Web版 有鄰

576令和3年9月10日発行

梶よう子と『噂を売る男』 – 人と作品

幕末の江戸を記録した情報屋とシーボルト事件の裏を描く時代小説

梶よう子
梶よう子

幕末の情報屋が遭遇する事件の裏とは

江戸後期から明治にかけてを生き、風俗や事件、噂を記録した、藤岡屋由蔵が活躍する長編小説である。

「藤岡屋由蔵のことは、江戸の文化に関心を持っていろんな本を読んでいた頃から知っていました。本の参考文献に『藤岡屋日記』が出ていましたし、20年ほど前に古本屋さんで『藤岡屋日記』を見つけ、15巻セットでないと買えなくて諦めたこともあります。日記といっても、由蔵は自分の意見や感情を一切交えていません。それならば、この人は一体何のために日記を残したんだろうと、ずっと興味深く思っていました」

藤岡屋由蔵は寛政5年(1793)生まれ、上野国(群馬県)藤岡の出身だ。江戸に出て江戸城に出入りする店で働いた後、足袋屋の軒下を借りて古書店を始めた。筵に古本を積み、素麺箱を机にして風俗や噂を書き記し、「御記録本屋」と呼ばれた。

「お触れを写し、瓦版の話題を掘り下げて書き留め、あらゆる情報を詳細に綴っています。江戸は大都市で、より早く正確な情報が大切にされて、それに目を付けた人だったと思います。事実を重視する記者のような目線で社会を見て、第三者的な記録に感情は交えられていませんが、何か残したい、伝えたい思いはあったのではないか」

由蔵の情報を買うのは、諸藩の留守居役や町年寄といった人々だった。情報を売って生計を立てていた由蔵は、やがて大事件に遭遇する。

「文政11年のシーボルト事件については、天文方の高橋作左衛門がなぜ国禁を犯してまで地図を渡したのか、私は疑問を抱いていました。由蔵もかなりの分量で記録していて、彼もこの事件に興味を抱いていたんだなと、由蔵を通して探ってみることにしました。由蔵自身がミステリアスな人物ですから、日記から想像して作り込んでいくのは面白い作業でしたね」

江戸で一人、風変わりな商売を営む由蔵だが、足袋屋の一家をはじめ、周りにはいろんな人々がいる。現代と重なるほろ苦さもある。

「由蔵に仲間を作ってあげたいと考えていました。彼は後半生になると京都や大阪の情報までいち早く入手していて、仲間を大事にする人だったから情報を得られたのではないかと。どの作品にも言えますが、史実を扱う物語は、ifではなく、真実は一つではないという、私の歴史観が表れていますね。今回で言うと、高橋が地図を渡した事実は一つですが、人々に扱われ、捻じ曲げられて伝わることもある。歴史の怖さであり面白さでもあり、真実は一つでないと意識して時代小説を描くのが私は好きで、いろんな見方を表現したい。私が提示するのはどれも真実で、でも事実は一つ、どう思いますか? という描き方をします。由蔵が綴った事実の裏に何があったのか、今回は由蔵を主人公にしたからこその物語になったと思います」

江戸時代を舞台に人間の喜びや悲しみを描く

東京都生まれ。2005年、「い草の花」で九州さが大衆文学賞、2008年『一朝の夢』で松本清張賞を受賞。2015年刊の『ヨイ豊』で第154回直木賞候補。「御薬園同心水上草介」シリーズや、『北斎まんだら』『赤い風』『三年長屋』など著書多数。

「子供の頃は病気がちだったので、友達のようにして本を読み、時代劇を観ていました。小学生の頃は伝記、中学の頃はSFや古典落語を読んだり、生活の中に本と時代劇がありました。時代小説を読み始めたのは高校時代で、池波正太郎先生の『鬼平犯科帳』をはじめ、あらゆる作品に手を出していました。池波先生や藤沢周平先生の作品の空気感を自分も描いてみたい気持ちから、時代小説を書こうと決めていました。小説を書くと思ったとき、髷しか浮かんでこなかった(笑)」

江戸の風俗や人間模様を描き続けている。

「喜怒哀楽など人間の基本的な営みはどの時代も変わらなくて、私がそこを舞台にして喜びや悲しみを描きたいのが江戸時代なんです。太陽が昇ると起きて、沈むと眠る生活をし、現代的な感覚も持ち合わせているのが江戸後期の人々で、人間が素の状態で生きていた時代にいろんな題材を詰め込んで描いていきたい。今回は、情報が広がる怖さを感じました。由蔵が事実だけを記録し続けたのは、情報の怖さを知り、嘘をつきたくない気持ちの表れだったのではないか。情報過多の今こそ気をつけなくてはいけないことで、由蔵頑張れと、描きながら思っていたんです」

(青木千恵)

噂を売る男・表紙

噂を売る男
梶よう子/PHP研究所/1,980円(税込)

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