Web版 有鄰

570令和2年9月10日発行

『ヨコハマメリー』と『横浜ローザ』 – 1面

中村高寛

『横浜ローザ』とは何だったのか?

『ヨコハマメリー』・表紙

『ヨコハマメリー』
中村高寛著 河出文庫

私が映画『ヨコハマメリー』の製作準備をしているとき、メリーさんをモデルにした舞台があることを知った。たしか、98年のことだったと思う。次回の公演を調べてみたが、まだ決まっていない……。観たいけど観ることができない宙ぶらりんでモヤモヤしていると、その年の暮れにテレビ神奈川で放送され、ブラウン管を通して観ることとなる。そしてその内容に圧倒された。女優・五大路子による一人芝居で、まさに渾身の力作だった。と同時に「ある違和感」が残った。果たして、これは「メリーさんの物語」なのだろうか?

―終戦後、米兵に犯されて、娼婦(パンパン)になった
―マックという米兵のオンリーになって、幸せな時間を過ごした
―朝鮮戦争が勃発し、マックが戦地へ。そしてまた夜の街に立つ
―ベトナム戦争の脱走兵マックの息子デイビーと出会って、密航を手助けする

それ以外にも、私が調べてきた「メリーさん」の情報にはないことばかりだ。

直接、メリーさんから聞いたのだろうか? いや、しかしメリーさんは自分の過去を語りたがらなかったらしい。ということは、独占スクープ! にしては、ドラマのようにうまく行き過ぎているストーリーだ。

しかし私が街頭にリサーチにいくと、メリーさん=『横浜ローザ』と信じ込んでいる人が多かった。私もそれで興味を持った一人である。果たして、どういうことなのか? 何より前述した「違和感」が残ったことで、「メリーさんを描くこととは何か?」を改めて考えるようになった。

そしてそれから約2年後、クランクインして半年が経ったころ、遂に『横浜ローザ』の劇作家・杉山義法と出会うことになる。そしてメリーさんだけに限らない、敗戦当時の娼婦たちへの記憶を聞くことになった。

「戦争が終わったのは、僕が中学生の時ですからね。まざまざと大人たちの変貌をみていますよ。その時の感覚からいうと、こういう人はいっぱいいたんです。だから必ずしも横浜に限ったことじゃなくてね、日本全国どこにでもいたと。それと同じような年代の人たちが、みんな同じような思いをしているんだよね」

『横浜ローザ』は戦中派である杉山だからこそのアプローチともいえる。ローザという街娼を通して日本の戦後史を描くことなど、「もはや戦後ではない」と記述されてから約20年も経って生まれた私には到底マネできない作り方だ。

では自分なりの作り方とはなんだろうか? 映画を作っていく中で、私はその答えを模索していくことになる。

そして杉山への取材を終えると、五大路子と会うことになった。

そもそも『横浜ローザ』の「違和感」から始まったのが、私の映画である。もしかすると五大に反発されるのではないかと、内心ビクビクしていた。実際、映画を作っていくなかで取材を拒否されたことも少なくなかった。ゆえに五大に会うことに及び腰になっていたのだが、それは私の杞憂にすぎなかった。五大は「メリーさん」をテーマとして創作する同志として接してくれたのだ。そして本人へのインタビューのみならず、『横浜ローザ』の舞台を何度も撮影させてもらった。驚くことに、同じ戯曲にも関わらず、舞台を積み重ねるごとにその印象が変わっていった。杉山が創作したローザが、五大によって血肉を持った架空の人間へと変貌していくようだった。そして私は五大にある提案をすることになる。「ローザの格好をして、伊勢佐木町の街を歩いてみませんか?」

あくまでも「ローザ」は舞台の上で生きている人物である。それを街の中に放り込むことにどんな意味があるのか? 正直、私自身にも逡巡もあった。

しかし進化(深化)を遂げていくローザを目の当たりにしたときに、ローザと「メリーさんがいた街」が出会えば、「何か」が起こるのではないかと思ったのだ。

私は「違和感」をこえた先にある「何か」を見たかった、撮りたかったのだ。果たして、それがどうなったかは、映画を観て確認してもらいたい。

『ヨコハマメリー』があった風景

映画を作り始めたとき、私はまだ22歳だった。そして今年で45歳になったので、すでに人生の半分近くを映画『ヨコハマメリー』と関わってきたことになる。

そしてメリーさんが横浜を去ってから25年、四半世紀が経ってしまった。

ふと街を歩き、周りを見渡してみると、映画を撮っていた時の風景の多くがなくなってしまった。メリーさんが見ていた風景は、もうすでにない……。

果たして何がなくなって、変わってしまったのだろうか?

