Web版 有鄰

565令和元年11月10日発行

神奈川が生んだ横綱・武蔵山 – 2面

平井誠二

全場所勝ち越して横綱へ昇進した角界のヒーロー

新横綱武蔵山関(大倉精神文化研究所蔵)

新横綱武蔵山関
大倉精神文化研究所蔵

大相撲の長い歴史の中で、横綱として頂点に立った力士はわずかに72人のみである。その中で、なんと初土俵以来全ての本場所に勝ち越して横綱まで昇進した力士がたった1人だけいる。大正15年に初土俵を踏み、昭和10年に第33代横綱となった武蔵山武(1909~69)である。神奈川県出身の唯一の横綱でもある。ところが、今では相撲ファンや地元の古老がわずかに名前を覚えている程度であり、武蔵丸(第67代横綱)と間違えられることすらある。

しかし、昭和の初め、現役当時の武蔵山の人気はすさまじかった。『わが世代大正十年生まれ』(河出書房新社1979年刊)によると、「子供たちの一番の人気者は武蔵山だった。それはもう颯爽たる大豪力士で、男っぷりもよく、前頭から幕内、三役へと勢いよくぐんぐん登ってゆくさまは、まるで飛竜を見るような思いだった」と回顧している。

当時の力士の平均身長は176センチ程で、六尺(182センチ)を超えると巨人型といわれた。武蔵山は186センチの長身と金剛力士像のような均整の取れた体躯であり、スピードのある立ち会いから右腕の怪力を活かした豪快な下手投げで勝利する姿は、古来よりの相撲型でない近代的スポーツ型、都会的とか現代的力士と呼ばれた。圧倒的な強さで序ノ口から十両までを計6場所で突破したスピード出世は、当時の流行語で流線型とか飛行機昇進といわれ、相撲ファンや子供たちを熱狂させたのであった。

さらには愁いを含んだ甘いマスクが、当時売り出し中のハリウッドスター、ゲーリー・クーパーに似ているといわれ、女性の人気も独占した。

子どもの時から変わらない母親孝行

この人気に拍車をかけたのが武蔵山の生い立ちである。

たとえば、武蔵山が横綱になった昭和10年、女性月刊誌『婦人倶楽部』7月号は「天晴れ若き新横綱武蔵山の母子愛涙話」を、少年向け総合雑誌『少年倶楽部』7月号は「新しく横綱になった孝子武蔵山」を掲載している。弁論雑誌『雄弁』7月号の「流線型出世男新横綱武蔵山」も、記事の大半は母親孝行を紹介する内容となっている。母親孝行、家族思いの青年横綱として、老若男女を問わず幅広い人気を誇っていたことが分かる。

武蔵山武、本名横山武は、明治42年に神奈川県橘樹郡日吉村字駒林(現、横浜市港北区日吉本町2丁目)の農家に、5人兄弟の長男として生まれた。

横山家は、江戸時代より続く裕福な農家だったようだが、武少年が小学生の時、父親が不在となり土地も屋敷も抵当に取られ、母と5人の子供たちの生活は一気に苦しくなった。武は小学校卒業当時で五尺六寸(約170センチ)もの身長があった。進学を諦めて、母を助けて必死に働く姿は周囲の人から「大人」とあだ名された。その頃のことであろうか。横山家の脇に赤門坂と呼ばれる急坂があるのだが、荷車を引いた子牛がその赤門坂を上れないでいるのを見て、子牛の代わりに自分で荷車を坂の上まで引き上げたという怪力の逸話も残している。

家計を助けようと、武少年は各地の草相撲に出場しては母親に懸賞品を持ち帰っていたが、多摩川丸子の広場で開催された相撲大会に出場したのが、近隣の中原町長の目に留まったことが出羽海部屋入門のきっかけとなったといわれている。大正14年に16歳で出羽海部屋に入門し、武蔵山の四股名をもらう。

師匠の出羽海親方が入門当時の武蔵山へ、なぜ力士になりたいのかと尋ねたところ、「お母さんを幸福にしてあげたいからです」と答えたという。一方、武を送り出し働き手を失った横山家では、武が出世するまではと辛抱に辛抱を重ねていた。武蔵山は、きっと田植えも満足に出来ないだろうと心配して、入門の翌春、親方に内緒で部屋を抜け出して、母親には休みをもらったと嘘をついて3日間も実家の田植えを手伝ったという逸話も残している。後で事情を知った親方は怒るに怒れなかったという。

