Web版 有鄰

590令和6年1月1日発行

新横浜のあゆみと今後 – 海辺の創造力

岡田直

「東洋一の新横浜駅いよいよあすから開業」「真に大横浜文化の大玄関」

これは『横浜貿易新報』(現『神奈川新聞』)の1928(昭和3)年10月14日付け記事の見出しである。もっとも、この「新横浜駅」とは今の新横浜駅のことではない。新しくできたばかりの、現在の横浜駅を指している。

横浜は日本の鉄道発祥の地だが、創業時の横浜停車場とは現在の桜木町駅のことで、「横浜」という名の駅は明治、大正、昭和と、東海道本線のルート変更にともない北へ移動を重ねる。この新しくできた横浜駅は三代目だった。

戦後の1964(昭和39)年、東京~新大阪駅間に東海道新幹線が開通。東海道本線の新ルートである。横浜市内の内陸部を一直線に通過し、在来線の横浜線との交差地点に新幹線の横浜の駅が設けられた。今度は正式名称に「新」を付し、「新横浜」駅と名付けられたが、いわば四代目の横浜駅である。その場所は港北区篠原。もとは鶴見川に鳥山川が蛇行しながら合流する付近に形成された氾濫原(低湿地)で、一面に水田地帯が広がった。戦前の地形図を見ると、食用蛙の養殖場や「蛇袋」という字名があったことがわかる。

新横浜駅には「こだま」号のみが停車し、「超特急」とうたわれた「ひかり」号は通過した。新幹線の開業を伝える『神奈川新聞』の記事には、三代目竣工時のような仰々しい見出しはない。「なにせ田んぼの中の一軒家」とだけ、四代目の駅の様子を伝えている。

駅前は1960年代より土地の区画整理が進み、ビジネス街の創出を目指したが、四半世紀が過ぎても空地が目立った。横浜から名古屋や大阪へ行くのに、「こだま」号しか停まらない新横浜駅は敬遠され、たいていは東京駅へ出て「ひかり」号に乗車したからだ。おまけに横浜線は複線化が未完成で、新横浜駅への足も不便だった。

「ひかり」号の毎時停車が実現するのは1985(昭和60)年。同時に新横浜駅に市営地下鉄が開通する。横浜線の頻発運転も実現し、横浜アリーナ(1989年)やプリンスホテル(1992年)などの大型施設がオープンすると、1990年代からようやく駅前に事務所や商店などの集積が進んだ。21世紀には、最速の「のぞみ」号を含む全列車の停車が実現。新横浜駅が完全に、横浜駅に代わる東海道のターミナルに成長した。そして、巨大な駅ビルも誕生し、「新横浜」という街が大都市横浜の新都心として認識されるようになった。

もちろん時代状況や駅利用者の種類が異なるので、横浜駅の周辺と同じような発展はあり得ないだろう。だが、昨年3月、東急と相鉄の新横浜線が開通し、両社と東京の地下鉄、東武東上線などとでの相互直通運転が開始された。今や神奈川県東部から、横浜駅を介さず新横浜駅を経由して、東京の都心・副都心や城北地区、埼玉県南・西部へ直行することが可能である。

今後は「新横浜」が、横浜の新都心であるだけでなく、例えば羽田のように、首都圏という広域エリアの玄関の代名詞になっていくことを期待したい。

(横浜市史資料室)

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