Web版 有鄰

590令和6年1月1日発行

『源氏物語』をおもしろく読むには – 1面

荻原規子

『源氏物語』とは

『私の源氏物語ノート』

『私の源氏物語ノート』
理論社

『源氏物語』は五十四帖ある。今どき、我々がその巻数を許容できるのは、人気コミックスの場合だけではないだろうか。しかも大長編の内容は、光源氏という色男が大勢の女性とつきあう色恋沙汰と聞けば、読む気が起こらなくなっても仕方ないと思う。

なので、私が『源氏物語』を楽しく読んだ小わざを二、三ご紹介したい。まずは『源氏物語』を作家の小説と考えないのが一つ目だ。坪内逍遙がノベルの訳語としたのが「小説」だが、ノベルの発達はヨーロッパにおいても18世紀以降だ。『源氏物語』が書かれたのは11世紀初頭だ。

平安京が首都だったその時代、和文で物語を書き記したのは中流階級の女性たちだった。皇族貴族の姫君ほど高い生まれではなく、その女房(侍女)になる身分だが、自分たちも家事労働は使用人にさせている階層だ。男性であれば漢文を用いるのが常識だった。公文書は漢文体、男性の日記も漢文体、学問と呼ぶのは漢書の知識、漢詩の詩作だ。とはいえ、男性も和歌を詠むし恋文を送るので、私信には和文も書く。けれども、ひらがなを使った物語の執筆は女の手すさびであり、書写や朗読をして楽しむのも女性同士だった。

プロの作家は男女ともに存在しなかった。作者の同列に読者がいるので、感想や注文はダイレクトに反映しただろう。上手な二次創作も多かっただろう。そのように想像すると、今の時代ならマンガ同人誌の部類に思えてくる。

私は『源氏物語』も、最初のうちは二次創作のようなものだったと思う。源氏の造型が『伊勢物語』で在原業平に仮託した「昔男」によく似ているからだ。そして、書き手は一人ではなく、何人かの仲間で「光源氏が幅広い身分の女に興味をもち、恋歌を送った話」を書きあっていたと思える。それぞれが歌物語的な短編を書き、時系列など考えずに作ることができていたのでは。

今の私たちは「桐壺」の帖の「いづれの御時にか」から読み始め、源氏の生涯は一筋に進むと思いがちだが、そう読むには若いころのエピソードが取り散らかりすぎている。人妻を含めた“中の品”との逸話などを、並列していくつもあった小話と考え、長編化のめどが立ったときに目ぼしい話を採用したと見なすと、源氏のもつ多情さや散漫な態度に納得がいくのだ。「桐壺」はたぶん最初からあったのではなく、長編を整える際に書いた序章だろう。

オリジナル長編として

他愛ない二次創作を、オリジナルな長編に書き直すことを思いついたのが、紫式部という人だったのかもしれない。その契機は「若紫」の帖で、父の帝の女御、藤壺の宮が源氏の子を宿したことだろう。楽しむ小わざの二つ目は、この藤壺の宮を、源氏の唯一無二の女性だったと見抜くことにある。場当たりな源氏の恋愛も、根底にいつもこの人への飢えがあったと見て取ると、長編主人公としての一貫性が出てくる。

“中の品(空蝉・軒端荻・夕顔・末摘花・玉鬘)”とのつきあいを別立てとすれば、彼の生涯は一般にイメージされるほど色恋がメインではない。『源氏物語』前半の主題は、父の帝が没してからの失脚、地方をさすらう苦難を味わっての返り咲きという、宮廷の地位の浮き沈みだろう。もっとも「昔男」の末裔キャラクターではあるので、失脚の要因(右大臣邸で密会した朧月夜の君)も、返り咲きの要因(皇后になる娘を宿した明石の君)も、女性関係がもたらすなりゆきになっている。

