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平成21年7月10日 第500号 P4 |
○特集 | P1 | ふるさと横浜 草笛光子 | |
○座談会 | P2 | 有隣堂の100年 —地域とともに— (1) (2) (3) 紀田順一郎/松本洋幸/篠崎孝子/松信裕 |
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○人と作品 | P5 | 草風夏五郎と『地上にて』 | |
○有鄰らいぶらりい | P5 | 増田弘:著 『マッカーサー』/曽野綾子:著 『貧困の僻地』/椰月美智子:著 『るり姉』/百田尚樹:著 『風の中のマリア』 | |
○類書紹介 | P6 | 冤罪を考える…あってはならない冤罪事件の構造を検証し、予防対策を講じる。 |
座談会 有隣堂の100年 —地域とともに— (3) |
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◇戦時下には工学書売場を増設 |
松本 |
戦争が始まりますと、伊勢佐木町はもちろん繁華街として存在しているんですが、戦時の配給統制があったりして、営業も窮屈になってきます。 町を照らしていたすずらん灯が金属供出で撤去されたり、街頭にスパイを探し出すことを督励する防諜週間などという横断幕が張られるようになります。 この時期、特に戦時下になってから、理科系の本がものすごく売れ始める。 私は、それは久太郎さんの考えだろうと思っているんです。 戦争中に亡くなられますけれど、理科系に力を入れられていたようで、先代の大助さんの地道な路線に上乗せして、新しい展開として久太郎さんの営業方針が重なる。 そうして有隣堂の経営基盤はかなり分厚くなっていくんじゃないかという気がしました。 |
松信 |
昭和16年8月に、古書部を廃止して工学書売場をつくり、さらに、「慰問品種々取揃」とありますから、やっぱり機を見るに敏だったんじゃないでしょうかね。 開戦前日の12月7日には、「航空模型機部」をつくったという広告を出しているんです。 その翌日の8日に真珠湾攻撃ですからね。 このタイミングは私には信じられないですよ。 そして、盛り場だった伊勢佐木町も野澤屋の4階以上が東芝の横浜工場になったりして、すっかり様子が変わる。 男はみんな戦争に行ってしまって、今度は若い学生たちが軍需工場に通ってくる。 ですから、そういう参考書として有隣堂も工学書が増えていったというのが、当時の『出版弘報』に出ているそうです。 |
横浜大空襲で木造二階建ての店舗は焼失 |
篠崎 |
そのころ伊勢佐木町の有隣堂は木造2階建てだったんです。 強制疎開という命令が来ると、建物を全部解体するのね。 命令が出ていたんだけれども、有隣堂は建物の規模が多少大きいのと、中に入っていた商品が多いので、その整理にちょっと時間がかかるからというので、延期の申請書を出していたらしい。 それで中はほとんどがらんどうなんだけど、建物だけ残っていた。 それが昭和20年5月29日の空襲で見事に焼けてしまった。 私は、空襲のときに伊勢佐木町にいたんです。 野澤屋の地下に逃れて、何とか助かりました。 |
紀田 |
焼夷弾が何十万発か落ちたんでしょう。 |
篠崎 |
35万発だそうです。 束になって落ちてきて、地上に着く前に1つが6つぐらいに分かれるのよね。 |
紀田 |
私はその半月前に小田原に疎開していたんです。 小学校4年生でした。 横浜の空が朝なのに真っ赤かになっているのを、小田原から私も見ましたよ。 |
◇店舗敷地が接収され、本牧で営業を再開 |
篠崎 |
戦後、まず本牧の倉庫で営業を再開しました。 |
紀田 |
本牧三之谷ですね。 |
篠崎 |
コンサイスの英和辞典が売れ残っていた。 |
松信 |
先を見越して仕入れていたのかどうかわかりませんが敵性外国語だということで売れ残っていたようで、終戦後、それが当たったんですね。 |
紀田 |
