Web版 有鄰

567令和2年3月10日発行

神奈川のモダニズム建築を生きた遺産に – 2面

松隈 洋

建築をめぐる新旧のせめぎあい

激変を続ける現代にあって、時の流れは速く、都市の移り変わりも激しさを増しつつある。そんな中、横浜でも建築をめぐる新旧がせめぎあうような動きが続いている。

2019年10月、竣工から90年を迎えた神奈川県庁本庁舎(1929年、設計/小尾嘉郎)が国の重要文化財に指定された。それは、関東大震災の復興事業として建設された風格ある庁舎に対する丁寧な維持管理が持続的に施されてきた成果なのだろう。一方で、2020年6月に、桜木町駅前で2017年8月から建設が始まった高さ約155m、地上32階建ての超高層の新・横浜市庁舎が2020年1月に竣工し、6月に共用が開始される。この移転に伴い、関内駅前で戦後復興を長く見守ってきた現・市庁舎(1959年、設計/村野藤吾)は、60年に及ぶその役割を終える。そのため、2019年1月に跡地の再開発計画の事業者が公募され、新たな地域活性化の拠点として、商業施設やオフィス、大学、ホテルなどを含む巨大複合施設へと増改築される計画案が選定された。その際、現在の行政棟はホテルに保存活用されるが、議会棟を解体して新築される高層棟は地上30階、高さ約160mの巨大規模となり、環境の激変が懸念される。

このような新旧の動きがせめぎ合う中で、思い起こしておきたいのは、歴史の歩みと先人たちが求めたものを建築という存在を通して見つめ直すことだと思う。そこで、ここでは、横浜の戦後建築の一端を紹介し、そこにどのような思いが込められていたのかを振り返ってみたい。

心のよりどころとなる文化施設

公開資料によれば、横浜市は、1923年9月1日の関東大震災で市街地の90%近くが焼失し、3万人以上が被災して、壊滅的な被害を受けた。幸いにも、国の帝都復興計画に組み込まれた政府の事業として、瓦礫を埋め立てて作られた山下公園や野毛山公園などの整備に象徴されるように、順調に復興が進んでいく。しかし、太平洋戦争末期の1945年5月29日の米軍による横浜大空襲によって、ふたたび市街地の44%を焼失し、死傷者・行方不明者が約1万4千名、被災家屋約8万戸という甚大な被害を受けてしまう。こうして、横浜の戦後復興は、焦土からの再建という困難な課題と向き合うことになった。

この時、1946年1月に官選で神奈川県知事となり、1967年までの長きにわたって戦後復興をリードしたのが、内山岩太郎(1890~1971年)である。彼には、戦前の外交官時代にブラジルの日本人移住地を視察した際、あばら家の窓辺に飾られた野生の蘭の花に目をひかれた経験があった。そのため、苛酷な敗戦直後にありながらも、次のような思いを抱いていたのである。

「亡びかけた家を復興するには、色々の苦心が必要である。しかし苦心する日常にも幸福が見出されねばならない。この場合幸福は必ずしも物質的なものでなく、寧ろ精神的なものであり得るのである。私はこのような考え方からして、日本人の特徴を伸しつつ世界に共通する文化の向上を目指して色々と計画を立てることにした。」(内山岩太郎「わが文化政策」『神奈川県立近代美術館年報1号』1952年)

こうした思いをもって内山が計画を立案し、実現させたのが、日本の戦後文化史に歴史を刻むふたつの文化施設、神奈川県立近代美術館(1951年、設計/坂倉準三)【図1】と神奈川県立図書館・音楽堂(1954年、設計/前川國男)【図2】である。図らずも、設計者の2人は、モダニズム建築の巨匠であるフランス人建築家、ル・コルビュジエのパリのアトリエに共に学んだ経験を持っていた。だからこそ、2つの建築は、1920年代にヨーロッパで始まり、世界的潮流となった装飾のない合理的で機能的なモダニズム建築の清新な姿で誕生したのである。

図1、図2ともに筆者撮影

(図1、図2ともに筆者撮影)

