Web版 有鄰 第534号 つくり手が語る日本のウイスキー/嶋谷幸雄
第534号に含まれる記事 平成26年9月10日発行
つくり手が語る日本のウイスキー – 2面
嶋谷幸雄
鳥井信治郎・竹鶴政孝が挑んだ国産化
酒は種類によっておいしさ、魅力を異にするが、ウイスキーの魅力とは何だろうか。つくり手の私から云えば、その香味の奥深さとハーモニーである。大地と水を選び、酵母による豊かな発酵と丹念な蒸溜によって生み出され、樽に入って大自然の中で長期にわたって育てられる。さらに多彩な原酒がブレンドされる。ウイスキー程、人手と年月を要する酒は少ない。長い熟成期間を経た優れたウイスキーは単に嗅覚や味覚に快く響くだけでなく、人の感性に入って心底を揺るがす迫力をもっていると私は思っている。
世界には広く認知された5大ウイスキー産地がある。スコットランド、アイルランド、アメリカ、カナダ、日本であり、つくり(製造)と香味に特徴があるが日本のウイスキーづくりはスコッチに準じている。
文明開化が叫ばれていた明治期は、ワイン事業に官公の支援もあって挑戦者が多かった。しかし、ワインづくりはブドウ栽培も含めて難しく、特にドライ(辛口)ワインは日本人の食生活になじまず頓挫した。代って日本人の味覚と健康イメージに合った独自の甘味ワインが登場してきた。ビールはその苦味も次第に日本人に受け容れられるようになり、事業化に挑戦する者が輩出し明治中期には現在の大企業に繋がる礎が出来上がった。
これらに対し明治、大正期のウイスキー消費は少量の輸入品に限られ、国産品は合成品に留まっていた、なぜウイスキーの国産化が大幅に遅れたのか。世界の産地は限られており、つくりの情報は皆無であった。そして長い貯蔵期間を要して資金投入の不安も大きく、つくりにとりかかったとしても、どのような品質のウイスキーが生まれ育ってくるかは数年間全く予想もつかない。ウイスキーづくりに挑戦する企業家が現れなかったのは当然といえるだろう。
大正末期にこのウイスキー事業の難題に挑戦する企業家が登場する。寿屋(現サントリー)の創業者鳥井信治郎(1879-1962)である。
13歳で洋酒も扱う薬種問屋に奉公に入り、洋風物に接してその香味を嗅ぎ分ける能力を磨いた。彼は元来優れた感覚、香味の官能評価力をもっていたといわれている。
1899年に独立し大阪市でワインの製造販売を始めた。8年後には類まれなブレンド技術を生かし、赤玉ポートワイン(現在の赤玉スイートワイン)を発売した。これがよく売れ販路も関西から関東に拡大した。赤玉ポートワインで成功を収め、樽熟成の神秘に魅せられた鳥井は洋酒とりわけウイスキーづくりへの挑戦心に火をつけられたのであろう。「わしがやったらやれる。やってみたい」という強い企業家意欲が動かし難いものになっていた。
しかし蒸溜所の設計、建設、稼動の具体的な情報や経験者はなく外部(最初はスコットランド)に求めた。ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝(1894-1979)はウイスキー製造を考えていた摂津酒造の社命を受けて1918年スコットランドに渡りウイスキーづくりを学び克明な記録を書いた。しかし摂津酒造はウイスキーづくりを断念しており、スコットランド人の妻を伴って帰国した竹鶴は摂津酒造を退社した。
鳥井は日本で唯一ウイスキーづくりを学んだ竹鶴を破格の高給で、山崎(大阪府三島郡島本町)での蒸溜所建設に招き入れた。鳥井が大阪税務監督局長へ出した製造申請書には、「…スコッチの輸入を防止し得るのみならず進んでこれを海外に輸出し得るに至るべしと信じ候」という壮大な心意気が示されている。竹鶴が計画した仕込、発酵、蒸溜の方法や物質収支は今見ても不合理な所はない。
1924年につくり始め、貯蔵したモルト原酒(大麦麦芽100%のウイスキー)は1929年に「サントリー白札」として発売された。国産第1号である。しかしこれは全く不評で売れなかった。いろいろ理由があげられるが、私の推論はウイスキーづくりはいかに詳しく学んだとしても現場化はそれ程容易ではなく、数多くの工程の不安定や酵母の種類や健全性、熟成の進行等々、難題だらけだったろう。舶来崇拝の風潮も不評の理由の一つであろう。
