Web版 有鄰

567令和2年3月10日発行

スポーツ小説を書く理由 オリンピックに寄せて – 1面

堂場瞬一

生で観るオリンピックの素晴らしさ

オリンピックは一度だけ、生で現地観戦(取材)したことがある。1998年の長野だ。

この時、事前準備でちょっとあたふたしたのが、カーリングだ。平昌オリンピックで日本女子が銅メダルを獲得し、今でこそ多くの人に馴染みの競技になったが、正式種目になったばかりのこの時は、何が何だかさっぱりだった。事前に取材してみたものの、頭の中は「?」のまま。氷上のチェス?何だそれ、状態である。今のように、ネットで動画を探せばすぐに試合を観られる時代でもない。結局、ルールも試合運びもよく分からない状態で現地入りすることになった。

ところが、実際に観戦するとすぐにピンときた。あれは何だったのだろう……広い競技場なのでプレーを完全に把握することができないはずなのに、何故かルールも分かったし、すんなり試合の流れに入っていけて、1投ごとに一喜一憂したものだ。

さて、ここで問題です。あるスポーツを全然知らない人に、その素晴らしさを1から教える時には、どうしたらいいのか。

①現場で試合を観せながら解説する②テレビ観戦させる③そのスポーツをテーマにした映画やアニメなどの映像作品を観せる④同じくスポーツ紙の記事やノンフィクションを読んでもらう⑤ひたすら熱く語る――難易度はこういう順番だろうか。①が、私がカーリングを理解した方法になる。現場ならではの熱量が、理解を後押しするのだろうか。分からないと、教えてくれる人が必ずいますしね。

とはいえ、①と②はひっくり返るかもしれない。現場では、見辛い席に座ってしまうかもしれないが、テレビの中継なら一番いい場面をしっかり映してくれて、しかも専門家の解説つきだ。

そして「小説を読んで知ってもらう」は、⑤からぐっと引き離されて、ぶっちぎりの最下位になるのではないか。

文章でスポーツを伝える

20年近くスポーツ小説を書き続けてきて感じるのは、リアルの世界でスポーツが年々盛り上がっていくのに対して、スポーツ小説はまだまだマイナーな存在にとどまっている、ということだ。

当然と言えば当然かもしれない。わざわざ小説を読むより、実際の試合を観る方が、ドラマチックな場面に出会える可能性が高いのだから。

「事実は小説より奇なり」というやつですね。

しかも文章は、生の迫力になかなか勝てない。「描写や説明の限界」があるからだ。

小説では、人の動きの描写は絶対に必要だ。それこそが作家の腕の見せ所でもある。しかしスポーツにおいては、ただ人の動きを描写するだけでは済まない状況にしばしば遭遇する。そこに「ルール」や、そのスポーツ独特のプレーが絡んでくるからだ。

例えばラグビーで、タックルからラックになり、攻撃側に反則の笛が吹かれた――ルールをよく知っている読者相手なら「ノット・リリース・ザ・ボール」と反則名を書くだけで、何があったかはすぐに分かる。しかしルールが分からない人のことを考えると、倒された攻撃側のプレーヤーがボールを離さなかった、という「説明」を入れなければならなくなる。この説明が文章のリズムを崩してしまうことがあるし、ルールを分かっている人からすると「言わずもがなじゃないか」と白けてしまう。

この按配が実に難しい。

小説に比べて、漫画やアニメではスポーツ物は一大潮流だ。絵や動画で見せられれば、どんなに難しいルールでも複雑な動きでも、すぐに理解できる。こちらが数ページを費やしてようやく説明しなければならない場面が、たった1枚の絵で済んでしまったりするのだから、やはり絵の説得力、説明力というのは凄まじい。もちろん、その1枚にかける労力は、文章を書くのとはまた異なる大変なものだろうが。

初めて書いたスポーツ小説は野球がテーマだったが、その後様々な競技を題材にする中で、「野球はまだましだ」と思えるようになってきた。日本において野球はメジャースポーツであり、試合の流れや選手の動きを、細かい説明抜きで書いていくだけでも、きちんとついてきてくれる読者は少なくない。

