Web版 有鄰

577令和3年11月10日発行

横須賀製鉄所副首長ティボディエの家 – 2面

菊地勝広

横須賀製鉄所と歴史遺産

横須賀製鉄所は、幕末の1865(慶応元)年に起工した日本最大の総合工場でした。ここでは、船の修理建造や機械類の製造、高度な人材教育などが行われて日本近代化の大きな原動力となり、今、その歴史への関心が世界的な広がりをみせています。例えば、横須賀製鉄所を主題とした書籍としては、『横須賀製鉄所の人びと』(有隣堂)、『横須賀造船所』(横須賀の文化遺産を考える会)が知られてきましたが(いずれも現在入手困難です)、海外ではこの2冊以上に分厚い書籍が刊行されているほどです。

一方、横須賀製鉄所の歴史遺産としては、幕末に輸入のスチームハンマー(重要文化財)やドライドック(日本遺産)がよく知られてきましたが、建物として唯一現存が確認され、有名になってきているのが、フランス人技師で副首長を務めたティボディエの家です。

ティボディエの家の発見

横須賀製鉄所の当初建築は、未確認の状況が長らく続き、現存しないと指摘する専門家もいました。そのような中、近年、副首長ティボディエの家の現存が確認されました。建築年は1870(明治3)年頃と推定され、少なくとも東日本現存最古と考えられる西洋建築です。

ティボディエの家の現存は、米海軍からの解体計画の連絡を機に2001(平成13) 年7月12日に実施した横須賀市自然・人文博物館と市民有志による調査と、翌8月の横須賀市教育委員会による学術調査で証明されるに至ったものです。学術調査は、アメリカ政府の年度末である9月末までに結果を求められる厳しいものでした。しかし、調査現場では、暑さを心配して扇風機を買ってきてくれた人もいるなど、米軍関係者等との交流が育まれて終始和やかな雰囲気でした。

歴史的に重視されてきた横須賀製鉄所の建築発見のニュースは大きな話題となりました。そして、ティボディエの家の歴史的価値は米海軍によっても深く理解されるとともに、日本建築学会からも「国内第一級の歴史遺産」と位置付けられて保存要望書が関係者に提出され、同年9月末までの解体撤去計画は回避されるに至りました。2001年9月11日には、アメリカ同時多発テロ事件もありましたが、その直後であっても米海軍側での調査協力体制は強く維持され、補足調査が必要であればいつでも実施するようにとの連絡を受けたほどでした。このように、米海軍、横須賀市、日本建築学会などの関係者によるティボディエの家への価値認識の強さは確固たるものがありました。

2003年からは、建築の保存を目的とした解体調査と部材保管が行われました。解体調査は米国政府の発注で行われ、併せて、横須賀市教育委員会が基礎などの発掘調査と出土遺物の保存作業を続け、調査時点で現存していた当初部材の全てが保存されました。

明らかになった木骨煉瓦造の姿

当初の煉瓦壁(2003年撮影、ティボディエの家)

当初の煉瓦壁
(2003年撮影、ティボディエの家)

2003年の解体調査では、ティボディエの家が木骨煉瓦造であることが判明しました。木骨煉瓦造は、木の柱の間に煉瓦を挟んで壁を作る構造で、日本人にも馴染み易い施工技術で耐火性を実現できる点などが期待されて、フランスから横須賀に伝えられました。この技術は、横須賀製鉄所の技術者が設計に関わった富岡製糸場(世界遺産)の建築にも導入されたため、富岡製糸場には、横須賀製鉄所と似た建築が多く存在します。

木骨煉瓦造の導入は、木造以外の建築普及の準備にもつながりました。これは、長らく木造建築を造り続けてきた日本の歴史にとって、大きな出来事であったと考えられます。木骨煉瓦造は、日本建築史上でも重視され、広く普及したものですが、現存例は、世界遺産の富岡製糸場などごくわずかで、その点でもティボディエの家は希少な存在と言えます。加えて、富岡製糸場に連なる建築技術の源流を考える上でも、建築史上で重要な建物であると考えられます。

