船を修理する施設が必要不可欠だということで、明治31年に横浜にドックがつくられた。 ですからドックは、港湾施設の工事と一連のものとしてできたんです。 現在残っている横浜港の内防波堤、大さん橋、ドックという関係の中でできた施設で、その後、横浜からだんだん京浜のほうに向かって、重工業的なものが展開していく。
ある意味でそのスタート的な位置づけもできるのではないでしょうか。 |
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鈴木 |
横浜や浦賀にドックができる前、明治30年前後までは、横浜に入港した船の修理には横須賀の海軍造船所のドックを使っていた。 横須賀の造船所は、海軍とも、横浜の輸出入とも深く関連していて、特異な施設だったという感じがしますね。 |
明治時代は海側の交通がよく整備されていた |
鈴木 |
石川島造船所(石川島播磨重工業の前身)が、今のJR石川町駅のそばにあった横浜製鉄所を借りていて、隅田川河口の大川端の工場とつなぐような使い方をしています。 また海軍は、造船所が横須賀で、兵器製造所は築地に置いて、モノや人が往復していた。 明治時代の東京と横浜、横須賀は、ばらばらのように見えてつながっており、かえって今よりも近いような、不思議な感覚です。 |
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清水 | 海側の顔もありますからね。 汽車はあるけれど、今みたいに自動車や高速道路がなかったから、海側の交通が非常にうまく整備されていたんだと思うんです。 |
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堀 |
東京と横浜の関係で言えば、横浜に揚がる貨物のほとんどが東京に行くわけですね。 すると、京浜間の国内の船での運搬をどうするかというのが、東京のほうから言えば大きな課題で、そこに浅野総一郎たちが着目して大正初めに京浜運河をつくろうということになって、それとの関係で工場地帯ができてくる。 |
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清水 |
大量生産が始まる前の、原料がとれるところでつくり、それを運べばいいという仕組みの時代と、大型の貨物船で大量の原料を入れて、それを鉄道で内陸部まで運んでいくという、大正、昭和ぐらいになってから定着していくシステムがある。 横浜や横須賀の町には、そういうものが重層的に存在している。 町を歩いていくと、それが解き明かされていくような仕組みができればいいなと思います。 |
◇軍事から生活道具の「三種の神器」などへ |
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編集部 |
昭和の、人々の生活を変えていった新技術について鈴木先生は『新技術の社会誌』([日本の近代15]
中央公論新社)という本を書かれましたね。 |
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鈴木 |
新技術というのは、最初出てきたときは、コストの問題がありますから多分兵器だったはずで、小銃とか大砲とか軍艦、その次が交通も含めて産業の道具で、それがある時期から生活の道具というか、個人レベルで使われるようなものにまで入っていく。 早いところではランプ、本格的になると自転車とか電球、さらに扇風機とかミシン、それから自動車。 戦後になると「三種の神器」などという形で、どんどん生活の中に入ってくる。
20世紀は、機械というものが、産業の道具から生活の道具に変わるというか、生活も含めて多くのところに入ってきて、生活が技術によって大きく変えられていった。 そういう時代だったと言えると思います。 その中で京浜工業地帯は、量産品をどんどんつくっていったという面でも意味が大きいですし、それを使う人たちがたくさん暮らしていたという点も大きいと思います。 歴史は、常々、その時代の人々の暮らしはどうだったんだろうということを標語的には言うんですが、それがモノを通じて一番わかるのは近代、20世紀です。 それだけに、いろいろ難しいところも出てくると思います。 例えば電気洗濯機があって、会社としては初めて製品になった電気洗濯機は大切かもしれないけれども、歴史の上から見ると、初めてたくさん売れた電気洗濯機のほうが、つまりプロトタイプよりも量産型のほうが歴史的には大きい価値があるような気がしてくる。
見方も、産業技術の視点と、生活技術あるいは生活遺産の視点があって、そういう比較が出てくることによって変わってくるような気がします。 自転車産業で言えば、宮田製作所が昭和5年に年産20万台の蒲田工場をつくり、価格がそれまでの半額にまで低下した。 京浜間の産物です。 通勤には電車も使われますが、川崎などの海辺の工場には自転車で通勤する。 それが全国に広がっていく。 このように、生活を変えていくためにつくられた時点もあるし、使われた時点もある。
