Web版 有鄰 第573号 里帰りとしてではなく、移住として/早見和真
第573号に含まれる記事 令和3年3月10日発行
里帰りとしてではなく、移住として – 1面
早見和真
青春時代の思い出と横浜
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- 『ザ・ロイヤルファミリー』
新潮社
横浜で生まれ育った。
幼少期は青葉台、小学校は鶴ヶ峰、中学校からあざみ野と市内での引っ越しを繰り返し、高校時代も青葉区にある桐蔭学園の野球部寮で3年間を過ごした。
青春の酸いも甘いも、おおよそのことは横浜で経験したと思う。もちろん、思い入れは強いだろう。
これまでの勝負作(と、周囲が勝手に認定してきた作品)は、結果的にすべて横浜が舞台だった。
高校の野球部時代の体験をベースに書いたデビュー作『ひゃくはち』、横浜で生きた女性死刑囚の半生を綴った『イノセント・デイズ』、そして昨年、山本周五郎賞をいただいた『ザ・ロイヤルファミリー』では、競走馬のオーナーが経営する会社の本社を桜木町に置いた。
さぁ、勝負作を書くぞ、ならば舞台は横浜だ! と考えたことはもちろんないが、なるほど、こうして羅列してみるとやはり横浜には特別な感情を抱いているようだ。
思い出は掃いて捨てるほどある。「関内アカデミー」や「ジャック&ベティ」では山のように映画を観たし、当然、帰りは有隣堂に立ち寄った。『本牧ドール』や『4522敗の記憶』など、買う気のなかった横浜関連の本を買わされてしまった覚えもある。
ジャイアンツファンだが東京ドームより横浜スタジアムの方がしっくり来るし、もっと言えば、一番好きなのは真夏の保土ケ谷球場で観る高校野球だ。
小学生のときは横浜博覧会に胸を躍らせ、三ツ沢競技場で「飛翔」を踊り、最初のデートはドリームランドで、はじめてベイサイドクラブに連れていってもらったときは大人になったと自覚した。好きな道路は第三京浜だし、「わが日の本は島国よ」と、いまだに『横浜市歌』を何も見ずに歌える。
こうした思い出の列挙だけで与えられた原稿用紙を埋めることができそうだ。そしていざこうして思い出を羅列すると、普段は封印している(はずの)自分の横浜愛に気づかされる。他の自治体の出身者も故郷の市町村歌をソラで歌えるものなのか。
高校卒業を最後に、横浜を離れている。大学から小説家を目指してのアルバイト時代、結婚、出産、そして31歳でのデビューまでは東京で過ごした。
伊豆と松山での移住暮らし
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- 『イノセント・デイズ』
新潮文庫
いざデビューしてからは、友人だらけで誘惑の多い環境がどうしてもイヤになり、東京を離れたくて仕方がなくなった。そして、僕は移住を考えるようになる。
新しい居住地に求めたものは「繁華街がないこと」と「知人が一人もいないこと」。日本中に数多ある候補地の中から、なんとなく土地勘のあった伊豆を選択し、蛇口をひねれば温泉が出てくる河津町の元民宿を借りた。
まだ1作しか刊行していないデビュー2年目、妻はそれまでの仕事を辞め、娘は生後半年というタイミングでの移住だった。振り返れば、無謀極まりない。もし後輩の小説家に似たような相談を持ちかけられたら、「早まるな!」「つぶしが利かないぞ!」と必死に止める気がしてならないが、ともあれ僕は早まったし、結果的にこの移住は成功だったと思っている。
とにかく自分に逃げ場を作らず、表にもあまり出なかった。友だちをなるべく作るまいとしてまで自分に課したのは、つまりは覚悟を持つことだった。これで干されたら仕方ないというところまで自分を追い込んで書いてみたかったし、それに近いことができたと思っている。
結局、河津町には6年住んだ。一つの結果として『イノセント・デイズ』を書き上げられたし、生活に不満はまったくなかった。まだこの場所で書くというイメージを持つこともできていたが、しかし僕はもう一度知らない街に腰を据えることを強く望んだ。娘が幼稚園を卒園するタイミングであったことに加え、小説家に与えられた一つの権利は「好きなところに住めることだ」という開き直りも心のどこかにあったと思う。ありがたいことに家族も賛成してくれた。