終戦直後で情報がとにかくないんですが、有隣堂さんでコンサイスの英語の辞書を売っているという話は、子供まで全部知っていましたね。 |
篠崎 |
あの行列はただ事じゃなかったもの。 |
紀田 |
私も3キロぐらい歩いて本牧三之谷まで行きました。 そして果物の栽培のハンドブックを買ってきた(笑)。 本への飢えがあるんですね。 なんでもいいから本が欲しかった。 昭和14、5年ぐらいの、もう古本に属するような本だったと思うんですが、新本として仕入れられたきれいなクロス張りの本だった。 戦中から終戦直後ぐらいまでクロス装幀なんて全然ないですから。 |
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すごかった野毛の店舗の混雑 |
松信 |
昭和22年からは野毛に営業所をつくって営業していました。 |
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松信 |
右側は難しい本ばかり並んでいましたね。 私が小学校3、4年のころです。 |
篠崎 |
私も店番をしていました。 例えば入り口近くの商品をお客様がお買い上げくださる。 ところが、レジは店の真ん中辺にあって、混んでいてそこまで行かれない。 仕方がないから、お札に硬貨を包んでレジに向かって投げるんです。 それが時々ばらばらになったりする。 そんなに混んだの。 すごかったですよ。 1階は、入って左側が文具の売場でした。 |
紀田 |
そうそう。 それから児童書があった。 |
接収解除の陳情書を何度も特別調達庁に提出 |
松本 |
接収解除の陳情書を何度も出されたそうですね。 |
篠崎 |
有隣堂の店があったところに、英文で、有隣堂がないと横浜市民は本が買えない、文化に飢えているんだ、という大きな看板を出したんです。 文章をつくったのはアメリカ帰りの長女です。 |
松信 |
GHQに叱られたそうです。 当時、市域の接収の窓口として、特別調達庁という機関が駐留軍司令部の統括下にあったそうです。 昭和26年9月に提出した陳情書には接収解除後の土地使用計画として、「国際港都に相応しい一大文化センターを建設」すると、店舗の設計図まで付けて、一日も早い接収解除を要望しています。 それから、直接、駐留軍司令部のある座間に、通訳を連れて行ったという話は、父から聞いています。 英文で書いた陳情書も、残っています。 そして、伊勢佐木町の本店のビルは、末広町の部分と伊勢佐木町の部分とに分かれていまして、末広町側だけが昭和27年にようやく解除になるんです。 それで先に片方側だけ建ててしまうんです。 伊勢佐木町のほうが解除になるのが昭和30年ですので、それで両方を合体して一つのビルディングにしたということです。 |
篠崎 |
伊勢佐木町の店を新しく建てるにあたって、父はいろいろと夢を描いていました。 そして、地鎮祭の打ち合わせを竹中工務店のスタッフの方たちとしていて、それが終わって、「ではよろしくお願いします」と頭を下げたまま、あの世に行っちゃった。 これが有隣堂の一つの区切りになったんですね。 昭和28年でした。 |
松信 |
接収解除に際して区画整理も行われまして、1.8メートルほど道路用地に提供していますので、店の間口は少し狭くなっています。 |
◇昭和31年、伊勢佐木町に復帰 |
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松信 |
広い売場で新たな店づくりをしていく中で、4階にギャラリー、地下に食堂をつくります。 けれども、写真を見ると、開店当初は、市の中心部はカマボコ兵舎が取り壊された後も空き地が多く、「関内牧場」と揶揄[やゆ]されている状況でした。 |
篠崎 |
食堂にも、コンセプトがありました。 上でゆっくり好きな本を買い、地下に行く。 そして、新刊特有のインクの香りが漂うお気に入りの本を読みながら熱いコーヒーを飲む。 そういうシーンを想定して、お店をつくったんです。 |
紀田 |
当時、ギャラリー的なものは横浜にはなかった。 これは大きいですね。 |
篠崎 |
