Web版 有鄰

576令和3年9月10日発行

ノーベル文学賞120年 – 1面

橋本陽介

『ノーベル文学賞を読む ガルシア=マルケスからカズオ・イシグロまで』角川選書

『ノーベル文学賞を読む ガルシア=マルケスからカズオ・イシグロまで』
角川選書

2010年の9月、旅行先のモロッコから帰国した私は、乗り継ぎの関西国際空港で1通のメールを受け取った。当時の私は大学院の博士課程に在籍しており、差出人は指導教員だった関根謙先生。「前にも言ったと思うけど、高行健が来るから、アテンドを手伝ってほしい」という内容であった。高行健が来日するなどというのは、まったくの初耳である。先生は鎌倉で待っているとのことで、私は数日後、1人で新宿のホテルにノーベル文学賞作家を迎えに行くことになったのである。

高行健は、2000年に中国語で書く作家としてはじめてノーベル文学賞を受賞した。私は中国語を学習中だったので、必死で原書を読んで勉強した。代表作『霊山』や短編小説「おじいさんに買った釣り竿」の文体に魅せられた。卒業論文も学会のデビュー論文も高行健の文体についてであった。

鎌倉へ移動中、ノーベル文学賞を受賞した日のことを聞いたのを覚えている。受賞はまったくの寝耳に水で、気がついたら突然多くのマスコミが自宅を囲むことになったと聞いた。

高行健は当時、まったくの無名作家であり、日本の報道では、1989年の天安門事件をきっかけにフランスに亡命したことがクローズアップされていた。たしかに高行健は、天安門事件に取材した戯曲『逃亡』を書いてはいたものの、とりたてて反中国政府の言論を行っているわけではない。しかし、あたかもそれが理由であるかのように憶測されていたのである。

このように、日本の報道ではノーベル文学賞と政治の問題が話題になることが少なくない。また、ここ十数年は村上春樹が受賞するかどうかだけが話題となってきた。いずれにしてもその作品自体が取り上げられることはきわめてまれであるし、一般の読者には受賞作家の作品がほとんど読まれていないのが現状である。

そんな中、2017年に日系イギリス人のカズオ・イシグロが受賞し、作品がベストセラーになった。カズオ・イシグロの小説が面白いのは異論がないが、他にも面白い作家・作品がたくさんある。ぜひとも、広く読まれてほしいと思っている。

選考方法

ノーベル文学賞は、公的な機関による公平な世界選手権ではない。このため一定の傾向が存在している。

ノーベル文学賞を選ぶのはスウェーデン・アカデミーで、18人の委員からなる。このうち5人によって委員会が組織される。候補者は各国の有力な大学教授やペンクラブなどの文学組織、過去のノーベル文学賞受賞者などによって推薦され、それをもとにリストアップされるという。そのリストから何らかの方法で絞っていかれ、最終的に1人が選ばれる。最終候補となると、委員はかなり多くの作品を読むと言われている。つまり、特定の文学作品1つで選ぶのではなく、過去の実績を複合的に勘案して選出される。このため、どんなに素晴らしい作品を書いたとしても、新進の作家や詩人は選ばれない。とはいえ存命中の人しか選ばれないため、コンスタントに実績を残したうえで早死にしない必要がある。

選考の過程は基本的に不明であり、誰が候補になっているのかもわからない。村上春樹は受賞寸前まで行っているのかもしれないし、候補にすら挙がっていないかもしれない。ただし、選考から50年を経過してから資料が公開されることになっており、私たちも長生きすればその答えを知ることができるはずである。1968年に川端康成が受賞したが、67年には三島由紀夫が有力候補として挙がっていた。ちょうど今年公開された資料で、石川達三と伊藤整も候補に挙がっていたことが明らかになった。これはちょっと意外だった。

受賞者と地域

よく知られている通り、初期は圧倒的に欧米の作家ばかりが選ばれていた。非西洋の受賞者としては、インド人の詩人タゴールが1913年と最も早いが、タゴールは母語のベンガル語だけでなく、英語の詩集を出していた。西洋のものではない言語での受賞者は、1968年の川端康成が最初である。欧米言語へ翻訳されていなければ、そもそも選考する側が読むことができないので、西洋の言語以外で創作する作家や詩人は最初からハンデを背負っていることになる。

とはいえ、1980年以降になると、できるだけ多様な地域に与えようと努力してはいるようである。88年のマフフーズはエジプト人で、アラビア語圏の作家として初の受賞となった。2000年の高行健と2012年の莫言は中国語、1994年の大江健三郎は日本語、2006年のパムクはトルコ語で創作する作家である。できるだけ多様な地域に与えようとするためか、ある地域の誰かが受賞すると、その地域にはしばらく順番が回ってこない傾向がはっきりしている。