藤壺の宮は男子を出産すると、その後二度と源氏と逢瀬をもたない。源氏が居室に忍び入っても強く拒絶し、あげくは出家して尼になってしまう。それでも源氏は、胸中に恋の未練を残し続ける。藤壺の宮にそっくりな紫の上を愛妻にしながらも、手の届かない人への憧憬がやまないのだ。

しかし、源氏が都で実権を握ってからは、色恋の話より華やかな王朝文化の展覧のほうが目立ってくる。歌合に準じた絵合の光景、調香の聞き比べ、管弦や能書のうんちくなどが並び、玉鬘十帖(「玉鬘」~「真木柱」)にもその傾向がある。

『源氏物語』五十四帖中33番目の「藤裏葉」は、大団円と呼べる帖だ。小わざの三つ目は、『源氏物語』がここで一度は終止符を打ったと気づくことだ。源氏の栄達は「藤裏葉」で万事めでたく完成を遂げる。そして、その次の「若菜」(上下に分けてあるが、分けても他の帖の倍量ある巨大な帖)からは、物語が目ざすものも文章スタイルも異なり、区切りをつけて読まないと戸惑うほど別ものになるのだ。

紫の上は、10歳の幼さで源氏の屋敷へつれて来られ、「理想の女人に育て上げたい」という源氏の望みに応える妻に成長していた。だが、初登場の「若紫」以降それほど主役にならなかった。藤壺の宮が37歳で病没してからは、紫の上がだれよりも美しく聡明で人柄の優れた女性として描かれ、特筆するような困難が見当たらないからだろう。

ただ「朝顔」の帖には、正妻として結婚していない紫の上の負い目が描かれた。源氏から正妻同様に尊重される紫の上だが、妻の家が婿君をもてなして披露宴を行うという、当時の正式な婚礼ができていなかった。巨大な「若菜」の帖は、彼女のこの弱みにスポットをあてて始まる。ついに紫の上が、苦悩をかかえる主役に浮上してくる。

きっかけは、やはり源氏がつくっていた。早くに他界した藤壺の宮を、死後にまで偲び続けたからだ。そのことが、朱雀院の女三の宮の降嫁で明らかになる。源氏が降嫁を断り切れなかったのは、女三の宮が亡き藤壺の宮の姪にあたるからだった。かつて強奪するように引き取った紫の上も、同じく藤壺の宮の姪だった。

紫の上が、源氏のこだわりに気づいたとは書かれていない。しかし、内親王が降嫁すれば正妻の座につくのは当然だった。ものわかりのよい態度を見せていても、源氏に隠した傷心は深いものになる。

源氏と藤壺の宮の密通で生まれた息子は、成人して帝に即位していた。母の死後に真の父親を知った帝は、「藤裏葉」で源氏に上皇に準じる位を授与している。源氏の栄耀栄華は、裏ではそうした事情で成立していた。この秘密を紫の上にも明かさない源氏だが、紫の上が密かに苦悩を深める様子には、源氏の自分への愛情が、藤壺の宮の似姿によるものだと気づいていたふしがある。しばらくすると出家を願い始めるのだった。

女三の宮の登場で、紫の上は夫婦愛を見切った境地になるが、源氏にとっては逆で、紫の上の比類なさに改めて気づく機縁になった。しかし、皮肉なくいちがいを修正できないまま、紫の上は重病に倒れる。

「若菜」以後には「若菜」以前と同じ作品とは思えないような洞察の深さがあり、大団円のその後を書き起こした値打ちがある。源氏が犯した不義の罪は、世間に漏れずに終わろうとも、源氏を因果応報へと向かわせるのだ。栄華の極みで内側の幸福が崩れていく様には、これが千年以上前の創作かと驚かされる筆力がある。

