Web版 有鄰 第492号 横浜開港150年・有隣堂創業100年「横浜を築いた建築家たち」(5)妻木頼黄(1859-1916)
横浜開港150年・有隣堂創業100年
横浜を築いた建築家たち(5)
妻木頼黄[つまきよりなか](1859-1916)
――横浜に大きな足跡を残した明治建築界の巨頭
吉田鋼市
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- 横浜正金銀行本店
(現神奈川県立歴史博物館)
神奈川県立歴史博物館蔵
日本近代の最初期の建築家たちは、コンドルが教えた工部大学校造家学科から育っていったが、その最初期に、目立った働きをした3人の建築家がいる。しばしば明治建築界の三巨頭とも称される辰野金吾、片山東熊、そしてこの妻木頼黄である。辰野と片山はまさしく工部大学校の第1期生だが、妻木は6期生に相当するから、彼らより5歳ほど年下である。しかも工部大学校を中退してアメリカのコーネル大学を卒業している。にもかかわらず三巨頭の1人に数えられるのは、彼が明治期の官庁営繕を牛耳ったからである。つまり、明治期の国の施設の多くを設計して建て、そのために必要な後継者と中堅技術者を育て、当初は未熟だった施工業者をも鍛えたということである。明治最初期の人材にはいわゆる西南雄藩の出身者が多い。建築界も例外ではないようだが、妻木は旗本の子息であった。このことも、工部大学校中退や、日清戦争時に広島に置かれた仮議院をわずか2週間で建てたという彼の血気盛んな行動力の遠因になっているかもしれない。
辰野は横浜地方裁判所(明治23年)を、片山は神奈川県警察部庁舎(明治45年)と神奈川県庁舎(大正2年)を設計している。いずれも横浜の近代建築史上に重要な建物ではあるが、どれも現存しないし、2人の横浜との関わりもこれだけである。それに対して、妻木と横浜の関わりは深い。まず横浜税関監視部(明治27年)から始まり、個人的な仕事もいくつかあるが、彼が率いた組織の仕事を加えると多数にのぼる。
現存のものをあげると、新港埠頭の2棟の赤レンガ倉庫(明治44年と大正2年)と横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館、明治37年)という横浜に欠かせないモニュメントがある。しかも、この2つは現存する彼の代表作でもある。
それから、いまは山手のカトリック横浜司教館となっている建物は、もともと明治43年に妻木の設計で建てられた相馬永胤(横浜正金銀行頭取)の東京の屋敷の一部を昭和12年に移築したものである。
また、建築ではないが掃部山公園にある井伊直弼像の台座も彼の設計になるものである。同じく建築ではないが、上を通る高速道路の撤去案で注目されだした東京の日本橋の親柱も彼の設計になるものである。
※「有鄰」492号本紙では4ページに掲載されています。
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