Web版 有鄰 第416号 [座談会]福富太郎−私の絵画コレクション
福富太郎・猿渡紀代子・篠﨑孝子

第416号に含まれる記事 平成14年7月10日発行

[座談会]福富太郎−私の絵画コレクション

キャバレー経営者・絵画収集家/福富太郎
横浜美術館学芸部企画課長/猿渡紀代子
有隣堂会長/篠﨑孝子

左から猿渡紀代子さん・福富太郎氏と篠﨑孝子

左から猿渡紀代子さん・福富太郎氏と篠﨑孝子

<※は福富太郎氏蔵>

はじめに

篠﨑福富太郎様は、約50年にわたり、浮世絵を始め日本画・洋画など、ジャンルを問わず膨大な数の絵画作品を収集されております。今年1月には、ご自身の美術品収集についてつづった2冊目の単行本『描かれた女の謎』(新潮社刊)を出版されました。そこで本日は、収集された絵画について、収集の際のエピソードなどご体験を交えてお話しいただきながら、コレクションの全貌についてお伺いしたいと思います。

福富太郎様は、昭和6年(1931)に東京の大井町でお生まれになり、16歳のときに銀座の喫茶店にお勤めになりました。その後、ダンスホールのバーテン、占領軍のPX関係の仕事、キャバレーのボーイ・支配人などを経て、昭和32年(1957)、26歳で独立されました。昭和39年に銀座8丁目に開店された千坪、ホステス800人の大型キャバレー店は各方面から大変な反響があり“キャバレー太郎”の異名をとられました。

猿渡紀代子様は横浜美術館学芸部企画課長でいらっしゃいます。近代美術史を、幅広く研究しておられます。一昨年、同美術館で開催された展覧会「幕末・明治の横浜展」を企画、同展の担当チーフを務められました。

横浜に住んで、幕末明治期の洋画に興味を持つ

チャールズ・ワーグマン「横浜大火」

チャールズ・ワーグマン「横浜大火」※

猿渡横浜は近代洋画の発祥の地でもあり、ロンドンで発行されていた絵入り週刊新聞「イラストレーテッド・ロンドン・ニュース」の特派員であったチャールズ・ワーグマンや、ショーヤー夫人らが横浜の居留地にいたこと、以前から洋画に関心をいだいていた日本人画家たちとの出会いがあったことなどが美術史の流れとしてあります。

ワーグマンは風刺漫画「ジャパン・パンチ」の作者としても知られていますが、画家でもあり、高橋由一や五姓田義松(ごせだよしまつ)に洋画の手ほどきをしてます。五姓田芳柳・義松親子の周辺には、山本芳翠、平木政次、渡辺文三郎、2世五姓田芳柳などいます。

一昨年、横浜美術館で「幕末・明治の横浜展」を企画して、出品する作品を700点のリストから200点ぐらいに絞り込んだのです。前々から福富さんのコレクションについては存じ上げていましたが、ほかにはないようなものをお持ちなんです。福富さんは、なぜ幕末・明治の横浜に関連したものを集め始められたんですか。

福富横浜に住んでいたことがありましてね。仕事のし過ぎで胃潰瘍で入院し、退院後に横浜に住んだんです。その前は店の椅子に寝て暮らしていたんですけどね。

篠﨑横浜においでになったのはいつごろですか。

福富昭和41年ごろ、山手の港の見える丘公園のすぐそばです。

終戦後には、桜木町で電車を降りて、横浜公園で進駐軍からたばこを買ったことがあるし、野毛も行きました。それで昭和37年ごろに横浜駅西口にキャバレー「横浜ハリウッド」を開店したんです。現在は、ありませんが、ちょうど某カメラ屋さんが入っている所です。僕はキャバレーの店を開店するとき、ビルごと買い取るんです。家賃を払うのがいやだから。

