Web版 有鄰 第535号 横浜じゃん/髙橋秀実

第535号に含まれる記事 平成26年11月10日発行

横浜じゃん – 海辺の創造力

髙橋秀実

私は横浜市中区の生まれである。両親も横浜生まれなので、いわば生粋の「浜っ子」ということになるのだが、普段はそんなことは意識しない。浜っ子は取り立てて郷土意識を持たないともいえるのだが、久しぶりに高校(神奈川県立希望ヶ丘高校)の同級生に会って話をしたりすると、しみじみ俺たちは浜っ子なんだなと感じ入ったりする。

我々は大抵のことを「どっちでもいいじゃん」と思っている。なんか、こう執着がないというか、野心や向上心がないというか。何かを決める時も、こっちはこっちでいろいろあるわけだし、あっちもあっちでいろいろある。どっちにしてもいろいろあるわけだから、どっちでもいいじゃん、という具合に。ポイントは語尾の「じゃん」で、もしこれが「どちらでもよい」となると、それなりに意志が感じられるが、「どっちでもいいじゃん」は投げやりで、意志がないどころか無関心に近い。しかし「どうでもいい」とは違う。「どうでもいい」はどうなっても知らないという結果に対する黙殺を意味しているが、「どっちでもいいじゃん」のほうは、どっちでもそれなりにどうにかなるという楽観が込められているのである。これは「適当」や「いい加減」に似ている。いずれも本来、「ちょうどよい」という意味なのに、いつの間にかちゃらんぽらんなニュアンスを帯びており、人々の顰蹙を買ってしまうのだ。

これではいかん。

と思ったこともある。どっちでもよくない、つまり「これでなくてはいけない」という信念というか信じる道のようなものを持つべきではないかと。そこで高校、大学では柔道部に入って柔の道を志したのだが、柔道は柔よく剛を制す。相手がどこから攻めてきても柔軟に対応すべきで、基本的な心構えはやはり「どっちでもいいじゃん」だった。マルクス主義を学ぼうともしたが、商品には使用価値と交換価値があるという導入部分でその区別に悩んでしまった。食べ物の場合など、どっちなのかと考えるより早く食べないと腐ると思ったのである。そういえば仏教に関心を持ったこともある。世俗の執着を捨てて悟る。修行してそれを目指そうかと。しかし恋人(現在の妻)に「それじゃ、私にも執着しないわけ?」と突っ込まれ、「そういうわけじゃないけど」と答えると「じゃあどういうわけ?」と問い詰められて、「やっぱり間違っているね、仏教」と観念した。強く反論されると、そちらのほうが正しいような気がする。強く反論できるくらいなのだから、おそらく正しいんじゃないかと浜の風を受けるようになびきやすいのも浜っ子の特徴なのかもしれない。こうした生き方でよいのか悪いのかいまだによくわからないが、ともあれここまで生きているので、もうしかたがない。いや、しかたがないじゃん。

(ノンフィクション作家)

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