Web版 有鄰

570令和2年9月10日発行

忍者集団・風魔一党 – 海辺の創造力

甚川浩志

北条之忍び風魔参上!

世界の人々が知るNINJAだが、関東にいた風魔一党をご存じだろうか?

忍者という言葉は、昭和に入って出来た造語だという。ただ、そのモデルとなる人々は実在した。忍び、乱破、素破、草、間者、かまり…と呼び名は様々だが、領主大名に仕え、特殊な情報活動を任務としていた(※便宜上、以下忍者という)。忍者の任務は政に直結しているので、基本的には侍が担う。しかしながら、外部の協力者、現代流にいうと「外注先」もいる。忍者は侍とその外注先である修験者、商人、職人、旅芸人、盗賊まで、様々な身分の者で構成される機能集団である。

次に、関東にいた忍者についてだ。武家社会の源流がある関東の勢力争いで、戦国後期に一円を支配したのが、戦国武将北条氏(後北条)である。北条氏は武力のみならず、巧みな戦略で領国を広げ、関東の覇者となった。同時に、民を大切にする領国運営をしたとされる。その知と心を重視した政の手法は、近年見直されているが、その裏には、緻密な情報活動があった筈である。ここまで書くと、ピンとくるであろう。緻密な情報活動とは、即ち忍者の働きである。情報活動が重要な戦国期に、関東一円でその任務を担ったのは北条之忍びである「風魔」一党である。一般的には漫画やゲームのキャラクターとして、その名は知られているが、実は戦国の世、この関東に暗躍した忍者なのだ。

風魔の名は、伝承や軍記物に出てくる。その一つ、『北条五代記』にこんな逸話がある。北条氏が甲斐武田氏と黄瀬川(現在の三島市周辺)で対峙した際、風魔は武田の陣に度々夜襲をかけた。大雨などの悪条件下でも、騎馬で激流を越えて毎夜のように現れたという。風魔は馬術に長けた忍びであった。

そして、現代。NINJAという言葉は、漫画やゲームなどPOPカルチャーを通して世界に広まった。一方、日本文化への関心が高まるにつれ、本物の忍者の姿も注目されるようになった。実は、本物の忍術には、日本文化の神髄たる哲学が凝縮されている。数年前、学術の世界でも忍者・忍術学を追求する「国際忍者学会」が創設された。さらに、全国の忍者ゆかりの地がある自治体で組織する「日本忍者協議会」も設立された。同協議会では、本物の忍術を学ぶ「忍道」という本格修行の取り組みも始めている。

そんななかで、北条氏の本城のあった小田原では、風魔を観光資源に育てようと、昨年、小田原城内の歴史見聞館を「NINJA館」としてリニューアルオープンした。ここで先ずは、訪日外国人や地域の子供達に楽しんでもらう。これと同時に、本物の忍術を学ぶプログラムの開発も進めている。また地域の人が本物の忍術を学ぶための「野忍風魔忍術道場」も各地で実施している。

このように、風魔は、日本の文化・哲学を世界に広めるという新しい任務を得て、現代でも脈々と活動を続けている。機会があれば、風魔忍者から忍術を学んでみては如何だろう。

(風魔一党指南役)

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.