香港のオークションで買ったワーグマンの逸品

猿渡なぜこんなにまでコレクションをされるようになったのですか。

福富僕は五姓田義松が好きだからね。ワーグマンは、家の近所の元町とかを歩いているうちに興味を持つようになった。調べると僕が住んでいた家の近所の「山手102番地」に日本人の妻と一緒に住んでいた。いうなればご近所のよしみみたいなものでもありますね。横浜美術館にお貸しした絵は香港のオークションで買ったんですよ。

猿渡私も本当にびっくりしましたが、まさに横浜大火の場面だとか、生麦事件だとか、今までみたことのないような珍しい水彩画ばかり。

福富最初に、香港でオークションがあって、ある博物館の人がまとめて「ワーグマン展」を開催する前に買われた。その時、僕は悔しくて、1億円やそこらあったら買えたのにと言ったんだ。ところが、それは中国のものがほとんどで、日本の国内が描かれたものだけが抜けていた。

それからずっと後に、今度は日本のものだけのオークションがあるというニュースが入ってきた。バブルだから、「じゃ、これだけで買ってこい」と安い値段を言ったら、「だめだ。そんな値段じゃとても入らない」と言われたけど、「大丈夫だから買ってこい」と言ったら、僕に落ちたんです。

香港での売り立てです。

オリジナルの水彩画が出てきた「生麦事件」

チャールズ・ワーグマン「英国人への襲撃 生麦事件」

チャールズ・ワーグマン「英国人への襲撃 生麦事件」※

猿渡ワーグマンの遺族、あるいはワーグマンの親友の遺族かもしれないんですが、まだイギリスに住んでおられるようで、そのあたりから出るものは、多分本物ですね。こういうものはかなり貴重ですから、一体どういうふうにして出てきたのかなって。

「生麦事件」は、ベアトがワーグマンの水彩画を写した写真版でしか残ってなかった。ところが、その写真版とは背景が違う水彩画が出てきたので、びっくりしたんです。

福富なぜ、いままで世間の目に触れられてこなかったのか。僕の推理では、「イラストレーテッド・ロンドン・ニュース」にワーグマンが描いて送っていたのを本国イギリスでボツにしたんだと思う。このころはイギリスは、アヘン戦争で中国から分捕ったりしていたけど、日本ではトラブルを起こすなという方針になったらしい。生麦事件が起きたときには、議会ではこれは荒立てるな。賠償金さえ取ればいいんだからと。だから「イラストレーテッド・ロンドン・ニュース」には細かく載ってないんでしょうね。

猿渡生麦事件の現場を後から写した写真は、ベアトの写真集の中に載っていましたね。

福富僕は、「イラストレーテッド・ロンドン・ニュース」の原本も随分買ったんですよ。

猿渡英国公使館があった品川の東禅寺を攘夷派の武士(水戸浪士)が襲撃した事件がありますね。福富さんは、「イギリス公使館での幕府役人の野営」という、事件後の警備の人をワーグマンが描いた水彩画もお持ちですね。まさに浪士が乱入したときの図は、ワーグマンが床下に潜って描いたという有名なエピソードがありますね。高橋由一も由一の息子の源吉もそれを模写しています。乱入事件の後どういう様子だったかというのは、まさに「イギリス公使館での幕府役人の野営」の絵でわかるんですよね。

福富ただ、市場では、ワーグマンの贋物と間違えるような絵画がありますね。その作者は、ワーグマンの贋物として描いているんじゃないんですが。

榎本武揚が軍艦に乗って函館に行った時に付いて行ったフランス人がいて、彼が描いたものを見ると、ワーグマンとそっくりだね。それがワーグマンとして通っているものもあるんですよ。

猿渡サインを誰かが勝手に入れたか、あるいはサインがなくても、これはワーグマンですと。

福富ええ。フランス人のブリュネです。仏陸軍砲兵大尉でしたが、幕府の軍事顧問団として来日した。絵画の才能もあったんです。ワーグマンも、全部ワーグマンというと危険ですね。

自分で道が切り拓ける幕末か終戦後の時代が好き

五姓田義松「園田文衛像」

五姓田義松「園田文衛像」※

猿渡福富さんは、幕末・明治の時代の絵画だけでなく動乱の時代そのものがお好きだとか。

福富ええ。今でもタイムマシーンに乗ってどの時代に行くかといったら、終戦後か幕末ですね。物騒な世ではあるだろうけど、自分自身で道を切り拓くことができる。あのころが好きだからね。

