Web版 有鄰

563令和元年7月10日発行

神奈川の怪異・妖怪 – 1面

湯本豪一

百物語本の流行と神奈川の怪異譚

「野暮と化物は箱根から先」という諺がある。この言に従えば神奈川には怪異や妖怪は存在しないわけだが、江戸にさえも七不思議と言われるものだけでも本所、麻布、番町など各地に伝えられており、江戸中が怪異・妖怪譚の宝庫だったといっても過言でないくらいで、「野暮と化物は箱根から先」は単に江戸っ子が江戸の隆盛を粋がっているに過ぎない。そんなことから当然ながら神奈川においても数々の不思議な出来事や跋扈する妖怪たちの姿が伝え記録されている。

その概要は国際日本文化研究センターの怪異・妖怪伝承データベースや何種類かの妖怪事典などでも知ることができるし、絵巻や錦絵などに描かれて残されているケースも見受けられる。さらに明治時代以降には新聞に掲載された怪異・妖怪記事も少なからず見ることができる。しかし、こうして今日まで伝えられ、私たちが目の当たりにできるのはほんの一握りに過ぎず、記録されずに忘れ去られてしまった事象は数限りないほどあったと思われる。そう考えると、いま確認できる資料は時間というフィルターを通り抜けて私たちの前で輝く怪異・妖怪たちの貴重な姿なのだ。そうした中からいくつかの事例を紹介しつつ、神奈川における怪異・妖怪の一端を紐解いてみたい。

何人もが集まり、持ち寄った怪談を話し合って怖さを楽しむ百物語会などと呼ばれる遊びが江戸時代に流行した。座敷に何本もの灯りを点けて、一人が話を終えるたびに一本ずつ灯りを消し、最後の灯りが消されて闇が座敷を覆うと怪異が生じるという言い伝えのもとに行われたイベントだ。もともとは武士の肝試しだったが、やがて庶民の遊びとしても流行していったが、それに並行して何話もの短い怪異譚を収録し、「百物語」というタイトルが付けられた「百物語本」といわれる版本も多数刊行されて人気を博した。

本来は百話収録するものだが、実際に百話収録されているのは百物語本の嚆矢である『諸国百物語』(延宝5年刊)だけで、他はどれも100話未満しか掲載されていない。これらのことから『諸国百物語』は百物語本の代表的著作といえるが、そのなかに「相模の国小野寺村のばけ物の事」「渡部新五郎が娘若宮の児におもひそめし事」「女の生霊の事付タリよりつけの法力」といった神奈川での怪異も含まれている。「相模の国小野寺村のばけ物の事」は、都から来た旅人が小野寺村で宿泊した折に化け物が出る無住の家があることを聞きつけて土産話にと思い立ってその家に泊まったところ化け物に襲われて気絶し、朝になって村人に助けられたという内容だ。いっぽうで「渡部新五郎が娘若宮の児におもひそめし事」は鎌倉を舞台としている。鎌倉は誰もが知っている古都ということもあってか、そこでの怪異は絵巻や錦絵などにも描かれている。

絵巻や錦絵に描かれた妖怪たち

俳人の与謝蕪村は画家としても卓越した才を発揮したが、宮津(現在の京都府宮津市)において画業に専念していた宝暦4年から7年にかけて描いた作品に蕪村妖怪絵巻がある。各地に伝わる8つの怪異譚を絵と短い文章で紹介しているが、そのなかに「鎌倉若宮八幡の銀杏の木の化物」とだけ書き添えられた妖怪が描かれている。座って鉦を叩く不気味な姿だ。古木の精が出現したという話は各地にあるが、千年をこえる八幡宮の大銀杏の精は説得力ある言い伝えとして信じられていたであろう。

朝比奈切通の三目大僧『百種怪談妖物双六』(部分)湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵

朝比奈切通の三目大僧
『百種怪談妖物双六』(部分)
湯本豪一記念日本妖怪博物館
(三次もののけミュージアム)蔵

いっぽう、歌川芳員が安政5年に制作した錦絵仕様の百種怪談妖物双六(むかしばなしばけものすごろく)にも「朝比奈切通の三目大僧」という妖怪が登場する。この双六はそれぞれの升目に各地の妖怪を描き紹介し、ゲームを楽しみながらあちこちの妖怪に思いを馳せることができるような趣向となっており、いくつかの色違いもあるくらい増し刷りされたことが見てとれ、ヒット作だったことがわかる。さらに、多色刷りで怪異譚を収録して妖怪図鑑的版本の名著として知られる『桃山人夜話』(別名『絵本百物語』)には「溝出」という鎌倉が舞台の話が載っている。

この話は北条高時が執権の時に鎌倉に住む戸根の八郎という武士が死んだ家来を負櫃に入れて由井の浦の海底に捨てたが、負櫃は捨てた場所に打ち上げられて櫃の中から歌声が聞こえてきた。極楽寺の僧が櫃を開けると白骨があったので寺で懇ろに葬ったが、その後、新田義貞軍が鎌倉に攻め入った時に戸根の八郎は討ち取られたが、その場所は負櫃を捨てた場所だったということを当時の人が語っていたという内容だ。また、「舞首」という話も収録されているが、ここでは鎌倉検非違使によって刑を免じられるかわりに使役を命じられた3人の罪人が仲間割れの末に全員死亡し、真鶴の海に転げ落ち、3人の首が海中で互いに食い争っていたという内容だ。