それは父が言っていた世間様へのご恩返しを、兄たちがしっかり心に刻んでいたんでしょう。 |
紀田 |
かつて三笠宮崇仁殿下が来ているんですね。 |
松信 |
「オリエント古代文化展」です。 神奈川県立博物館ができる昭和42年まで博物館や美術館のような施設は横浜にはありませんでしたから、市民や県民の方々から圧倒的な支持を受けました。 山下清作品展とか、長谷川伸、吉川英治、獅子文六といった横浜ゆかりの作家などの展覧会を毎年やっていました。 県内の仏像や、国宝に指定されている陶磁器なども、専門の先生方のご指導を得て陳列させていただきました。 昭和47年の大佛次郎展では、大佛さんご自身が入院中の癌センターから来場された。 亡くなられる5か月前です。 |
松本 |
加山道之助という、震災前に有隣堂の株主もしていた人がいます。 彼が「横浜は商工立市」と言っているが精神の部分がないと嘆いている文章があるんです。 どうすればいいか。 それには博物館や定期的な展覧会などが必要だと、大正10年ぐらいに言っているんです。 これは、有隣堂ギャラリーの発想に近いものがありますし、初代の松信社長がおっしゃった公共的な精神の発揮というのは、そういう、地域の文化センターとしての自負もあるんじゃないでしょうか。 |
『有鄰』はお客様とのコミュニケーションを図るために創刊 |
松信 |
昭和42年12月には、本紙『有鄰』を発刊しました。 創刊号には「楽しい読みものとして、お客様とのコミュニケーションの役割を果たすためにこのささやかなニュースを企画した」と、父が挨拶文を書いています。 |
紀田 |
新聞という形態が面白いですね。 PR誌というと岩波書店の『図書』といった格好でしょう。 『有鄰』はアイデアの勝利ですね。 今どこも維持に困っているらしいけどもね。 保存する場合には500号といったらずいぶん分厚くなるでしょう。 本当に資料価値があるものですよ。 |
篠崎 |
それは本当にありがたいお言葉です。 |
松信 |
書店として、本に関する情報をお伝えするのはもちろんのこと、地域の文化、例えば神奈川県を視野に入れますと、中世には鎌倉や小田原、また開国・開港の舞台となった横浜というように、当社をご利用いただいているお客様が住んでいる地域には、いろいろな話題があります。 こうした本と地域に関する情報紙として多くの方々にご愛読いただいております。 おかげさまで創刊以来1号も休むことなく、500号を迎えることができました。 |
紀田 |
横浜のことを調べようとインターネットで検索すると、上のほうに必ず『有鄰』の記事が出てきます。 つまりいろんな固有名詞はほかで研究していないんですね。 まず『有鄰』が出てくる。 |
老舗の書店として地域の皆様のお役に立ちたい |
松信 |
最後に一言ご挨拶申し上げますと、今は、書籍を中心とする紙メディアが置かれた環境は非常に厳しいものがあります。 私どもの取り扱い商品は本が中心ですが、近年は事務機やコンピューターを販売したり、音楽教室を開設したりと業態をいろいろ広げています。 こうした状況の中で、さまざまな試みをしていかなくては会社が生き残れないと思っております。 これから本の世界がどのようにデジタル化されるのかよくわかりませんが、コンピューターで取り寄せるネット書店と違って、店舗を持つリアル書店としての楽しさを十分発揮していきたい。 老舗の書店として、きちっとした品ぞろえのできる本屋として、地域の皆様のご要望に添いながら、お役に立っていきたい。 |
篠崎 |
本日はどうもありがとうございました。 |
紀田順一郎 (きだ じゅんいちろう) |
1935年横浜生まれ。 著書『横浜開港時代の人々』 神奈川新聞社 1,680円(5%税込)、ほか多数。 |
松本洋幸 (まつもと ひろゆき) |
1971年福岡生まれ。 |
篠崎孝子 (しのざき たかこ) |
1930年横浜生まれ。 |
松信裕 (まつのぶ ひろし) |
1944年横浜生まれ。 |
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