幕末に戻れるなら、清河八郎と出会って仲よくしたい。そして、あんまりむちゃをやるなと言ってやる。彼は新撰組をつくった人だから近藤勇の大先輩ですよ。見廻組の佐々木只三郎に暗殺された。

猿渡福富さんの書かれた本を読むと、そのあたりの心情がすごくこもっていますよね。

福富そうなんですよ。いろいろ余計なことまで書きすぎて失敗しちゃうんです。

猿渡さきほど五姓田義松が好きだと言われましたが、義松もすごくいいものを持っておられますね。美術館でもお借りしたんですが、園田孝吉の息子・文衛の肖像画とか。

福富あれは横浜に関係があります。

猿渡園田孝吉が、今の神奈川県立歴史博物館になっている横浜正金銀行の頭取を務めたというのも、福富さんの本で初めて知ったんです。

福富お母さんが鹿鳴館のマネージャーと言われた人です。ダンスとか、西洋式の行儀作法を教えているんです。

猿渡園田銈ですね。山本芳翠が彼女の肖像画を描いていますね。園田親子のそれぞれの肖像画は、義松と芳翠がロンドンで描いたものです。

五姓田芳柳の娘渡辺幽香と渡辺文三郎の墓参りも

猿渡渡辺幽香のことで福富さんのお宅にうかがったとき、谷中の全生庵で幽霊の絵を年に一度だけお披露目するという話を聞かせてくださいましたね。

福富ええ。幕末から明治にかけて活躍した噺家、三遊亭圓朝が、怪談噺のために収集していた幽霊画を公開するんですよ。僕は、幽霊画なども描いている河鍋暁斎の絵を集めているから。

猿渡五姓田芳柳の娘で、義松の妹である渡辺幽香と夫・文三郎のお墓は全生庵にあるんです。それで美術館の同僚と幽霊の絵を見に行ったのですが、知る人ぞ知る幽霊の絵ばかりを集めた展覧会でした。そのときやっと、念願だった渡辺幽香と文三郎のお墓参りができました。

夏の夕方でしたが、お墓の彫った文字は水をかけるとよく読めるというので、同行した2人が一生懸命にお水をかけて、私がその合間に一生懸命写すというのを、蚊に刺されながらやりました。

ご遺族の方も今や余りよく知らない方がいらして、お墓にこういうふうに彫ってありましたよというのを、清書して差し上げたら、すごく喜ばれました。

コレクションの始めは安価な幕末の浮世絵から

篠﨑そもそも、福富さんが絵画のコレクションを始められたきっかけというのは……。

福富これは株と同じで、僕の集めているのは関東大震災の前、東京大空襲の前というのが基本なんです。これは両方の大火災に燃やされて物がないんです。

一番最初は浮世絵から入ったんだけど、浮世絵の世界では、たとえば、僕の好きな新版画の川瀬巴水の絵で言えば、大正12年の前は高くて、12年の後はガタンと下がるんです。なぜかというと、震災前に巴水が描いていたのは、焼けてほとんどない。震災後はまだ出回っているんです。ところが、東京大空襲でまたなくなっているけど、それはしようがない。だから、震災前のは少ないというのに気がついたんです。

篠﨑最初のころは投資だったんですか。

福富それだけじゃないですけど。2部上場の株を買うのと同じですね。昔は鈴木春信はものすごく高かったけど今は安い。僕は春信なんかを見ても別に感激も何もしないんですよ。だから、幕末物ばかり買っていた。

一光斎芳盛「薩摩屋敷焼討之図」

一光斎芳盛「薩摩屋敷焼討之図」※

当時、版画を扱っている商人はみんな戦前派で、その息子たちが僕と同年輩で、息子たちはみんな、これから必ず北斎画とその周辺の幕末物が上がるぞというので、版画は幕末物を集めたんです。そしたら案の定、絵の値段は、今は10分の1ぐらいになって大損しているけど、当時、僕は人気のものを持っていたから逆にもうけました。