それは風景というよりも、私たち自身の意識なのかもしれない。メリーさんがこの街からいなくなった95年、阪神淡路大震災、そしてオウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった。まさに時代の転換期である。それから25年が経ち、LGBTQ(という言葉)をよく目にするなどマイノリティへの意識は高まる一方で、ヘイトスピーチなどの差別行為はおさまるところを知らない。

そもそも開港地である「ヨコハマ」は、他者が集まり他者を受け入れることによって発展していった。それこそがこの街のアイデンティティともいえる。そしてそのアイコンこそが「ハマのメリーさん」だったのではないだろうか。他者だからこそ分かり合える共同体。ゆえに「三日住めばハマっ子」という言葉も生まれたのだろう。

ふと思い返すと、私がメリーさんと出会ったのは、中学生の時だった。馬車道にあった「東宝会館」に映画を観にいく途中、アート宝飾1階のベンチに座っていた。最初は「置物か何か?」と思って凝視していると、動いたので驚きのけぞってしまった。実物のメリーさんはとても近寄りがたく、妖気すら感じさせた。とても気軽に話しかけられるような雰囲気ではなかったが、その当時、学校でもよく「メリーさん」が話題になっていた。「口裂け女」などのような都市伝説の一つとして、街にいる変人くらいの感覚で捉えていたように思う。その後、映画の取材を始めてみると、メリーさんに対して良い印象をもっている人ばかりではないことが分かった。都市伝説ではない、生身の人間だったと当たり前のことに気づかされた。

そもそも「何故、メリーさんが横浜から去っていったのか?」

取材を続けていくなかで、街での居場所を徐々に失っていったことが分かった。メリーさんを出入り禁止にしていたお店も多く、最後は雨露をしのげる(お店の)軒先も数軒しかなかったという。他者が集まり、他者を受け入れてきた「ヨコハマ」が、メリーさんを排除していたのだ……。実は風向きが変わってきたのは、メリーさんが去って11年後、映画が公開されたあたりである。都市伝説や年老いた街娼、変人ということではなく、「メリーさんを通して横浜の戦後史」を描くといった手法が、皆の意識を変えていったのかもしれない。映画を観た人たちは、「メリーさん」への想いを語り始めるようになった。

『Rosa』となった女優

五大路子著『Rosa-横浜ローザ、25年目の手紙』を一足早く読ませてもらった。95年『横浜ローザ』の初演から、今年で25年が経った。つまり四半世紀にわたって、五大がメリーさん、そしてローザと向き合ってきた軌跡が書き綴られている。

当初、五大の「メリーさん」への想いから始まったのが「ローザ」だった。しかし今では「メリーさん」ではなく、五大路子=「ローザ」と化している。それは今まで飽きることなく舞台に立ち続けたからこそ成し遂げられた境地であり、偉業である。

閑話休題。映画が完成した後、日本全国のみならず、海外の多くの国で上映された。たくさんの反響があり、中国では若い世代の多くが知っている「有名な日本のドキュメンタリー」になっているほどだ。しかしアメリカだけは反応が違っていた。ある映画祭で上映が終わると一人の観客が立ち上がり、壇上にいる私にむけて罵声を浴びせたのだ。「なによ、この映画は!私はメリーさんの半生を観られると思ったのに、全然分からなかったわ」と去っていった。「メリーさんだけではない、その当時を生きた娼婦たちの生き様」を描いた『横浜ローザ』を観ていたら、果たしてどんな反応だったのだろうか? だからこそ、私は映画と舞台の2つが存在することに意味があると思っている。交わっているようで、ずっと平行線で交わらない。しかしその想いやテーマは通底しているからだ。

25年目以降の『横浜ローザ』は、新たなステージに入ったように思う。そしてニューヨーク公演を成功させたように、日本のみならず世界へと発信していってもらいたい。

ヨコハマの同志たち

私の映画、そして書籍では森日出夫の写真を多数使わせてもらっている。

そして森の写真を見るたびに、私は今も思索を巡らせることがある。

横浜を描くこととは何だろうか?

ただ横浜の景色、風景を撮れば、横浜なのか?

横浜ゆかりの題材を使えばそれで横浜発の作品になるのか?

私はNOだと断言できる。それでは観光プロモーションと同じだからだ。

横浜を描くこととは、開港から160年余りが経った、この街の歴史と精神を見つめていくことに他ならない。その思想と視点が宿っていれば日本のどこで撮っても、海外のどの街で撮っても「横浜」を描くということになると、私は思っている。

なぜ、そう思うようになったのか?

まずは私の映画『ヨコハマメリー』と『禅と骨』を観てもらいたい。そして今回、文庫本となった書籍『ヨコハマメリー 白塗りの老娼はどこへいったのか』を手に取ってほしい。そこには私が二十数年かけて、故郷・横浜と対峙してきた闘いが記録されており、私なりの「横浜」が刻み込まれているからだ。

私はこの「横浜」でこれからも映画を撮り続けていこうと思う。

五大路子、森日出夫ら多くの同志たちとともに。

中村高寛
中村高寛(なかむら たかゆき)

1975年神奈川県出身。映画監督。著書『ヨコハマメリー』 河出文庫 980円+税。

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