注目したいのは、外見上の様式の変化にとどまらず、美術や音楽と人との関係性を転換し、それらをより身近なものとして享受できる透明感あふれる空間の質を体現したことだ。それは、例えば、戦前の東京府美術館(1926年、設計/岡田信一郎)や日比谷公会堂(1929年、設計/佐藤功一)、帝国図書館(1929年、設計/久留正道)と比較してみれば、容易に読み取れるだろう。

また、神奈川県立音楽堂と一体の建築として設計された図書館は、戦前には存在しなかった自由に本が手に取れる開架式の閲覧室と貸し出し可能な戦後型の新しい図書館の姿を実現した。そこには、進駐軍による日本の民主化にとって不可欠な情報公開という政策的な意図も込められていた。

そして、モダニズム建築が、戦前の様式建築と決定的に違うのは、装飾の有無にも明らかなように、建設にかかるコストの経済的合理性である。例えば、神奈川県立図書館・音楽堂の工事単価は、当時の事務所ビルと同程度で、戦前の基準の半分にも満たない額に過ぎなかった。また、横浜市庁舎も、限られた予算の中で、鉄筋コンクリート打放しの柱と梁の骨組みにタイルを貼りつつ、単調に陥らない外観デザインの工夫を施すことによって、簡素ながらも陰影のある落着いた表情が生み出されたのである。このような苦心から生み出されたモダニズム建築を、「キングの塔」の県庁本庁舎や「ジャックの塔」の横浜市開港記念会館(1917年)、「クイーンの塔」の横浜税関(1934年)など、十分な時間と潤沢な予算が注がれた様式建築と同列に扱うことはできない。

モダニズム建築(Modern Architecture)は何を求めたのだろうか。端的に言えば、それは、それ以前の社会にあったような、資本や権力の集中によって建てられた記念碑的な建築ではなく、その社会がもつ経済的な状況に見合い、環境にも人間にも無理のない、誰もが平等に健康で快適に暮らすことが可能な、機能的で親しみやすい生活空間を、身近な場所に民主的な方法で実現することだったのだと思う。

生活と共にあるモダニズム建築の価値

そういう視点で見直してみると、戦後に建てられたモダニズム建築が、他にも身近な場所にあることに気づかされる。例えば、坂倉は、その後に、シルクセンター国際貿易観光会館(1959年)を手がけ、前川も、図書館・音楽堂に隣接した神奈川県立青少年センター(1962年)や婦人会館(1965年)、横浜市中区庁舎(1983年)を完成させる。また、横浜中華街のそばには、日本武道館(1964年)や京都タワー(1964年)で知られる病院建築の名手だった山田守(1894~1966年)の設計した社会保険横浜中央病院(1960年)があり、伊勢佐木町には、アントニン・レーモンド(1887~1976年)が手がけ、戦火にも耐え抜いた不二家洋菓子舗(1937年)が現存する。

さらに、革新派の飛鳥田一雄市長の下で都市プランナーとして活躍した田村明(1926~2010年)が推し進めた横浜の先駆的な都市デザインの成果として、槇文彦(1928年~)らが良質な低層住宅地として計画した金沢シーサイドタウン(1978~80年)や小学校、倉敷の町づくりで著名な浦辺鎮太郎(1908~1991年)が手がけた大佛次郎記念館(1978年)や横浜開港資料館(1981年)、神奈川近代文学館(1984年)といった多彩な建築も次々に建てられていく。そして、隣の川崎市にも、丹下健三(1913~2005年)の片腕として活躍した神谷宏治(1928~2014年)の手がけた屋内広場を内包する複合市民施設の川崎市民プラザ(1979年)がある。

こうして見てくると、戦後のモダニズム建築が切り拓いたのは、人びとの暮らしを支え、生活と共にある身近な建築の姿だったのだと思う。都市が激変する中で、とかく見失われがちなこれらの建築の存在に気がつくとき、歳を重ねたモダニズム建築は、これからの居心地の良い街づくりを進めるための貴重な文化遺産、生きた地域資源であることが実感できるのではないだろうか。そのような眼差しが広く共有されていくことを願わずにはいられない。

松隈 洋(まつくま ひろし)

1957年兵庫県生まれ。京都工芸繊維大学教授。専門は近代建築史。

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