有名な浮世絵コレクターだった丹波恒夫氏とも会う

福富そこに行くまでに、いろいろありました。東京オリンピックのときに千坪のキャバレーをやって、お金がうんと入った。それで投資として浮世絵を買っておこうと。東京オリンピック前は、浮世絵がずっと安かったんです。

猿渡肉筆浮世絵ではなくて、浮世絵版画ですよね。

福富そう。そのころ、三原コレクションと言って、戦前・戦後を通じて、1億円程度のコレクションが売りに出たんです。リッカーミシン社長の平木信二さんが、僕が買おうと思っていたのを、全部買ってしまった。そのころ、浮世絵コレクターとして有名な丹波恒夫さんもいました。

猿渡丹波コレクションは現在、神奈川県立歴史博物館が所蔵されていますね。

福富丹波さんとは版画収集のころに随分お会いしました。骨董屋さんに行くと、丹波さんが座っているんです。版画屋がへへーとしていて。まだ博物館に譲る前だけど。丹波さんあたりから見れば、僕の集めているのは末期物と言って、幕末物で大して価値はなかった。

戦前派にはかなわないので肉筆浮世絵に転向

猿渡幕末物の版画の中には、横浜浮世絵なんかも入っていたわけですか。それとも北斎とかですか。

福富横浜浮世絵も持っていますが、北斎とか、もっと時代が降って溪済英泉とか、歌川国芳とか。

猿渡国芳を高く評価されていらっしゃいますね。

福富ええ。でもみんな、「末期物ねえ」なんて言ってばかにするんですよ。「今、幾らで買っているの、あんた」と言うから、5千なら5千でこれだけですと。「そんなに高くなったのか。私は小学生の時から集めているけど、5円だった」とか、5厘とか言われちゃうんだよね。

この人たちに幾ら刃向かっても戦前派でかなわない。よし、この人らを見返してやろうと肉筆浮世絵に転向し、肉筆浮世絵をうんと買った。それで肉筆では一番だというぐらい僕は集めたんです。

篠﨑すごい。

福富それで、浮世絵界に佐野平六という人がいて、僕の店に来て、「ちょっとおたくのを見せてください」と言われて、見せたら、「これは全部にせものです」と言う。そして来なくなった。それで僕もしゃくにさわるから、市でみんな売った。そしたらまたその平六が来た。みんな売ったと言ったら、「何だ、あんた、惜しいことをしたな」と。「あんた、にせものだと言ったじゃないか」と言ったら、「いや、本物も入っていますよ。私が全部売らせてもらおうと思ったのに」と言うから、僕は怒って、「俺から安くして取ろうとしたんだろう。もうこの店に出入りしないでくれ」と。

そのうちこっちは入院し、暇だったから、病室に骨董屋を呼んだりしましたね。

それで、入院していた時、買った肉筆浮世絵が、これがまた全部贋物なんですよ。1回に1億円ずつぐらい損をしていた。あのころは儲かってしようがないから、びくともしなかったけど。

篠﨑すごい金額ですね。

集めた浮世絵がすべて贋物だったことも

福富その後、浮世絵の研究家でリチャード・レインという人が訪ねてきたんです。「あなたの集めている肉筆浮世絵を、全部見せてください。私も見せてあげますから」とトランクを持ってきた。僕にこれは全部贋物ですと言うんだ。佐野平六で1回失敗しているから、僕は怒って、「あんた、日本画なんかあんたにわかるわけないだろう」と言ってしまったことがある。

篠﨑収集していると、思いがけないことがいろいろあるでしょうね。

福富当時、僕はかなり買っていました。宮川長春とか結構古い肉筆浮世絵ですよ。

篠﨑平六さんという方が贋物をつかませる、福富さんの出会った最たる人ですか。

福富ええ。絵に描き込んだり、何でもやるんです。字なんかもすごくうまくて、平六さん、箱書きしてくださいと言うと「はい」ってササッと書く。それで平六が死んで、僕ががっかりして、これで浮世絵もおしまいだな。これ以上集めるわけにいかない。僕は実は目があったけど、目がないからと言ったら、みんなも「そうですね。平六さんに死なれたらもうだめですね」と言っていたが、平六が集めたのは全部贋物だった。