青春時代を大都市で過ごし、小さな街での暮らしも経験した。それならばと次なる移住先を「地方」の「都市」、さらには「西日本」と狙いを定め、京都、福岡、熊本、岡山などが候補に挙がる中、最終的に愛媛県松山市に居を構えることを決めた。正岡子規を輩出した松山市が「文学」と「野球」の街を標榜していたことが決め手だった。これでまだしばらくは食いっぱぐれることはなさそうだと目論んだ。
松山では伊豆とはまったく違うやり方をしてみたかった。つまり家に籠もらず、可能な限り外に出て、たくさんの人に顔を見せ、友だちを作り、本と映画がほとんどだったインプットの手段をさらに人にまで広げ、地方都市という未知の土地をアウトプットの舞台にしてみたかった。
求められればテレビに出たし、ラジオ番組を持たせてもらった。地元新聞社、地元出身の絵本作家と手を組み、週一で『かなしきデブ猫ちゃん』という童話を連載し、絵本として出版した。
デブ猫“マル”が愛媛県内を旅する物語。「20年後に成人式に出る若者が全員知っている物語」が合い言葉の企画だった。そのイメージにはほど遠いし、もちろん満足もしていないけれど、初版8,000部という大きな数字をほぼ愛媛県内だけで売り切り、さらに数千部の重版をかけたのは関係者全員の大いなる自信になった。
こうしてたくさんの地元の人と関わり、話を聞かせてもらう中で、僕はたくさんの郷土愛を耳にした。四国の美しさ、愛媛の素晴らしさ、松山の良さ……。
中にはあまりにも地元に対して無批判すぎて、品がないと感じることもあったが、たいていは納得がいき、同調したくなるものばかりだった。東京の友人が遊びにくるときなどは、つい自分が愛媛を背負っている気にさせられた。それが……だ。
本当にここ数年、少しずつ僕自身の愛郷心について思いを馳せることが増えてきた。
横浜への思い 感じる魅力
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- 横浜市歌
おそらくは松山での生活を伊豆と同じく、最初から6年と決めていたからだろう。引っ越しのタイミングで小学校に入学した娘が6年生になる。ここでの生活もあと1年。「次はどこに?」と聞かれる機会がここにきて急激に増えてきて、その都度ボンヤリと横浜に思いを馳せる。
そんなことを考えていた矢先、有隣堂からこのコラムの依頼が来た。
本来ならば新作と絡めて書くべきなのだろうが、せっかくなので(普段は隠すようにしている)横浜への思いをむき出しにしてみようと考えた。すると、書きたいことがあふれ出た。『横浜市歌』についてのエピソードだって、この分量程度なら書けそうだ。
それが横浜の魅力かはわからないが、僕自身が横浜を好きな理由についてなら言葉にできる。たしか『イノセント・デイズ』の著者インタビューでも答えたはずだ。
「表面上の1%のイメージが、残りの99%を凌駕している。そんなおもしろい土地はそうはない。田中幸乃という世間一般の目から見た“凶悪犯罪者”の人生を描こうとしたとき、舞台は横浜しか考えられなかった」
現に僕の育った横浜は青葉台だ。鶴ヶ峰であり、あざみ野だ。それなのに、僕が嬉々として語るのは、伊勢佐木町であり、関内であって、みなとみらいで、新山下だ。そんな特異な街にこそ僕は魅力を感じてしまう。
願わくは、次は横浜に移住したい。それも、まだ住んだことのない潮の香りのする横浜に。
でも、それは簡単なことじゃない。松山に引っ越してきた日から、一人娘に「次はお前が住む街を決めたらいい」と言い続けてきたからだ。行きたい学校を選び抜けと。
彼女はどの地方の、どの学校を選び取ってくれるのだろうか。
ひとまず僕は横浜に数多ある学校の魅力を懇々と語って聞かせているが、多感なお年頃である。
いまのところ聞く耳は持ってくれていない。
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