Web版 有鄰

563令和元年7月10日発行

キャンプ座間と相模総合補給廠
-米軍極東戦略のメッカ- – 2面

栗田尚弥

日本軍施設から米軍キャンプへ

現在神奈川県内には、12の米軍基地や施設が存在するが、原子力空母の母港である横須賀海軍施設や夜間連続離着陸訓練(NLP)など様々な問題を引き起こしてきた厚木航空施設(厚木飛行場)に比べ、キャンプ座間や相模総合補給廠の「知名度」は全国的に見て高いとは言えない。

だが、開設以来、キャンプ座間や相模総合補給廠は、我々が考える以上に、米国(米軍)の対日占領政策や極東戦略において重要な役割を担ってきたのである。

1937(昭和12)年の陸軍士官学校本科の移転をきっかけとして、相模原・座間地域には、陸軍造兵廠東京工廠相模原兵器製造所(後に相模陸軍造兵廠と改称)などの陸軍施設や民間軍需工場が次々と立地され、41年4月には地域の二町六村が合併、日本有数の「軍都」、「相模原町」が誕生した(座間は戦後の48年に分離)。

しかし、1945年の敗戦にともない、他の多くの日本軍施設同様、相模原の陸軍施設も米軍に接収された。

特に米第8軍の第4補充処となった陸軍士官学校は、東日本に展開する連合国軍(米軍)部隊の集結地として使用された。ちなみに、日本が連合国軍の直接軍政下に置かれた場合には、相模原は関東地方における軍政の中心地のひとつとなることを予定されていた。

占領開始当初、連合国軍最高司令官マッカーサーは、日本が「民主化」した後の連合国軍の撤収を考えていたという。しかし、冷戦の激化にともない、トルーマン・ドクトリン(47年3月)に象徴されるような共産主義封じ込め論が米国内において高まると、日本国内における左翼勢力の拡大を防ぐために米軍の進駐継続が説かれるようになった。

この時、日本各地の米軍駐屯地は、長期駐留を前提とした「キャンプ」となり、陸軍士官学校跡地も正式に「キャンプ座間」の名称を与えられた。

日本防衛の中枢

朝鮮戦争時、キャンプ座間に配置された高射砲

朝鮮戦争時、キャンプ座間に配置された高射砲
米国国立公文書館蔵

1950年4月、米国家安全保障会議(NSC)は、「報告第68号」(NSC68)を作成、トルーマン大統領に提出した。NSC68には、西半球における西側諸国の戦争遂行能力の向上等とともに、日本における米軍の基地や施設の恒久化も明記されていた。その目的は、日本国内の米軍に極東有事の際の〈対東側陣営前線部隊〉としての役割を担わせることにあった。

1950年6月の朝鮮戦争の勃発により、日本国内の米軍基地や施設の恒久化と米軍の〈前線部隊〉化は確定的となった。そしてキャンプ座間は、米軍の後方基地・兵站基地としてその重要性を増していった。また、旧相模陸軍造兵廠は改めて接収され、横浜技術廠相模工廠(現、相模総合補給廠)となり、東洋一の米軍工廠として24時間体制で操業を続けた。

1952年4月、前年9月に対日講和条約とともに締結された日米安全保障条約が発効し、米軍は「占領軍」ではなく、「在日米軍」となった。同時に、連合国軍によって接収されていた多くの施設は、日本政府から米軍への提供財産となり、キャンプ座間など相模原・座間地区にあった連合国軍の基地や施設6ヶ所も、米軍による「無期限使用」に供された。

1950年代のキャンプ座間全景

1950年代のキャンプ座間全景
米国国防総省蔵

このうち在日米陸軍司令部が置かれることになったキャンプ座間は、横須賀(海軍)、立川(空軍)と並ぶ在日米軍の「三大基地」のひとつ、あるいは「日本防衛基地の中枢」と目されるようになっていった。

1960年代から70年代前半にかけてのベトナム戦争においても、相模原・座間地区の米軍基地や施設は、米軍やその同盟国の後方・兵站基地として大きな役割を果たした。

特に、相模補給廠(現、相模総合補給廠)は、M48戦車やM113装甲兵員輸送車の「再生業務」の中心施設となり、その為いわゆる「戦車闘争」を引き起こすことになった。

米軍再編成とキャンプ座間

1969年のニクソン・ドクトリン以降、東西両陣営間のデタント(緊張緩和)が進み、73年には米軍がベトナムから撤退した。デタントの進行にともない在日米軍の基地や施設の縮小あるいは日本側への返還が進み、1980年代には相模原・座間地区の米軍基地・施設は、キャンプ座間、相模補給廠など3ヶ所のみになっていた。

しかし、1990(平成2)年のイラク軍のクウェート侵攻はこの縮小・合理化に歯止めをかけることになり、米軍再編成(トランスフォーメーション)が始まった。

99年12月、トランスフォーメーションの中心にいたエリック・シンセキ陸軍参謀総長がキャンプ座間を訪れた。その半年後(2000年6月)、キャンプ座間の在日米陸軍/第9戦域陸軍コマンド司令部(在日米陸軍司令部)は規模を拡大し、在日米陸軍/第9戦域支援コマンド司令部となった。

2001年9月に米本土で発生したイスラム過激派による同時多発テロは、トランスフォーメーションの動きを加速した。そして、この加速化の動きは、相模原・座間地域にも押し寄せた。

2004年、米第1軍団司令部の移転計画が明らかにされた。この計画は、現在東京都の米空軍横田基地にある在日米軍司令部を、米国内からキャンプ座間に移転される第1軍団司令部に移し、さらにこの司令部にアジア方面の米陸海軍と海兵隊を指揮・統括させるというものであった。

この計画が実現されれば、キャンプ座間にアジア(中東を含む)・太平洋全域の安全を担う前線司令部が置かれることになる。ちなみに、2011年、オバマ大統領は、米軍事戦略の重点をアジア・太平洋方面に置く「アジア太平洋リバランス」方針を表明したが、第1軍団司令部が移転すれば、キャンプ座間はこの米軍リバランスの〈司令塔〉ともいうべき基地となる。

2006年5月、「(在日米軍)再編実現のための日米のロードマップ」が日米間で合意された。そして、この「ロードマップ」に基づき、第1軍団司令部の第一段階として第1軍団前方司令部がキャンプ座間に開設された(在日米陸軍司令部が兼務)。

また、2011年には、最新のデジタル訓練施設である戦闘指揮訓練センターが相模総合補給廠内に開所した。さらに、2013年には日米共同作戦を前提とした陸上自衛隊の精鋭部隊、中央即応集団の司令部(CRF)もキャンプ座間(座間駐屯地)に配置された(中央即応集団は2018年に廃止されたが、代わって陸上総隊が創設され、現在座間駐屯地に総隊司令部の日米共同部が置かれている)。

第1軍団司令部は未だキャンプ座間に移転していない。しかし、キャンプ座間や相模総合補給廠の米軍内での役割は確実に高まっている。

たとえば、2018年10月に相模総合補給廠に開設された第38防空旅団司令部は、インド・太平洋方面での米陸軍の防空ミサイル防衛の拠点になるという。

近く、キャンプ座間や相模総合補給廠など相模原・座間地域の米軍の基地・施設について有隣新書として上梓することになった。開設以来70年にわたるこれらの基地や施設の実態や役割について、歴史的に明らかにすることが出来れば幸いである。

栗田尚弥(くりた ひさや)

1954年東京都生まれ。國學院大學講師。
編著『米軍基地と神奈川』有隣堂 1,000円+税・『地域と占領』日本経済評論社 4,500円+税ほか。

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