武蔵山は本場所後の休日には必ず日吉村に帰り、巡業先では母親に手紙を書き土産を買い求めていた。昇進して収入が増えると弟2人を中学に進学させ、人手に渡っていた土地1000坪を買い戻し、昭和9年には母親のために55坪の大きな屋敷を新築している。

昭和10年5月に横綱昇進が決まった時も、昇進時のインタビューに「日吉村のおっかさんには今日は会へないが、もちろん、電報を打ちますよ、ホッホ、ホッホ」(5月22日付『東京朝日新聞』)と笑って答えている。

角界の救世主から悲劇の横綱へ

武蔵山が入門した当時の相撲界は、東京と大阪の相撲協会が合併して大日本相撲協会が発足したばかりであった。関東大震災や昭和恐慌の影響もあり、相撲人気は低迷していた。こうした暗い世相を跳ね返し、相撲人気を盛り返して角界の救世主と呼ばれたのが武蔵山であった。

「武蔵山会」という後援会が結成されると、神奈川を中心として全国からファンが集まった。応援歌も、川崎生まれの詩人佐藤惣之助の作詞、笛吹童子の曲で有名な福田蘭堂の作曲で作られた。

昭和6年5月には会報雑誌『武蔵山』(綱島生まれの俳画家飯田九一と佐藤惣之助が編集) も刊行された。ちょうどこの時幕内優勝した小結武蔵山は、関脇をとばして一気に大関に昇進した。小結から関脇を飛ばしていきなり大関に昇進したのは、近代相撲の歴史の中で武蔵山と第39代横綱前田山の2人だけである。角界からいかに期待されていたかが窺えよう。

ところが、武蔵山の活躍はこの頃までであり、後に悲劇の横綱と呼ばれることになる。

発端は昭和6年10月の大阪本場所9日目、沖ツ海との対戦で右腕を骨折したことであった。翌昭和7年には角界を二分する春秋園事件が発生した。角界一の大勢力を誇る出羽海一門の力士多数が、角界の改革を唱えて大日本相撲協会から脱会したもので、出羽海部屋の武蔵山も一時期これに加わっていた。事件の真相は定かでないが、改革派から抜けた武蔵山は裏切り者呼ばわりされ、また事件の前後に「拳闘界への転身」と度々報道されるなど、心労が重なり胃を壊した。さらにケガの古傷も重なって、横綱昇進後は、心身共に満足に相撲が取れない状態となった。

この時、武蔵山に代わって一躍注目を浴びたのが、伝説の横綱双葉山である。双葉山は、春秋園事件による力士不足を背景として出世し、昭和11年から14年にかけて69連勝する。一方、武蔵山はこの間休場続きとなり、横綱在位わずか8場所(内皆勤1場所) で、昭和14年5月に29歳5ヶ月の若さで現役を引退している。2人の対戦成績を見ると、武蔵山が4勝2敗1分けで双葉山に勝ち越している。もし怪我さえなければ、双葉山と数々の名勝負を繰り広げたものと思われる。

引退した武蔵山は年寄となりやがて理事として相撲協会を支えたが、それも終戦までで、間もなく廃業して角界を離れた。

武蔵山の実家は、東急東横線日吉駅から普通部通りを抜けて、横浜市立日吉台小学校の校庭脇を通った先にあった。武蔵山が校庭前を通りかかると、全校生徒が教室の窓辺に集まり手を振ったと伝えられている。日吉駅では万歳の声が轟いたともいう。地元では誰もが知る英雄であったが、双葉山の活躍と戦争を挟んで、次第に忘れられていった。

現在、港北区には綱島小学校と新羽小学校に立派な屋根付きの土俵があり、太尾下町子供の遊び場にも土俵がある。横浜市内で一番相撲が盛んな区であるが、関係者ですら武蔵山のことを知らない人が多い。今年は、武蔵山の生誕110年、新入幕90年、現役引退80年、没後50年の節目の年にあたる。神奈川が生んだ唯一の横綱武蔵山を、再評価したいと考えている。

平井誠二 (ひらい せいじ)

1956年岡山県生まれ。大倉精神文化研究所所長。歴史家。専門は日本近世史。

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