時代を超える物語を読む

『荻原規子の源氏物語』全帖完訳セット 全7巻

『荻原規子の源氏物語』全帖完訳セット 全7巻
理論社

『源氏物語』全編には、本当に一人で書いたのか疑わしい点がいくつかある。それを考えながら読むのも一興だろう。光源氏の没後、孫世代を扱った宇治十帖(「橋姫」~「夢浮橋」)は、複数の男女のあやにくな恋を描いて「若菜」以後の質をもつが、「若菜」あたりともまた異なる筆致をしている。そして、『源氏物語』を近代小説と同じ目線で読むとするなら、一番映えるのは宇治十帖だろう。

英訳『源氏物語』を1925~33年にロンドンで刊行したアーサー・ウェイリーは、宇治十帖後半をもっとも高く評価していたそうだ。当時のイギリスの書評家たちが、英訳『源氏物語』をマルセル・プルースト『失われた時を求めて』(1913年~27年フランスで刊行)と並べ比べたと聞くと、そういう時代だと思えてくる。今では、大著『失われた時を求めて』を通読できる人も少数派だろう。

『源氏物語』の読み方も、その時代その時代で好きなように解釈し、楽しめたらそれでいいのだと思う。平安京の女房階級の人々が楽しんだ物語を、千年を超える後世にまで伝え残した我々の先祖たちを讃えたい。

荻原規子
荻原規子(おぎわら のりこ)

1959年東京都生まれ。作家。
著書『空色勾玉』徳間文庫 755円(税込)。『西の善き魔女 1』角川文庫 792円(税込)他多数。


100回を迎える箱根駅伝 – 特別紙面

近藤雄二

箱根から育った五輪代表

2017年箱根駅伝のスタート

2017年箱根駅伝のスタート
提供:早稲田大学広報室

新春の国民的行事として定着した箱根駅伝が、今年1月2、3日の大会で、第100回の節目を迎える。

大正9年の1920年、東京高等師範、早大、慶大、明大による「四大校駅伝競走」として第1回が行われて以来、戦争での中断を挟んで104年。昭和、平成、令和へと元号が変わる中、沿道の人々から愛され、学生ランナーの晴れ舞台として、日本長距離界に不可欠な存在へ成長してきた。

咋年10月15日のパリ五輪代表を決めるマラソングランドチャンピオンシップ(MGC)では、男子は東農大出身の小山直城(ホンダ)が1位、拓大出身の赤崎暁(九電工)が2位でゴールしてパリ五輪の切符を獲得。3位には早大出身の大迫傑(ナイキ)が入った。意表を突く独走に挑み、レースを盛り上げて4位に食い込んだのは学習院大出身の川内優輝(あいおいニッセイ同和損保)だった。

4人とも、タイプは違うが、いずれも箱根駅伝を走ったランナーだ。

小山、赤崎の2人は、大学時代は共に突出した成績を残していないが、社会人になってから地道に力を伸ばした新鋭。大迫は、ユニバーシアード1万メートルで金メダルに輝くなど学生時代から世界を視野に、東京五輪マラソン6位のエリートランナー。36歳の川内は、埼玉県の公務員ランナーとしてボストンマラソン優勝を果たし、プロに転じてMGCが通算130回目のフルマラソンという、常識破りの個性派ランナーだ。

箱根から育った多様なキャラクターの選手たちが五輪代表の座を懸け、特長を生かして最後まで競い合った姿には、箱根駅伝創設者の金栗四三も、空の上で目を細めていたことだろう。

箱根駅伝の始まり

金栗四三 23歳

金栗四三 23歳
提供:玉名市立歴史博物館こころピア

そもそも、箱根駅伝はなぜ生まれたのだろうか。その原点は、金栗の味わった「悔しさ」にあった。

金栗は1912年、短距離の三島弥彦と共に日本人初のオリンピアンとしてストックホルム五輪に派遣され、男子マラソンに出場。しかし、日射病のため途中棄権に終わった。その翌日、痛恨の思いを日記に記した。

