Web版 有鄰 第499号 横浜開港150年・有隣堂創業100年「横浜を築いた建築家たち」(12)川崎鉄三

第499号に含まれる記事 平成21年6月10日発行

横浜開港150年・有隣堂創業100年
横浜を築いた建築家たち(12)

川崎鉄三(?−1932?)
――昭和初期のハマに一瞬輝いたモダニズムの光芒

吉田鋼市

ジャパンエキスプレスビル

ジャパンエキスプレスビル

川崎鉄三は、昭和初期の横浜に珠玉のようなモダニズムの建物を残して去った建築家である。横浜における活動はほんの数年間であり、その作品も7つしか知られていないが、そのうち3つが現存しており、いまも驚くべき斬新さを示している。彼の重要性については堀勇良氏が早くから指摘され、その経歴もかなり明らかにされたが、彼の確かな生没年はいまだに不明。明治45年に東京高等工業学校(現東京工業大学)建築科の選科を修了しているが、当時の東京高等工業学校一覧の卒業者名の彼の欄には「石平」(本籍の府県と族籍のこと)としてあるから、石川県の出身であろう。亡くなったのは、東京高工同期の卒業生の随筆内容からすると昭和7年と推察され、昭和6年以降は日本建築学会会員名簿からも消える。普通に20歳前半で学校を出ているとすれば、40半ばに達しない若さで亡くなったことになる。

東京高工修了後、台湾など海外での勤務の後、大正8年から13年まで福井県庁に勤めている。その後、短期間東京で仕事をし、大正14年の若尾幾太郎商店のビル新築の設計とともに横浜にやって来て、本町工務所主を名乗っている。これは若尾商店の建築部のような存在であったらしく、事務所も若尾ビル内にあった。若尾幾太郎(1884−1938)の父親幾造は甲斐出身の生糸王若尾逸平の弟である。この若尾ビルが川崎鉄三の横浜デビュー作であるが、現存しない。しかし、壁や柱頭部分のオリジナルの装飾が、本町三丁目交差点の跡地に建てられた新しいビルに用いられている。

先述の3つの現存作品というのは、ジャパンエキスプレスビル(昭和5年)、インペリアルビル(昭和5年)、昭和ビル(昭和6年、当初はカストム・ブローカー・ビルという双子のビルだったが、キッコーマンビルとして使われていた片割れは平成12年に解体)である。最初の2つは横浜におけるモダニズム建築の最先端。特に後者のガラス張りのファサードは1階部分に少し改造があるもののまことに清新。そして、昭和ビルから横浜海洋会館、横浜貿易協会ビル、ジャパンエキスプレスビルへと続く一連のすべてのビルの設計か施工監理に川崎が関与していると見られ(海洋会館は確実ではない)、この日本大通りの先端から大桟橋へと至る一画の建物群は川崎鉄三の輝けるモニュメントなのである。

吉田鋼市 (よしだ こういち)

横浜国立大学大学院教授。

※「有鄰」499号本紙では4ページに掲載されています。

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