1年に1人しか選ばれないため、必然的に、受賞に至らない大物作家も多くいる。ひいきの地域のひいきの作家が受賞していないと、文句のひとつもいいたくなるところだが、手広く対象を広げれば広げるほど、仕方がないことだろう。読者としてはむしろ、知らない地域の知らない作家との出会いが広がるとポジティヴに捉えたほうがよいように思う。

おすすめの作家

ノーベル文学賞を受賞した作家の小説はどれも一流なので、「読まず嫌い」にならず、ぜひとも挑戦してもらいたいと思う。ここでは、私の個人的なおすすめ作品をいくつか紹介しよう。

カネッティ『眩暈』はめくるめく勘違い小説である。ノーベル文学賞作家の作品は、個性的な作風のものが多いが、その中でもキワモノに属するだろう。主人公はキーンという頭のおかしい東洋学者であり、そのほかの人物も同様におかしい。さらに、人物たちは常に勘違いをし続ける。あらゆる人物が勘違いの応酬をする。信頼すべき主体は1つもない。文体は短い文の連続で緊迫感があり、自由間接話法を多用し、人物の勘違いした思考を表出する。最後まで読むと、おそらくその感想は「びっくりするほどおもしろい小説を読んだ」となるか、「読んではならないものを読んでしまった」となるのではないか。

ガルシア=マルケス『百年の孤独』は知っている人も多いだろうから、多くは述べない。個人的には20世紀の最高傑作はこれだと思う。文学的にも素晴らしいが、なにより面白い。

『ビラヴド』ハヤカワepi文庫

『ビラヴド』
ハヤカワepi文庫

トニ・モリスンはアメリカの黒人女性作家。その円熟期の小説『ビラヴド』は、1873年から始まる。主人公は元逃亡奴隷女性、セサ。その住んでいる家は、赤ん坊の幽霊に取りつかれている。黒人が背負ってきた負の歴史を、単に告発するのではなく、ヴァージニア・ウルフ的な文体で繊細に描く。徐々にセサの過去と内面が明らかになっていく構造も見事である。

『ミゲル・ストリート』岩波文庫

『ミゲル・ストリート』
岩波文庫

V・S・ナイポールはトリニダード・トバゴ出身で、イギリスに移住した。『ミゲル・ストリート』は、子どもの目線から「古き悪きあのころ」を描き出す。暴力、賭け事、詐欺、ほら話、その他もろもろの犯罪は日常茶飯事で、日本のマスコミなら「治安の悪いスラム街」として表象するような場所である。そしてその「ダメな人たち」がおもしろい。同じくナイポール『ある放浪者の半生』は、主人公のウィリーが無気力でだらしなく、おまけにほら吹きだ。ウィリーの父親もまたどうしようもない人物である。このため、全体のトーンがいいかげんな思考と語りに覆い尽くされている。ここまでいいかげんな語り方は珍しい。

『夷狄を待ちながら』集英社文庫

『夷狄を待ちながら』
集英社文庫

クッツェーは南アフリカの作家。その主なテーマとなっているのは、「他者」と「抑圧」と「暴力」、さらに言えば「生存」である。自分が他者をどうみるか、他者との関係から自分をどう規定するかは、個人でも集団でも問題となりうるが、南アフリカのように「白人」と「非白人」のような明白な線引きが行われていたところでは特にそれが顕著になる。この地を植民地化した白人たちは、ずっと黒人やその他の民族を抑圧してきたが、クッツェーの小説にはこの「抑圧」や「暴力」が常に描かれるのである。書くたびに違う手法を用いているが、まずは『夷狄を待ちながら』を読もう。

『狙われたキツネ』三修社

『狙われたキツネ』
三修社

ルーマニア出身の作家ヘルタ・ミュラーは1953年、ルーマニア西部バナート地方のドイツ系少数民族の村生まれで、ドイツ語で創作している。第一の長編『狙われたキツネ』(1992年)では、チャウシェスク時代の窮乏した生活と相互監視社会を描いた。続く『心獣』(1994年)も同様に、全体主義をモチーフとしている。

テーマとしては他の旧東側を描いた作品やディストピア小説に近いところがあるが、ミュラーの個性はその文章のスタイルや語り口にあるように思われる。暗く、冷たく、静かに、ギスギスと語る。感情は抑えられているが、しかしその下に澱んだ負の感情をひしひしと感じるような文である。

拙著『ノーベル文学賞を読む  ガルシア=マルケスからカズオ・イシグロまで』では、80年代以降に受賞した小説家の作品を紹介している。本書を皮切りにしなくてもよいが、読めば面白い作品ばかりなので、手に取って読んでほしい。

橋本陽介
橋本陽介(はしもと ようすけ)

1982年埼玉県生まれ。お茶の水女子大学助教。
著書『文とは何か』光文社新書 924円(税込)他。

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