Web版 有鄰

574令和3年5月10日発行

はまっ子チャイニーズの軌跡――横浜中華街の歴史を考える – 2面

伊藤泉美

幕末の対外開港の歴史を持つ横浜は、国際都市だと言われる。しかしそれは開港や外国人居留地を有していたという史実だけで、そう呼ばれるわけではない。横浜には、今なお、民族や国籍を超えて、この街をふるさとと思う、多様なルーツを持つ人びとが暮らしている。だからこそ、国際都市と言えるのである。しかし、そんな横浜で、昨年春に悲しい出来事が起こった。

2020年1月中旬、国内で初の新型コロナウィルスの感染者が神奈川県内の中国人と報じられたことから、実際は横浜市の在住者ではなかったのだが、中華街が国内の発信源だと疑われた。そして、3月初めには、中華街の老舗中華料理店に「日本から出ていけ」などというヘイトの手紙が送られた。経済的な打撃にくわえ、このことが中華街の人びとに精神的な打撃をあたえた。なぜならば、中華街の中国系の人びとの多くは、横浜生まれ横浜育ちのはまっ子だからだ。彼らのふるさとはまぎれもなく横浜であり、この街を愛する人びとである。彼らの存在こそが国際都市横浜の横浜たる所以であろう。ここでは、横浜中華街を中心に営まれてきた中国系の人びと、はまっ子チャイニーズの歴史を紹介したい。

安楽家の140年

図1 安楽園 2009年著者撮影

図1 安楽園2009年著者撮影

10年ほど前まで、中華街大通りに安楽園という中華料理店があったことを覚えている方は少なくないはずだ(図1)。一見、和風の旅館を思わせる店構えは、正直、入りやすいとは言い難かった。しかしこの店は90年近くの歴史を誇っていた。安楽園を営んだ安楽(羅)家の横浜での足跡は、明治初期、1870年代まで遡る。創業者の羅佐臣は1862年に広東省高明県に生まれ、1878年に貿易商東同泰を営んでいた兄を頼って横浜の地を訪れた。その後独立し、山下町145番地に海産物や雑貨の輸出を手がける恭安泰を興した。しかし、1923年9月の関東大震災で店は瓦解する。

羅佐臣はすでに還暦を過ぎた身ではあったが、思い切って貿易商から料理店へと業種転換し、1924年に「安楽園」をオープンした。店は軌道にのり、木造の店から鉄筋コンクリート造り2階建ての店に建て替えた。ちょうどその頃、中華街大通りに中華風で地震に強い建物を建て、横浜の観光の目玉にしようという動きがあった。ステンドグラスの窓や豪華な調度品で飾られた安楽園は、多くの客でにぎわった。しかし、日中戦争が起こり、さらに1945年5月29日の横浜大空襲で店と住まいは焼失する。幸い一家は箱根に避難して無事であり、戦後に安楽園を復活させた。1973年、羅家は日本国籍を取得するが、その際、店の名前をとって苗字を「安楽」とした。現在、安楽園の跡地には大型土産物店の横浜博覧館が立っているが、羅佐臣の孫娘安楽富美さんをはじめ、羅家の子孫は今も横浜やアメリカなど各地に暮らしている。

横浜華僑のピアノ製造

華僑の職業といえば、中華料理を思い浮かべる方が多いと思うが、実は、横浜にやってきた中国人は意外な分野で活躍していた。幕末に横浜が開港され、外国人居留地が開かれると、多くの欧米人がやってきた。彼らの住む家を建て、着る服をつくり、食べるものを作ったのはだれなのであろうか?実は、洋館の建築やペンキ塗装、洋裁、また洋酒を割るのに必要な炭酸水製造といった仕事を営み、欧米人の生活を支えたのは、中国人であった。彼らは香港や上海でこれらの技術を学び、需要はあるがまだその担い手がいない、横浜外国人居留地で活躍した。中国人が西洋の技術を近代日本に伝えたのである。

ピアノの製造技術は横浜外国人居留地から日本各地に広まったが、その一翼を中国人が担っていた。その一人が、周興華洋琴専製所を創業した周筱生である。浙江省鎮海県出身の周筱生は、上海でピアノの調律と製造の技術を身に着け、1905年、イギリス系楽器商C・スウェイツ商会の招きで横浜にやってきた。その後独立して、1911年、山下町123番地、現在の中華街南門シルクロード沿いに周興華洋琴専製所を開業した。さらに堀ノ内町にも工場を設けるが、1923年の関東大震災で店舗は倒壊し、周筱生はその下敷きとなって命を落とした。震災後は周の妻と息子周譲傑が引き継いでピアノの製造を続け、1945年4月の空襲まで存続した。

図2 S.CHEWピアノ 1910年代初頭 周斐宸氏所蔵

図2 S.CHEWピアノ 1910年代初頭周斐宸氏所蔵

図2は周筱生の孫にあたる周斐宸氏が所蔵するS.CHEWピアノである。実はこのピアノは周家に伝来していたものではなく、私が関わった企画展がきっかけになり、周家に里帰りした。2004年、横浜市歴史博物館と横浜開港資料館が共催で、横浜で造られたオルガンとピアノの歴史を紹介する企画展「製造元祖横浜風琴洋琴ものがたり」を開催した。その時、初めて横浜華僑のピアノ製造について紹介したところ反響をよび、愛知県にお住いの方から、自宅に周ピアノがあるので引き取ってほしいというご連絡をいただいた。そのピアノの写真を見て驚愕した。それはまさに、1913年の周ピアノの広告に描かれたピアノと同じ型だったからだ。その後、ご縁があって、ピアノは周家に里帰りすることができた。

発掘された中華街の歴史――関帝廟と中華会館

周筱生の命を奪い、羅佐臣に貿易商から中華料理店への転業を余儀なくさせたのは、ともに関東大震災であった。この災害は中華街のみならず、開港以来60年あまりにわたって築かれてきた港都横浜を一瞬にして瓦解させた。

2020年春、中華街にある横濱中華學院校舎新築工事の現場から、古い石畳の通路やレンガ、石碑の破片などが出土した。これは関東大震災で瓦解した中華会館と関帝廟の遺構と遺物であった。

関帝廟は三国志の英雄関羽を祭った廟で、広く中国人の信仰を集めている。横浜では関羽の木像をまつった祠が1862年に建てられたのが始まりだ。中華会館は横浜に暮らす中国人の自治組織で1867年に設立された。

1870年代初頭に本格的な初代の関帝廟と中華会館が建立された。そして、1890年から1891年に中華会館と関帝廟の大改築が行われ、完成した姿は「荘厳宏麗、あたかも一城郭の如し」と表現された。この大改築以後の遺構と遺物が出土したのである。

安楽園は2011年に87年の歴史を閉じたが、その際、関係資料が横浜開港資料館に寄贈された。周家にも100年以上前の周ピアノが里帰りした。そして、震災前の関帝廟・中華会館の遺構遺物がほぼ1世紀ぶりに姿を現した。本稿で紹介した資料も含めて、現在、横浜ユーラシア文化館で開催中の企画展「横浜中華街 160年の軌跡-この街がふるさとだから。」(4月10日―7月4日)では中華街に関する数々の資料を展示している。横浜開港から現在にいたるまでの、はまっ子チャイニーズの軌跡を実感していただきたい。

伊藤泉美(いとう いずみ)

1962年横浜市生まれ。横浜ユーラシア文化館副館長。
著書『横浜華僑社会の形成と発展』 山川出版社 8,800円(税込)ほか。

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