Web版 有鄰

565令和元年11月10日発行

秋の夜長に上質のミステリーを – 1面

深町眞理子

英国の紳士階級に広まったスポーツ精神とラグビー

筆者がこの稿を書いている9月下旬現在、アジアで初めて開催される〈ラグビー・ワールドカップ2019日本大会〉が開幕し、各地でこの競技の精髄とも言うべき選手たちが躍動している。前回2015年のイングランド大会で、日本代表は“世紀の番狂わせ”と言われた対南アフリカ戦をはじめ3勝1敗の好成績をおさめながら、8強による決勝トーナメントには進めず、涙をのんだ。今回こそは悲願の8強入りを、とだれしも願っているのだが――

周知のようにラグビーは、1823年、英国独自の知的エリート育成機関であるパブリックスクールのひとつ、ラグビー校で、フットボールの試合中に、ついわれを忘れたエリスという生徒が、規則に反してボールをかかえて走りだしたことから始まった。それがやがて他のパブリックスクールにも広まり、日本でも1899年、慶應義塾大学に赴任した英国人教師が、ケンブリッジ大でともにプレーしていた日本人留学生を誘い、義塾の塾生に教えたのが嚆矢とされる。要するにラグビーという球技は、英国の知的エリート層を成す紳士階級のあいだで始まり、そこから世界各地の、同等の階層に広まっていったスポーツで、現在もなおその精神を受け継ぎ、闘う相手はあくまでも紳士同士、国や地域同士の争いではない。だから選手たちもつねに相手への敬意を失わず、「ONE・TEAM」(ちなみにこれは現日本代表のスローガンでもある)として、“ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワン”の精神を体して闘い、そして試合が終われば、“ノーサイド”と称して、敵味方の別なく健闘をたたえあい、ビールで乾杯する。

ところで、現日本代表には、ほぼ半数を占める外国出身の選手がいるが、これもまた、この競技のこうした根本精神にのっとったもので、したがって、豈日本代表のみならず、海外にも“多国籍軍”は少なくない。一度ある国の代表になれば、のちにべつの国の代表になることはできない定めだから、各選手は相応の覚悟を持って代表に加わっているわけで、まさに前回2015年大会で五郎丸歩選手が言ったとおり、「母国よりも日本を選び、日本のために闘っている最高の仲間」なのだ。

知的エリート層に愛される上質のミステリー

『ミス・マープルと13の謎』(創元推理文庫)

『ミス・マープルと13の謎』
創元推理文庫

さて、この小文を場違いとも思えるラグビー談義で始めたのには、わけがある。この競技をつくりあげ、今日の隆盛にまで導いてきた英国の知的エリート層こそは、そのまま、国家の中軸として昔も今もこの国を背負ってきた層(実際、失礼ながら傍目には“むちゃくちゃやってる”としか思えない現首相にしても、名門パブリックスクール、イートン校からオクスフォードに進んだ、生っ粋のエリートにほかならない)であり、同時にまた、実にこの層こそが、筆者の深く愛する、そして翻訳者としての生活の礎でもある“上質のミステリー”を、作者として生みだし、読者としても支えてきた人たちだからなのだ。これは筆者の年来の持論なのだが、狭義の“ミステリー”は元来、心身ともに相応のゆとりをもって生きている層のあいだでこそ生まれ、読まれ、発達してきたものだと思う。物語の中心となる名探偵たちも、だから当然のようにこの層出身の、いわば“精神貴族”ばかり。シャーロック・ホームズ然り、エラリー・クイーン然り、金田一耕助然り、そしてミス・マープルまた然り。いや、ミス・マープルに限らず、アガサ・クリスティの諸作品に登場する主要人物は、例外なくこの階層に属すると言っても過言ではない。

そういう意味では、筆者が翻訳を担当し、今年初めに東京創元社の創元推理文庫〈名作ミステリ新訳プロジェクト〉の第1弾として出た、『ミス・マープルと13の謎』など、その最たるものだろう。〈火曜の夜〉クラブと称する親しい者同士の集まりで、6人のメンバーがそれぞれひとつの未解決事件を紹介し、たがいに推理を競いあうのだが、ミス・マープル自身をも含めて、6人は等しくこの階層に属するインテリ。前ロンドン警視庁総監のヘンリー・クリザリング卿はもとより、英国国教会の司祭ベンダー博士、事務弁護士ペザリック氏、画家のジョイス・ランプリエールに、ミス・マープルの甥で作家でもあるレイモンド・ウェスト。そしてミス・マープル本人はというと、作中の一編で昂然と胸を張って言っているとおり、当時としてはかなり高い水準の教育を受けており、幼いころは住み込みの女家庭教師から全人教育を、その後はレディーとしての嗜みに磨きをかけるため、ヨーロッパの寄宿制女学校に行っている。作者クリスティ自身もこのへんはまったくおなじで、要するに英国の良家の子女は、現代の日本人の考える小・中学校教育とはまったく性質を異にする教育を受け、そして男子は当然のように、パブリックスクールからケンブリッジないしオクスフォードへ。つづめて言うなら、ミス・マープル本人を含めて、〈火曜の夜〉クラブのメンバーは例外なく、語の本来の意味でのジェントルマンであり、レディーなのだ。『13の謎』の後半では、顔ぶれの一部が入れかわり、新たに軍人、医師、女優が加わっているが、これらも前半の聖職者や弁護士同様、知的職業であることは言うまでもあるまい。

