Web版 有鄰 第489号 横浜開港150年・有隣堂創業100年「横浜を築いた建築家たち」(2)ブラントン(1841‐1901)

第489号に含まれる記事 平成20年8月10日発行

横浜開港150年・有隣堂創業100年
横浜を築いた建築家たち(2)

ブラントン Richard Henry Brunton (1841‐1901)
――明治初期のマルチタレント・エンジニア

吉田鋼市

yoshidabashi

吉田橋「ファー・イースト」(1871年2月)から
横浜開港資料館蔵

英国スコットランド出身のいわゆるお雇い外国人の土木技術者で、年号が明治に変わる1ヶ月前の慶応4年8月から明治9年3月までの8年に満たない在日期間に、信じられないほど多くのしかも多様な仕事をなしとげている。途中1年の休暇帰国をはさんでいるから、実働期間は7年弱。

その間に、日本各地の海岸沿いに26もの灯台をつくり、多くの浮標(ブイ)と灯竿(港の位置を示す灯火をいただく竿柱)を設けた。「日本の灯台の父」とされる所以である。

灯台設置が主たる任務だったが、そのほかにも日本のいくつかの土地の測量や、港湾の拡充計画をつくっている。現在、再開発の対象となっている横浜の北仲地区に灯明台役所(後に灯台寮)を設け、そこに官舎をつくって住んだから、横浜が根拠地であり、横浜の都市計画にも大きく関わっている。

すなわち関内地区の正確な実測から始まって、港の拡充計画、下水道の敷設、日本大通りと横浜公園の計画、電信設備の建設、「かねの橋」とも呼ばれた日本で最初のトラス鉄橋たる吉田橋の架橋(明治2年)、はては鉄道建設の進言にまでおよんでいる。まさに八面六臂の鬼神のごとき大活躍であり、「横浜のまちづくりの父」の名に恥じない。

くわえて、日本各地に灯台をつくり機能させるため、日本人の灯台の技術者や保守要員を養成するための学校もつくっている。その学校が母体になって後の工部大学校となるから、日本の近代工学教育機関のはるかな淵源をつくったことにもなる。

異郷で一旗といったタイプとは全然異なり、英国でまっとうな教育と必要な訓練を受けて、妻と娘を伴って来日している。その時、わずかに26歳であるが、日本の近代化に大きく貢献した。当時の英国技術者の底力を見るべきであろう。

下田の神子元[みこもと]島、銚子の犬吠崎など、彼がつくった灯台がほぼそのまま残る例はいくつかあるが、横浜には彼の偉業をしのべる遺構は残念ながらない。しかし昭和53年に吉田橋の欄干が、高速道路となったかつての川にかかる橋の両側に復元されている。また平成4年、彼の生誕150年を記念して、その吉田橋のたもとに2つの記念銘板が建てられ、横浜公園には胸像が設置された。同時に、彼を顕彰する展覧会が横浜開港資料館で開かれており、その図録は完璧に彼の事績を伝えている。

吉田鋼市 (よしだ こういち)

横浜国立大学大学院教授。

※「有鄰」489号本紙では4ページに掲載されています。

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