Web版 有鄰 第442号 ばななの日本語/金田一秀穂
ばななの日本語 – 特集2
金田一秀穂
現代小説と若者の話し言葉のコードが接近
現代の小説の文章が、現代の若者の話し言葉と一致してきているのではないかという指摘があって、それが妥当な説であるかどうかを検討するのが拙稿の目的である。まずは手始めに、現代小説に現れた新しい日本語について考えようと思う。
日本語学には、コードという概念がある。
私たちは日本語を使って生活しているのだが、場面に応じて、さまざまの異なる日本語を使い分けている。
私であれば、家族と話すとき、学生と話すとき、同僚と話すときで、異なる言葉づかいをする。同じ家族であっても、妻と話すときと子どもと話すときとでは違う話し方をしている。同じ相手でも、面と向かって話すのと、電話で話すのとではまた違うし、子どもの成績について話すときと、昨日見に行った映画の話をするときとではまた異なる。
そして、私とあなたとでは、全く違う言葉遣いの日本語になるし、話し言葉と書き言葉とでは当然異なるコードを持つといえる。
日本語は、こうしたさまざまなコードの束のようなものであると考えられる。
したがって、冒頭の指摘は、現代小説のコードと、若者の話し言葉コードがかなり接近して、似たものになっているのではないか、というように言い換えることが出来る。
とりあえず、ここでは、現代小説に見られる特徴的と思われるコードの一部を拾ってみる。
現代の若い女性を感じさせる吉本ばななの文章
吉本ばななの『キッチン』を見てみる。吉本ばななは、いわゆる若者言葉を使いこなすにはいささか年齢が高いようだが、しかし、現代の若者の小説の代表的な作家の一人であると考えられる。
彼女の小説コードは、彼女一人のものであり、それによって一般化することは避けたいのだが、いかにも現代の若い女性を感じさせる文章である。
たとえば、冒頭から数ページの間に、いくらでも見つけられる次のような語彙は、既成の小説家の使うものではないだろうとおもう。
「恋をすると、いつもダッシュで駆け抜けてゆくのが私のやり方だったが、…」の「ダッシュ」。
「引越しは手間だ。パワーだ。」の「パワー」。
物の名前であれば外来語を使うのは仕方がないかもしれない。それでも、テレビと書かずにわざわざテレビジョンと書く作家もいる。だがここで使われているのは、モノの名ではなく、目に見えない概念である。
こうした、一見粗っぽいような外来語彙は、しかし、身体的な運動感を与えていて、文章を軽くすると同時に、若さの持つ能動的、積極的な気分を生き生きと表現することに成功している。
外来語は普通伝統的な小説の地の文章からは排除されるだろうが、現代の若者にあっては、そうした意識は殆どない。自分の意識を的確に表すのであれば、その語彙の出自がどのようなものであろうと、躊躇することなく使われる。そして、文学的な効果をあげている。伝統的小説コードとは、明らかな変化がおきている。
感覚をそのまま言語音に変換させた擬音語、擬態語
同じようなことが、擬音語、擬態語の使い方にも見られる。
「冷蔵庫のぶーんという音が、私を孤独な思考から守った。」の「ぶーん」。
「まず、台所へ続く居間にどかんとある巨大なソファーに目がいった。」の「どかん」。
「濡れて光る小路が虹色に映る中を、ぱしゃぱしゃ歩いていった。」の「ぱしゃぱしゃ」。
擬音語や擬態語を頻繁に使うことは、文章を安っぽくさせ、品位を落とす、というのが、伝統的な文学の文章作法であった。井伏鱒二などには、その全集の中を探しても、ほとんど使われてないことがよく知られている。しかし、吉本ばななは、ここでも躊躇しない。
擬音語、擬態語は、自己の感覚をそのまま言語音に変換させたものであって、普通の言語であれば必ず持っている分節性、理論的な確定性を持っていない。どのような意味であるかを明示的に説明することが難しいものである。逆に、明示的に言語化できない感覚であるからこそ擬態語によって、加工せずに表現しているとも言える。
文章家であれば、そのような得体の知れない感覚を無理やりにでも言語化することに技の見せ所があり、それこそが小説言語の成すべきことであると考えられていた。擬音語、擬態語で何かを表すことは、素人のする幼稚な方法であると看做されていた。
ひらがな表記の擬音語、擬態語でやわらかな優しさが