京浜工業地帯にはとくにそれがあるように思います。 |
技術に即して歴史を描くことはひとつの課題 |
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鈴木 |
京浜地域の遺産に即して近代の歴史が描けるはずなんですが、歴史学のほうが追いつかなくて、そのあたりがまだうまくいっていないというのが実感なんです。 前近代ですと、遺跡には歴史的位置づけがきちんとできていますが、近代では、内閣がかわって、戦争があってという歴史があって、付けたし的に、経済も発展してきましたという歴史がある。 別の項目には、技術ではトヨタグループ創業者の豊田佐吉とか、きちっと人の名前も出てきて紹介してあるんだけど、たとえば、赤煉瓦倉庫を見てきれいだなと思っても、それがなかなか歴史にうまく結びつかないところがある。 それは歴史をやっているほうからはすごく課題だと感じられます。 高校の教科書には、高速道路ができたという話は、それだけ書いてあるんですが、もっと重層的なものだと思うんです。 実際は、高速道路ができ、そこを走る日本の車が輸出できる車になったという変化がありますね。 昔から教科書には高速道路ができた話も、自動車の輸出がふえたという話もあるんだけど、それがつながっていない。 近代に起こった、そういうさまざまな変化は、技術を軸にもっとつなげて描けるはずで、より生活に即した、我々がこういう暮らしをするようになったのはなぜだろう、こういうことができたのはなぜだろうという、非常に素直な問いに答えられる歴史に変えていかなくてはいけないんじゃないかと思うんです。 |
◇技術革新が日本の社会を変える |
清水 |
今、我々は、いいにせよ、悪いにせよ機械の時代に生きているわけです。 ある時代から工業化社会というものがつくられ、そこでは工業とか産業が人々の生活にものすごく大きな影響を与えている。 たとえば携帯電話をみても、最初は自動車電話のようなものから始まったんですが、だんだん個人が使うようになり、さらには、それだけで一つの若者のカルチャーといわれるような、メールとか絵文字といった携帯電話文化が生まれてきた。 また携帯電話自体にも技術革新が及んでいて、見えないサイクルが無数に生まれている。 そんな社会が、日本ではどういうふうに変化してきたのか。 それはある意味ではアメリカン・ライフスタイルみたいなものと微妙にかかわっていて、大量に生産したものを大量に消費していくとか、あるいは近代技術で社会を支えていく。 |
電化製品を手に入れることが豊かさの象徴だった |
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清水 |
恐らく昭和の初めごろ、都会に中産階級なり、サラリーマン層ができてきて、そういう人々が豊かな暮らしはどんなものかと想像したときに、例えば電化製品が、豊かさの一つのイメージだったかもしれないんですね。 また実際、そのころにいろいろなものがつくられている。 国産の電気洗濯機の1号機とか、電気掃除機の1号機はこのころつくられたんです。 そのままうまくいけば、戦前のある時期に、日本もすでに電化社会みたいなものを迎えていたかもしれない。 ところが、その後、大きな戦争があったためにそういうものがまったくできなくなってしまった。 そして戦後、昭和30年代ぐらいから、もう一度、いろんな電化製品を所有したり、大量生産されたものを手に入れていく。 それがある意味では豊かさの象徴になっていった。 いいも悪いも、私たちはそれをずうっと引きずっているわけで、逆に、それは一体どういうものだったのかということは、重要なことだと思うんです。 しかし、そういうことがわかる場所というのは、なかなかないんです。 アメリカにはワシントンのスミソニアン博物館のように、中に入ると、アメリカの歴史と一緒に、自分たちがどんな電化生活をしてきたかとか、どんなふうに家庭に電化製品が入ってきたかを見ることができて、どんなふうに豊かになったのか、あるいは逆に豊かでなくなってきたのか、そういうことを示すものがある。 日本には残念ながら、そういうところがないんです。 今使っているさまざまな道具、これは一体自分にとって何なのかという認識ですね。 それがなかなかできないというか、認識するための知的なソースがないんです。 国立科学博物館も、そういうところがすごく弱い。 それを補ってくれるのが、企業系の博物館、あるいは横浜開港資料館のような、博物館、資料館のたぐいではないかと思うんです。 とくに企業博物館はおもしろいですね。 たとえば電機メーカーの資料館なら、その会社がつくった電気洗濯機とか電気釜の1号機とかが並べてある。 あるいは創業から現在まで、どんな製品ををつくってきたか、その企業の歴史をあらわすものが、ずうっと展示されている。 そういうものを見て、自分なりに頭の整理をしてみる。 お父さんの社会科見学というか、ご家族、子供さんを連れて見に行っていただきたいんです。 |
つづく |