錦絵は妖怪譚をビジュアル化していることで強く訴える力があり、見る人の記憶に深く刻まれていったことであろう。それは版元の企画力でもあり、百物語本なども売れるから相次いで出されていったといえる。いっぽうで、記録やニュースとして描かれたケースも少なからず存在するが、そうしたなかにも神奈川を題材にしたものが散見できる。いくつかを紹介したい。

東北大学の図書館に『姫国山海録』という肉筆本が所蔵されている。「姫国」とは日本を意味し、「山海録」は中国最古の地理書『山海経』から採ったものだ。『山海経』は中国内外に棲むと伝えられる見たこともない生き物たちを収録しているが、その日本版という意図でつくられたのが『姫国山海録』で、宝暦12年の序がある。各地に出現した想像もしないような不思議な生き物25種類を図入りで収録し、出現場所や日付、詳細情報を記している。

そのなかに建長寺の屋根で羽化した羽の長さが四尺五寸三分もある巨大な虫を紹介している。残念ながら出現日時は記されていないが、とてつもない虫といえよう。

いっぽうで明和2年10月25日に大山に落ちて来た雷獣の記録は1枚の紙に描かれている。しかし、どちらも記録という視点から制作されたものといえる。こうした事例とは別にニュースとして報じたケースも見受けられる。ニュース性といえば瓦版が挙げられるが、二子山に出没する一丈五尺もある大百足を安政4年6月15日に槍の名人として知られる大蔵権之助が山に分け入って退治したという瓦版が出されている。ちなみに、「建長寺の虫」、「大山の雷獣」、「二子山の大百足」などは河童や人魚のように本来は存在しないのに“いる”と信じられていた生き物(幻獣)と位置づけられよう。

広大な裾野に支えられた妖怪文化

以上、さまざまな資料を紹介したが、その形態も目的も多様であることがみてとれる。こうしたなかで江戸時代の神奈川でも妖怪たちが跳梁していたのであり、まさに妖怪文化が深く広く浸透していたのだ。しかし、妖怪文化はけっして独立峰として聳えていたのではなく、文学、工芸、信仰、遊び等々、広大な裾野に支えられていたことも忘れてはならない事実だ。

『人面草紙』(部分)本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)蔵

『人面草紙』(部分)
湯本豪一記念日本妖怪博物館
(三次もののけミュージアム)蔵

ここで紹介したい『人面草紙』と名付けられた肉筆の珍本も妖怪文化に隣接する作品として位置づけられるのではないだろうか。この本は『武江年表』などの著作で知られる文筆家斎藤月岑の作で、下膨れで脱力系の異形な人面に埋め尽くされている不思議な内容だ。その人面は江戸とその近郊を舞台に活き活きと活動し、当時の様々な風俗をも活写しており全てが興味尽きない記録にもなっている。人面は鶴見や神奈川などを通って鎌倉、江の島にも詣でているが、図の上部に描かれているのは能見堂の縁側で遊ぶ人面、下部に描かれているのは岩屋に詣でる人面だ。人面の愛嬌ある姿はおもちゃ絵などに描かれる可愛い妖怪、おっちょこちょいな妖怪などと相通ずるものがある。

以上のように江戸時代に花開いた妖怪文化だったが明治時代に入ると錦絵や絵巻は衰退し、妖怪というもの自体が文明開化のなかで非科学的で荒唐無稽な陋習として廃されるかと思えた。しかし人々の心にしっかりと棲みついた妖怪たちは滅びるどころか、新聞のなかに居所を移して情報社会を生き抜き、増殖さえしていったのである。そして新聞によって江戸時代には考えられなかった海外からの怪異・妖怪情報さえも誰もが知ることとなるのである。その情報の多くは海外との窓口となった横浜から入って来たといっても過言でない。にもかかわらず江戸時代と少しも変わらない古くからの怪異譚が神奈川発の事件として数多く新聞紙上を賑わしていた。

例えば、都筑郡中山村の農家では真夜中になると髪を振り乱した女や一つ目入道などが現れ、生首が座敷を転げるので恐れて親戚の家に移ったが、この噂が広まり村の若者たちが捨て置けぬと空き家となった農家に泊まると怪異は実際に起り、村民一同が警察の分署に訴え出て調査中という記事が明治12年3月28日の『読売新聞』に載っている。こうした怪異事件簿は大正、昭和戦前期の新聞にも連綿と引き継がれているが、その傾向は神奈川も例外でない。この夏、こんな神奈川のちょっと横道にそれた歴史を覗いてみるのも一興ではないだろうか。

湯本豪一
湯本豪一(ゆもと こういち)

1950年東京都生まれ。民俗学者・妖怪研究家。
著書『妖怪絵草紙』パイインターナショナル 2,400円+税、他多数。

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