Web版 有鄰 第435号 いしい しんじと『絵描きの植田さん』
いしい しんじと『絵描きの植田さん』 – 人と作品
都会で傷ついた心を山小屋のくらしで取り戻していく
いしい しんじ
ゆったりした三崎での生活が小説に反映
とても静かな物語だ。
主人公の「植田さん」は、耳がほとんど聞こえない。ストーブの火事で、友だちと聴力を失った。傷ついた心と聴力、画材一式とわずかな着替えをもち、都会から湖畔の一軒家に引っ越した。
「何か欠けている人が、欠けた部分をどう埋めて生きていくのか。僕はそんな物語が好きで、ワンパターンですが書き続けています」と、いしいしんじさんは話す。
植田さんの近くには、さまざまな人が住んでいる。菜園を営むオシダさん、定食屋のおかみ、ボート小屋に暮らす元地方記者……。2年ほどたったころ、林イルマ、メリという母子が越してくる。植田さんの耳が不自由と知ったメリは、両手で耳を覆い、〈あたしも耳をきこえなくしてるの〉と微笑む。ぎこちない無音の問答で、植田さんの新しい物語が動き始める──。
「芸術家」のそばに子どもがいる光景は、著者自身の創作現場に似ている。神奈川県三浦市三崎にあるいしいさん宅は、漁師の親方の住まいだったという2階建で、「いしいさん、いしいしんださん」と子どもたちが出入りする。いしいさんが「死んでへん」というと、「だって“しんださん”じゃん。ねえ、海へ行こうよ」と、誘われる。
「今仕事してるからあかんねん、というと、ぼーっとしてるだけじゃん、といわれます。そんなごく普通の、ゆっくりした生活は、小説に反映されるようですね」。
4年前、東京・浅草から三崎に越した。「植田さん」同様、肉体的精神的なダメージがピークにきたからだ。
昭和41年、大阪市生まれ。京都大学卒業後リクルートに入社した。会社員をしながら、時々旅行をする生活は楽しかったが、ある朝、気持ちが悪いと感じ、その日に会社を辞めた。旅の絵日記『アムステルダムの犬』の出版が決まっていても、将来展望はまるでなし。「間違ったことをするわけじゃないから何とかなるだろう、子どものころから何かしら物を書いていた。物書きの筋を通そう、と考えました」と、振り返る。
空想から現実を感じてもらう手品
幼稚園で、「文・いしいしんじ、絵・いしいしんじ」と絵本を書いたのが始まりという。その一冊(?)『たいふう』は、台風がきて家から人がいなくなり、一人でご飯を作り、洗濯をしていた主人公が、「今度台風がきたら、吹き飛ばされてしまおう」と決意していく物語だ。
「あの『たいふう』を30数年ぶりに甦らせてみようと、『ぶらんこ乗り』(平成12年刊)を書きました。人どうしが完全に分かりあうのは不可能。人は死ぬまで悟ることなく、言葉を聞き、暗闇に目をこらして生きていくんだ…と、4歳半で身にしみて絵本に描いたテーマを書いたんです。自分を束ねるものを見つけた感じで急に書けるようになりました」
『トリツカレ男』『麦ふみクーツェ』を書き、へとへとの状態で浅草から三崎へ越した。『プラネタリウムのふたご』(現在品切)、そして『絵描きの植田さん』。ゆっくりした生活の中で、小説が変化する。いしい作品には、イルマ、クーツェ、タットル……と、不思議な名前の舞台と人物が登場する。なのに、なぜかリアルだ。
舞台や素材、人物名が空想的でも、物語の主人公たちの姿は真剣そのもの。植田さんは迷子になったメリを白い森から連れ戻し、『プラネタリウム――』の捨て子のひとりは、手品師になる。心が傷ついても植田さんは絵筆を離さず、孤独な少年はだましだまされる手品に夢中になり、それぞれ職業を信じている。
「だましだまされる、捨てる捨てられるというのは、裏返せば“人を信じる”ということなんですね。まだそんなに上手ではないけれど、僕の作品は、空想から現実を感じてもらう手品なんです。だましだまされるためには、上手に手品をしなくては。『プラネタリウム――』あたりから登場人物の冗舌さが消えて、体の中の物語のうねりを感じながら、ゆっくりゆっくり言葉を書いていくようになりました。読書は無音の会話だから、面白いと思ってもらい、何かが残るといいですね」
<なかなか山のようにはなれないわ、とおかみさんはひとりごちた。でもせめて、季節ごとに変わる風景をたのしみ、その彩りに胸おどらせることだけは、忘れずにおきましょう>――。物語の終り近くに、画家・植田真さんの彩色画が添えられている。心を取り戻した主人公が描いた絵という仕掛けで、そんな試みも楽しい1冊である。
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※「有鄰」435号本紙では5ページに掲載されています。
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