洋風文化と文明の導入

ティボディエの家には、大きなベランダが壁2面を囲んでいるという特色もあります。このような建築は、西洋本国で流行っていたものではなく、西洋諸国がアジアなどの国々に進出する際に暑さ対策として生み出した建築形式といわれ、通称、コロニアル様式と呼ばれるものです。ベランダを2面以上もつ西洋館は、日本では幕末・明治初期のみに特異的に普及しました。しかし、日当たりが悪くなるためか、ベランダ付き西洋館のベランダも後に1面のみのものが主流となって行きました。ティボディエの家は、日本への西洋建築の初期導入事情をよく体現しているともいえます。

横須賀製鉄所には、西洋式の建築技術以外にも日本の近代化に必要な多くの西洋文明が移入され、後世に影響を与えました。使用された木材は、全国調査を実施して品種ごとに比重や強度が検査され、その結果の数値には、現代と変わらぬものが存在するほど高精度な実験が行われていました。また、地盤の強度も意識され、ドライドックでは耐震を意識した設計変更も行われました。このような、現代では一般的な工学技術も先駆的に導入していました。

また、横須賀製鉄所はメートル法の先駆的採用でも知られ、日本古来の単位である尺貫法のメートル法換算値を公式に定めた上で、メートル法の利用を取引業者にも求めていました。この時、「1尺」は「303ミリメートル」と定められました。この「303ミリメートル」という数値は、現在でも建築部材の基準寸法などとして広く用いられ、小中学校の床材でも多く確認される寸法です。この他、「メートル」のフランス語での発音は、実際には、「メ」の後ろを伸ばさない「メトル」に近い印象を受けます。「メートル」という発音習慣がどのようにして普及したのかについて、横須賀製鉄所との関連性についても気になるところです。

勉強家のティボディエ

ティボディエ(1839-1918) ヴェルニー本家所蔵

ティボディエ(1839-1918)
ヴェルニー本家所蔵

横須賀製鉄所を指揮した首長ヴェルニーと副首長ティボディエ。ともに、フランス最高水準で世界的名門校、エコール・ポリテクニックの出身です。ティボディエの成績は特に良く、同校を調査で訪れた際も、職員が成績表をみて感嘆していたほどでした。二人はその後、同校出身者の中でも優秀な者が進学したとされるシェルブールの造船学校を卒業しています。

横須賀製鉄所のプロジェクトで最重視されたのは教育事業で、付属学校の「黌舎」を設立して、高度な技術者教育を行っていました。同校出身者には、シェルブールの造船学校に留学し、卒業後に企業のトップや東京帝国大学教授などとして活躍する人物もいました。その「黌舎」で、技術教育の中心的役割を担い、フランスへ留学させる学生の選抜試験を担当していたのがティボディエでした。

ティボディエは、1869年に来日し、首長ヴェルニー帰国後も1877年まで請われて横須賀製鉄所(1871年に横須賀造船所と改称)に在籍しました。勤勉な努力家であり、横須賀でも勉強を続けて帰国後も昇進を重ね、フランス海軍の技術者としてはトップの要職を歴任し、1918年11月18日にパリでその生涯を閉じました。ティボディエの造船技術者としての学歴、職歴、地位はフランス本国においても最高水準であったことは明らかであり、このような高い資質を備えた一技術者が日本近代化政策に大きく貢献していたこともまた伝えたい史実の一つです。

ティボディエは、帰国直後の1877年、ヴェルニー夫人の妹と結婚し子宝にも恵まれました。そして今、ティボディエ・ヴェルニー兄弟の名を冠した「よこすか近代遺産ミュージアムティボディエ邸」と「ヴェルニー記念館」が、二人の愛した横須賀製鉄所を望むヴェルニー公園に併設されています。

菊地勝広(きくち かつひろ)

1972年宮城県生まれ。横須賀市自然・人文博物館学芸員、博士(工学)。

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