Web版 有鄰

565令和元年11月10日発行

相模灘の脅迫 – 海辺の創造力

富野由悠季

週ペースでTVアニメの制作をしている頃は、小田原まで出向いて、海を見に行くことなどはできなかったし、海岸線上に西湘バイパスが建設されてしまった浜から海を見る気もしなかった。が、このコーナーをいただいて、嫌でも海辺の想像力というものが自分にはなかった、と思い知らされた。

ぼくにとって、御幸ヶ浜から眺められる相模湾の海は湾ではなく、灘というイメージだった。波が容赦ないということ、大島の島影は見えるのだが、たいてい霞んでいたので、海の景色として愛想がないのだ。それでも、水泳を酒匂川で覚えて、中学時代には波打ち際から泳ぎ出すことをしたのがこの海だから、潮の流れが厄介なものだと身体が覚えたものだ。

台風一過の波を見に東町海岸まで出かけたこともあって、そんな時は、60キロほど先にある大島がくっきりとした輪郭を見せてくれて、感嘆もした。しかし、高校のある城山から見晴らせる町並に詩情を感じなかったのは、慣らされていたからだろうし、片思いにもならない片鱗に身を揉むだけの色褪せた青春だったので、両親が育った東京に逃げ出すしかなかった。

さらに後年、生家の近くにあった高さ20メートルほどの丘陵の上にあった白山神社が、その足元を削られて、神社がその直下の平地に降りてきてしまった事実を知らされた時の喪失感は大きかった。

ぼくの住んでいた多古という地名は、古墳時代以前には岬であったという証の地名なのだが、その高台にあった神社を平地に降ろした現代人の感覚に、将来、洪水に見舞われたらどうする!?と呆然としたものだ。

しかし、これは、この土地に住めなかった人間の言い草で、住んでいる人々にとっては、神社の足元を切り崩して自動車道にしたことで便利になり、復活させた多古白山神社のお祭りも賑やかになったと聞かされた。

戦後の一時期、祭りをやらなくなり、山車がどうしたという話も聞かされない余所者扱いをされていたぼくは、地元の言葉など絶対に覚えないと意地を張った結果が、アニメの仕事だったのだから、故郷との関係は一切合財ないものと思っていた。

しかし、近年にいたってこの郷里感覚からなのか、そうではなく、自堕落になったからなのかは知れないのだが、その精神的な土壌がガンダムのような世界観を生む力になったと想像できるようになった。

屁理屈だろうが、拠るべきものがなく、文芸的な創意に寄り添うこともできない身であれば、組し易いジャンル(参入者がいなかったという意味)で食いつないでいこうとすれば、アニメで表すエセSFの世界に逃避をしたのだ、というロジックはあり得よう。

そして、時にどうしようもなくなると、あの茫漠たる愛想のない相模灘を眺めに行って、両手に収まる世界などはないのだ、とぼくに語りかけてくるのだから、リアリズムを直視することなどはない、ということになる。

(アニメーション映画監督)

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