あまりルールを説明せず、描写だけで読者を引っ張れるのは、あとはマラソンぐらいだろうか。「走る」というのは、マラソンを経験したことがない人でも、感覚的に分かる部分が多いと思う。それにマラソンの場合、それほど劇的な展開があるわけではなく(ゴール前のデッドヒートなんて滅多に見ないですよね)、ルールも複雑ではない。レース中の選手の心理描写が中心になるから、テクニカルな面での面倒な描写や説明を大胆にカットしても不自然にならないわけだ。

もちろんスポーツ小説は、試合の場面だけを描くものではない。むしろそこに至る過程で選手がどんな努力をするのか、どんな軋轢が生まれて、それが解消されるのかされないのか、そういう人間ドラマを楽しみにしている読者が多いのは十分理解している。長編で、全部が試合シーンだったらうんざりしますよね。ここでもやはり、按配の問題が出てくるわけだ。

いろいろ難しい問題を抱えながらも、何とか純粋なスポーツ小説を書き続けているのは、スポーツは人間のエゴの分かりやすい発露だ、という信念があるからだ。勝ち負けを競うスポーツは、本来人生や社会において「なくて困る」ものではない。「あいつに勝ちたい」「優勝して自慢したい」という気持ちは、間違いなくエゴではないか。

スポーツの奥底に潜む人間のエゴを描く

『チームⅢ』・表紙

『チームⅢ』
実業之日本社:刊
3月9日発売

ここからちょっと宣伝です。東京オリンピックの本番前、3月から6月にかけて4ヶ月連続で、オリンピックをテーマにした小説を刊行する。やはりこの絶好のタイミングで、スポーツについてまとめて書いておきたかったからだ。2021年のデビュー20周年を前にして、ちょっとした「中締め」の意識もある。

取り上げるスポーツは「野球」「マラソン」「7人制ラグビーと円盤投(つまり二刀流)」、そして番外編的に「(ラジオによる)スポーツ中継」だ。まだ開かれていないオリンピックの「架空の」本番を舞台にしたものもあれば、それを目指す過程を描いたものもあるし、過去に題材を取ったものもある。シチュエーションも登場人物も様々なのだが、その根底に共通しているのはやはり「エゴ」だ。何のために勝利を目指すのか、そしてスポーツにかかわるのか、突き詰めて考えていくと結論は同じになる。

去年は、スポーツとエゴについて深く考えさせられる出来事があった。予想を遥かに上回る盛り上がりを見せた、ラグビーワールドカップの決勝である。南アフリカに敗れて準優勝に終わったイングランドの選手が、表彰式で銀メダルの受け取りを拒否したり、首にかけてもらってもすぐに外してしまったりして、「試合が終われば敵も味方もない」というノーサイドの精神(ここでも説明が必要でしょう)から外れている、と大批判を浴びた問題だ。

試合が終われば相手のプレーを褒め称えて握手を交わし、敗れても良き敗者たれ、というのがラグビーの基本精神だとよく言われるが、負けて悔しく、理性を失うのは当然でしょう。冷静でいられるわけがない。しかもその試合が、ワールドカップ決勝戦という世界最高の舞台なら、これ以上の悔しさはないだろう。優勝チームはすべてを得るが、準優勝には何もない……。

ラグビー選手として子どもの頃から叩きこまれた基本精神でも抑えきれない、人間の本能――エゴが、あの表彰式の舞台で露見したのだと私は考えている。後から学習したものではどうしようもないことがあるんだよな、と「人間の本質」のようなことさえ考えてしまった。

人間を描く――人間の心の奥底に潜むものを抉り出すのが小説だとしたら、私にとってスポーツ小説を書く意味は、まさにそのエゴを明るみに出すことだと確信している。もっとも、読者がそういうテーマを好むかどうかは別問題なのが悩みのタネだ。実際私の作品でも、「若者の爽やかな努力系」「成長物語」に振った話の方が、圧倒的に売れている。そういう話でも必ず、選手が心の奥底に抱えた「毒」を忍ばせるようにはしているのだが、その部分にはなかなか引っかかってもらえない。

それでも、スポーツの奥底に潜んでいる人間のエゴを、これからも抉り出すように書き続けるだろう。

選手のエゴを描くことこそが、私のエゴだから。

堂場瞬一
堂場瞬一(どうば しゅんいち)

1963年茨城県生まれ。小説家。著書『チーム』実業之日本社文庫 686円+税、『アナザーフェイス』文春文庫 730円+税、ほか多数。

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