吉本ばななも、そうした伝統的な考え方を当然知っていたとは思われるのだが、それよりも、自分の感じ方を言い表すことに忙しい。スピード感覚を維持するためにも、いちいち既成の言語に当てはめてモタつくことよりも、擬態語によって次々と自分の感じ方を読者に手渡していく。読者も、それで分かるのであれば、かえってその感覚性をナマのまま、新鮮なまま受け取っていく。
ただ、吉本ばななは多少の工夫をしている。擬音語や擬態語はカタカナで表記されることが原則である。それをわざとひらがなで表記することで、どこか女性的なやわらかな優しさを感じさせている。そもそも筆名がひらがなであるところからして、作家の微妙な感覚を知ることが出来る。
若さを感じさせた縦書きのアラビア数字
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- 『キッチン』
福武書店(ベネッセコーポレーション):刊 1988年
表記については、数字の表記も印象的であった。初めて福武版で読んだときに、縦書きの中に「週に2回」とか「1度見たことがある」などとあって、紙面が光るような印象を受けた。横書きであればアラビア数字のほうが普通である。縦書きでアラビア数字を使うについては、校正チェックを受けるはずで、吉本ばななの意図的な方法であると考えられる。いかにも若さを感じさせた。ただし後で角川文庫になったときは、伝統的な漢字表記に変えられている。
話し言葉的な語法でリズムや共感を
話し言葉的な文体ということであれば、次のような例が挙げられる。
「私は、正直言って、呼ばれたから田辺家に向かっていただけだった。なーんにも、考えてはいなかったのだ。」の「なーんにも」。
いかにも、若い女性の声が聞こえてきそうである。ひらがなに長音記号の「ー」を使うのも、校正でチェックされる。作者はわざと使っている。
「素性はなにも知らなかったが、よく、ものすごく熱心に花屋で働いているのを見かけた気もする。」の「よく」の位置。
普通の書き言葉であれば、「素性はなにも知らなかったが、ものすごく熱心に花屋で働いているのを、よく見かけた気もする。」となるだろう。副詞は修飾する述語の直前にあったほうが分かりやすい。
話し言葉では、構文的な秩序を整えることより表現意欲が先走ってしまい、文法的に美しくない形になりやすい。それでも、話しているときには、口調の補助があって、誤解を防ぐことが出来る。
書かれた言葉で、話し言葉的なゆるやかな文法を使うことは危険であるが、吉本ばななはあまりそのようなことを気がけているようには見えない。むしろ、積極的に話し言葉的な語法を使うことで、リズムや共感を誘い出している。
同じ語を繰り返すのは若い女性の特徴的な話し言葉
主人公がコップのプレゼントをもらう場面。
「大切な大切なコップ。」の、繰り返し。
同じ語を繰り返すのは、若い女性の特徴的な話し言葉である。
「映画行く?」「行く行く!」「怖いの、好き?」「好き好き!」。
同じ語を繰り返すことは、今までの小説コードにもありそうな技法だ。詩であれば、珍しいことではない。しかし、この修辞法は一歩間違うと情緒的になりすぎて、それまでに読者との共感感情をしっかりと作っておかないと、かえって気持ちを離れさせてしまう。もちろん、吉本ばななはそれまでに周到な準備をしているので、痛いような気持ちが伝わってくる。
文体の突然の変化で事態の重さや深みのある気持ちを
もっとも気になるのは、文体の突然の変化である。
主人公が久しぶりに前住んでいたアパートに引越しのため訪れた場面。
「しんと暗く、なにも息づいていない。見慣れていたはずのすべてのものが、まるでそっぽを向いているではないですか。私は、ただいまと言うよりはおじゃましますと告げて抜き足で入りたくなる」。
同居を勧められる場面。
「彼はきっぱり言った。/『……かたじけない。』/と私は言った。」
事態が言葉の軽さについていけなくなる重さをもってしまったとき、深みのある気持ちを伝えたくなるようなとき、ひらりと身をかわして文体を変える。
困惑している自分を客観化してユーモラスな自己像を提示する。問題に真正面から向かわない。搦め手から攻めていく。軽快なフットワークを感じさせる。ただし、これは、現代の日本語の問題ではなく、今の若者の思考法の特徴であろう。
※「有鄰」442号本紙では4ページに掲載されています。
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