街中にバーが林立、高嶺の花からサラリーマンの日常に
日本のウイスキーづくり苦難の歴史はここから始まったといってよい。売れなくてもつくりと貯蔵を続けなければならない。資金不足でいくつかの事業を手放したが、現場は各工程を見直し改良し、鳥井はウイスキー製品化で最も大切なブレンド技術を磨き続けた。また竹鶴政孝が退社後、1937年に12年ものの「角瓶」を発売し、これが好評をもって世に受け容れられた。この「角瓶」が日本のウイスキー発展の原点といえるだろう。
第二次大戦中ウイスキーは出回らなかったが、ウイスキーづくりは続けられた。厳しい環境下でも現場は品質向上に努め、樽用シェリー酒の醸造、トウモロコシなどを原料にしたグレーンウイスキーの製造、日本産の樽材調達等を進めた。そして最も幸いしたのは原酒貯蔵庫が戦火に焼かれず戦後にもちこされたことである。
戦後の日本のウイスキーは駐留軍向けが始まりであったが、1950年以降のウイスキー市場は地殻変動ともいえる急成長をした。これは市民にとって高嶺の花であったウイスキーと飲み場のバーをサラリーマンの日常のものとした企業の戦略、戦術が貢献したものである。街中にトリスバー、サントリーバー、ニッカバー等が林立した。飲み方もハイボールから日本独自の水割りの一般化、高級酒への移行さらに和食市場にも入った。原酒の需要は急拡大し、つくり手は蒸溜所の増設を続けた。そしてサントリーはモルト原酒の品質を基本から見直そうと山崎にウイスキー研究所を設立した(1966)。次いで第2の蒸溜所を白州(山梨県北杜市)に建設し、さらに増設した。
この時期他社の増設、新設も相次いだ。ウイスキー市場は1980年代半ばまで伸び年間40万キロリットルの消費は世界2位であった。
しかしウイスキーの酒税が相対的に高かったことやワイン、焼酎等の隆盛でウイスキーの消費は急速に低下し最盛期の20%程度まで落ち込んだ。
日本の自然と日本人の感性の高さが育てたウイスキー
この深刻な問題に対して私達つくり手は復活というより創造を目標に原点に返って取り組むことにし、特に原酒の品質向上を重点においた。2代目マスターブレンダーであった佐治敬三社長(当時)のウイスキー品質にかける執念は強烈であり、元来化学者であっただけに指摘は鋭く具体的であった。我々は社長と直接どれ程議論したか数知れない。
木桶発酵、上面発酵酵母の併用と乳酸菌の共棲、蒸溜釜の形の多様化と直火加熱、樽材調達へのこだわり等々、品質に関連すると考えられるあらゆる点について、関連部署がプロジェクトを組んで対応した。この間の研究開発報告書は何百にもなる。白州蒸溜所の増設(1981年)から山崎蒸溜所の大改修(1989年)によって効果が現出してきた。大幅な品質の向上とスコッチにはない一蒸溜所で複数の原酒をつくり分ける技も身につけた。また新設や増設にあたって、自然環境や水源を大切にすることに特別の配慮を行った。匠の技をもつ優れたブレンダー達がこれらの原酒を駆使して日本のウイスキー製品を世に問うた。
スコッチシングルモルト(一つの蒸溜所だけのモルトウイスキー)の人気が高まる中で、日本のウイスキーはここ十年来、世界のコンペティションで最高位を獲り続けている。そして街中で新しいハイボールの飲み方が若者に広がっている。
創業者鳥井信治郎の夢と我々が目指した日本のウイスキーのアイデンティティがいま実現しつつある。日本のウイスキーの特性はしっかりした骨格をもった豊かな香味とハーモニーといえるだろう。
ここで我々が忘れてはならないことは、日本のウイスキーを本当に育て支えたのは、日本の自然と飲み手である日本人の感性の高さであるということである。
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