「大敗後の朝を迎う。終生の遺憾のことで心うずく。余の一生の最も重大なる記念すべき日なりしに。しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく、雨降って地固まるの日を待つのみ。人笑わば笑え。これ日本人の体力の不足を示し、技の未熟を示すものなり。この重圧を全うすることあたわざりしは、死してなお足らざれども、死は易く、生は難く、その恥をすすぐために、粉骨砕身してマラソンの技を磨き、もって皇国の威をあげん」

行間からは、はるばる日本から派遣されて最悪の結果に終わった無念、世界と日本の差を思い知らされた嘆き、それでも屈辱に耐え、日本のマラソンが世界に通じるまで力を尽くそうという強烈な決意が、痛いほどに伝わってくる。

この日記の1ページが、箱根駅伝の原点といっても過言ではない。日本人として初めて立った五輪の舞台で自信を打ち砕かれた金栗が、どうしたら世界と戦えるランナーが育てられるのかと考え抜く中、浮かび上がった一つのアイデアが箱根駅伝だったのだ。

箱根駅伝が始まる3年前、「東京奠都記念東海道五十三次駅伝徒歩競争」という、京都・三条大橋から東京・上野不忍池までをリレーする日本最初の駅伝が、読売新聞社主催で行われた。関東組と関西組で競い、勝利した関東組のアンカーが金栗だった。ゴール目前の銀座以降は、まともに道を走れないほど、応援の観衆に取り囲まれ、大盛況の下で終幕を迎えたという。

この経験を通じ、金栗は、個人スポーツの長距離走をチームスポーツに変える「駅伝」が、人々を熱狂させるパワーを持つことを知った。そして、一度に多くの選手を育成できる駅伝が、長距離ランナー発掘にぴったりのイベントだということも、確信したのだった。

そして、当時のスポーツの担い手は主に大学生。そこで、東京高等師範出身の金栗らの呼びかけで、まずは早大、慶大、明大を加えた4校による学生駅伝をスタートさせた。これが、箱根駅伝の始まりとなった。

戦時下の学生駅伝

この強化策は、すぐに成果を出した。8年後の1928年アムステルダム五輪では、同年の箱根に特別参加した関西大の津田晴一郎がマラソンで6位入賞。この後、津田は慶大に入って箱根を走り、1932年ロサンゼルス五輪のマラソンでも5位と、2大会連続の入賞を果たした。

さらに、1936年ベルリン五輪では中大の村社講平が5千、1万メートルの両種目で4位入賞。同五輪の記録映画「民族の祭典」には、村社が1万メートルでフィンランド勢3人を向こうに回し、果敢に先頭を引っ張る展開に、ヒトラーがひざを盛んにさすり、興奮した様子で見守る姿が収められていた。

このベルリン五輪では、男子マラソンで孫基禎が金メダル、南昇竜が銅メダルを獲得した。いずれも当時日本の統治下だった朝鮮半島出身選手で、南は同年の箱根駅伝で明大の3区を担った選手だった。箱根駅伝を走って五輪のメダルを獲得したランナーは、今に至って南ただ1人しかない。

この後、箱根は苦難の時代を迎える。日中戦争が激しさを増し、1941年の大会は中止せざるを得なくなった。その年の12月8日には真珠湾攻撃で太平洋戦争に突入し、翌42年の大会も開催できなかった。

それでも、当時の学生たちは駅伝開催を、あっさり諦めたわけではなかった。

実は1941年には、時局の悪化で東海道を使うことができなかったため、学生たちは箱根に代わって明治神宮と青梅を結ぶ「東京青梅間大学専門学校鍛錬継走大会」を開催した。この大会は箱根駅伝の歴史には含まれていないが、同年に2度開かれている。

そして1943年、学生たちが知恵を絞ってひねり出したのが、「戦勝祈願」の名目で大会を開くことだった。関東学連の「箱根駅伝七十年史」には、法大OBで関東学連幹事だった中根敏雄さんが「戦勝祈願駅伝競走という考え方で、靖国神社―箱根神社という案を出したところが、それなら検討しようということで、だんだん煮詰まってきました」と、陸軍との交渉過程を振り返っている。

