Web版 有鄰

563令和元年7月10日発行

槐多を追う人びと – 海辺の創造力

津原泰水

有島武郎に『ドモ又の死』という戯曲がある。貧しい絵描きたちが仲間内の1名の死をでっち上げ、その遺作展を画策する喜劇だ。劇中、絵描きのひとりが村山槐多の詩「一本のガランス」を歌い、こう続ける。

「村山槐多も貧乏して死んだんだ。あああ、あいつの画箱にもガランスはなかったろうな。描き奉ってしまったんだから」

ガランスとは茜色の絵具をいう。槐多が好んで用いた色だ。それはさておき、大正11年のこの作品により、村山槐多の名がその死から3年後、はや夭折の天才の代名詞となりつつあったことが伺われる。尤も有島自身、この詩人画家の伝説を不朽のものとした立役者のひとりであり、故に右の科白はマッチポンプなのだ。

槐多には従兄として、農民美術運動の指導者として知られる画家山本鼎がいた。その妻は北原白秋の妹家子。つまり槐多と白秋とは、遠い親戚関係にあった。槐多の処女作品集にして遺稿集『槐多の歌へる』の版元アルスは、白秋の弟鐵雄の会社である。

有島が槐多の存在を知ったのは、版元を通じてだろうか。完成度が高いとはいえぬその文業に余程のこと揺さぶられたようで、『槐多の歌へる』の推賞者筆頭(他には与謝野鉄幹、晶子、高村光太郎、芥川龍之介、室生犀星、竹友藻風)として「超人的な優れた能力と生まれたばかりの嬰兒のやうな天國の記憶とを濶澤に持合はした尊い人格」云々の絶賛を寄せるのみならず、画家としての槐多の代表作の1枚《カンナと少女》を買い上げて、雑司ヶ谷霊園にある丸い墓石の購入費用とさせた。

推賞の辞を寄せた時点での真意は量りかねるが、個人雑誌「泉」の創刊号にて『ドモ又の死』を発表したときの有島が、夭折者の履かされる下駄の高さにアイロニーを感じていたのは間違いなかろう。それでいて自ら槐多病に罹っていた気配があるのが、一層のアイロニーだ。有島が人妻との情死というかたちであっさりとその人生の幕を引いたのは、『ドモ又の死』の翌年のこと。

ところが槐多の方は自殺者ではなかった。結核持ちだったがその進行により死に至ったのでもなく、当時猛威をふるっていたスペイン風邪によって、病と共に生きる気力に満ちたまま、不意に命を落としたのである。この死に様を踏まえずに、槐多の詩を鑑賞するのはたいへん難しい。

肺病の自覚から、その文業は常に歩み寄る死を見据え、デカダンスを志向していた。しかし実際に彼の発した無数の言葉はといえば、矢継ぎ早、乱雑、不用意、過剰な情熱で高温に熱せられていて、なんだか手が付けられない。燃えさかる命を千切って千切って、あたり構わず投げつけているようなのだ。芸術への初期衝動でぱんぱんに張り詰めたまま、満22歳にて姿を消した村山槐多、老いも諦めも知らずに死んだ「火だるま槐多」に、理想を見出し、憑かれ、追わんとする人々は今も後を絶たない様子である。

(作家)

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