『13の謎』以前にも、筆者はクリスティの作品を数多く手がけている。ミス・マープルと並ぶ名探偵、エルキュール・ポワロの『ABC殺人事件』をはじめ、『おしどり探偵』としてTVシリーズにもなっているトミーとタペンスの『親指のうずき』、『招かれざる客』を含む戯曲数編、冒険小説の範疇に入る『七つの時計』、そして作者最初のノンフィクションで、おもに1930年代後半、考古学者で二度めの夫であるマックス・マローワンとともに、中東各地で発掘調査にたずさわっていたころを描いた『さあ、あなたの暮らしぶりを話して』等々、多岐にわたる。そして職業探偵であるポワロはさておき、これら諸作品の中心人物はいずれも、ここまで延々と話題にしてきた知的エリートたち。狭いと言えば狭いが、それがクリスティの世界なのであり、ミス・マープルが登場して以来およそ100年近く経たいまなお、先述した現首相の例でもわかるとおり、この層こそが社会の中枢を担いつづけ、それがそのまま英国という国をかたちづくっているのである。

その世界に身を置くだけで出てくる訳文を大事に

『わらの女』/『007 カジノ・ロワイヤル』(創元推理文庫)

『わらの女』/『007 カジノ・ロワイヤル』
創元推理文庫

と、ここで唐突に話は変わるが、つい先だって、ある雑誌と新聞とで、二人の著名俳優がそれぞれ、実質的におなじ内容の発言をしているのを目にした。ひとりは、「芝居になにより必要なのは、あれこれ考えて役づくりをするより、台本に書かれていることを“感じる”ことであり、俳優はただ感じたことをそのまま演じればいい」と言い、もうひとりは、「どんな作品でも、ただその場所に身を置くだけでいい。そうすれば自然に、この人物ならこれ、あの人物ならこれ、という雰囲気が出てくる」と言う。ちなみに筆者はかねてから、「訳者は役者である」を標榜しているが、そう言いだしたのは70年代初め、かれこれ半世紀近くも前のことだし、このかんにおなじことをあちこちでしゃべったり書いたりしてきたから、両者の共通点とか、なぜ共通していると考えるのか、等についてはここでは省略する。それでもこの二俳優の発言を読んで、わが意を得たというか、おおいに意を強うしたのは確かだ。

前者の言う“役づくり”を訳者にあてはめれば、事前に作品の背景を調べたり、かりに古い作品なら、現代の読者にも読みやすい訳文を、と工夫したりすることにあたるだろうが、筆者の場合、そうした作業はいっさいしない。とくにクリスティなど、作品の背景といったものは“素養”としてとうに身についているし、後者の言うように、“ただその世界に身を置けば”、意識的な操作などなんら施さずとも、ふさわしい訳文はおのずと出てくるものであり、またそれを大事にしたくもあるからだ。『13の謎』でも、これは変わらず、ただたんにミス・マープルの世界に身を置き、そこから自然に出てきた訳文を書きとめたにすぎない。

最後になったが、創元推理文庫の〈名作ミステリ新訳プロジェクト〉は、ほぼ1カ月に一作の割合で順調に進んでいる。それもいわゆる“古典的な”名作ばかりでなく、新しき古典とも言えるカトリーヌ・アルレー『わらの女』(橘明美訳)や、イアン・フレミング『007/カジノ・ロワイヤル』(白石朗訳)も含まれているし、これからもこの路線は続くはずだ。筆者が言うのもおこがましいが、品質は保証つき。ぜひとも秋の夜長にこれら選び抜かれた上質の新訳の数々を、手にとってみていただきだい。

深町眞理子
深町眞理子 (ふかまち まりこ)

1931年東京生まれ。翻訳家。訳書『アンネの日記』文春文庫 960円+税 『シャーロック・ホームズの冒険』創元推理文庫 900円+税ほか多数。

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