こうして実現した「靖国神社・箱根神社間往復関東学徒鍛錬継走大会」には11校が参加。号砲前、選手や関係者は靖国神社を参拝し、戦勝を祈願してからスタートしたという。

その後、戦局の悪化で再び中断。1947年に再開を果たしたが、この際も、復員したばかりの学生たちが、今度は連合国軍総司令部(GHQ)に掛け合って開催の許可を得たという。

戦争という苦難に際しての、学生たちの箱根駅伝への熱い情熱には驚くべきものがある。金栗のまいた長距離ランナー育成の種が、既にしっかり根を張っていた証しといえるだろう。

パリ五輪への期待

それから、戦後の箱根駅伝が始まるが、いつの時代でも、箱根を走ったランナーたちは日本の長距離界を引っ張ってきた。2021年の東京五輪まで、五輪代表となった箱根駅伝経験者は延べ100人を超えた。1983年に始まった世界選手権にも延べ80人を超えるランナーを送り込んできた。

そして、世界選手権では、1991年東京大会で日体大出身の谷口浩美がマラソンで金メダルを獲得。1999年セビリア大会と2005年ヘルシンキ大会のマラソンでは、中大出身の佐藤信之と山梨学院大出身の尾方剛がいずれも銅メダルと、90年代以降、世界の表彰台という、金栗が目指した輝かしい成果も挙げるようになった。

ところが、である。こと五輪となると、箱根駅伝出身のメダリストは、先に記した通り、朝鮮半島出身の南昇竜1人だけなのだ。

日本男子長距離のメダリストは、孫基禎、南昇竜を含めて計5人。残る3人はいずれも日本出身のマラソンランナーで、まず1964年の東京五輪で円谷幸吉が銅メダルを獲得し、4年後のメキシコ五輪で君原健二が銀メダルで続いた。さらに1992年バルセロナ五輪では森下広一も銀メダルに輝いた。しかし、この3人は高校から実業団へ進んだ選手で、世界選手権とは対照的に、なぜか箱根ランナーは1人もいない。

日本生まれの箱根ランナーから、五輪メダリストを育てるという金栗の夢は、実は箱根駅伝創設から1世紀以上が過ぎて、未だ果たされぬ悲願のままなのだ。

そこで、今回のMGCでパリ五輪代表に決まった選手を見ると、不思議な縁を感じることになる。2位で初の五輪出場を決めた赤崎は熊本県出身で、同県出身のマラソン代表は金栗以来100年ぶり。しかも、金栗が3度目の五輪として挑んだ1924年大会の開催地も、なんとパリだった。

箱根駅伝が第100回の節目を迎える年のパリ五輪に、金栗が出たパリ五輪以来100年ぶりに熊本出身者がマラソンに出場する――。何やら「そろそろ頼むぞ!」という、天国の金栗さんの声が聞こえるようではないか。

マラソン以外にも期待の精鋭がいる。順大4年生の三浦龍司だ。大学2年だった東京五輪では、3千メートル障害日本人初の入賞となる7位。咋年の世界選手権では一歩前進の6位入賞を果たし、「1、2番に食い込むのはまだまだと思うが、3番は現実味がある」と表彰台を視野に捉えた。

今年のパリ五輪で、金栗の悲願を叶える箱根ランナーは現れるのか。それは第100回大会を走る学生の中から生まれるのか。そんな夢と期待も込め、今年正月、節目の箱根駅伝を見守っていただければと思う。

近藤雄二・読売新聞東京本社編集局運動部次長。顔写真。2019年1月29日撮影
近藤雄二(こんどう ゆうじ)

1968年千葉県生まれ。読売新聞運動部編集委員。
早稲田大学競走部時代に箱根駅伝に出場。

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