書画・骨董品の収集家、菅原通済氏の影響も

篠﨑若いころに随分ご苦労をされ、キャバレーで財産を築かれるわけでしょう。それで美術品を買おうと思われたのはどうしてですか。

福富損もたくさんしましたけどね。僕は若いころの一時期、鎌倉の菅原通済先生の秘書のようなことをやっていた時期があるんです。菅原さんは日本で最初の自動車専用道路を作ったり、鎌倉山を分譲地にして販売したり、江ノ電の社長さんでもあった。政治にも関わっていて、性病・麻薬・売春の「三悪追放」を訴えたことでも有名です。

その菅原さんが書画や骨董品をかなり収集され、今は常盤山文庫となってます。そんな影響もあると思います。

篠﨑なかでも版画に興味を持たれたのはどうしてですか。

福富実は僕は油絵のほうが好きですが、当時、版画しか手近になかったから。

平六も入れて、浮世絵商がいて、1枚2、3千円で買えるから買ったんだけど、結局は好きじゃない。描いたもののほうが好きですよ。

僕が持っているのは、国芳なら国芳、同じものをほかの人がまた持っているから、比べられるわけだ。福富さんの持っているのは、摺りが悪いとか何とかね。向こうが持っているものは戦前に集めたからみんないいんですよ。丹波さんにはあまりいいものが入りませんとも言われていたらしい。丹波さんのようなあれだけの人でも言われる。

猿渡1点ものだったら、比較されるなんていうことは絶対ないわけですね。

福富ない。それと、版画を集めている人は、肉筆画は贋物が多いから買わない。現に北斎だって、僕は全部贋物だと思っている。本物はほとんどないですよ。

美人画の収集――鏑木清方との出会い

猿渡福富コレクションといえば、やはり鏑木清方をはじめとする美人画に素晴らしいものがたくさんありますよね。清方は、福富さんと横浜美術館との出会いのきっかけであったと思うんですよ。

当館の大塚雄三が、鏑木清方の展覧会(1990年)のときに、福富さんの所にお伺いして作品をお借りしているんです。

福富大塚さんとは、それ以前、尾道の美術館で鏑木清方を中心に展覧会をやっていたときから知りあいでした。当時、尾道に出品されている清方さんの絵を見て、これは粗末に扱っているような感じだけど、なかなかのものを出しているなと。

というのは、すばらしい扇形のものがあったんですよ。これは「いい」と言わないほうがいいぞ。目玉は清方だから、これをうまく安く買い取れば、目を抜いたようなもんだなと思っていたんだけど、後で聞いてみると、ちゃんと大塚さんは知っていたらしいんだ。こっちはわざと触れないで、横尾芳月はいい、なんて他のをほめたりね。

臨時ボーナスで鏑木清方の「祭さじき」を買う

鏑木清方画伯と福富氏(清方邸にて、昭和42~43年頃)

鏑木清方画伯と福富氏(清方邸にて、昭和42~43年頃)
福富太郎氏提供

猿渡清方の絵画を集められたきっかけは。

福富僕が最初に絵画を買ったのは昭和26年、当時キャバレーのボーイから支配人に抜擢された臨時ボーナスで鏑木清方の「祭さじき」という作品を買った。絵画コレクションの始まりですね。

それと、僕の子どものころ、父が清方の絵を持っていて、家の中に飾ったりしていました。だけど東京大空襲で、防空壕の蓋が少しだけ開いていて、中にしまっておいた清方の絵画を焼いてしまったんです。

池田蕉園「宴の暇」

池田蕉園「宴の暇」※

その後、昭和41年ころの入院時、浮世絵の贋物を集めてばかりじゃ切りがないから、今度は清方、池田輝方、池田蕉園、その辺を本格的に集めようと。

その時、医者から「あんたは金、金ってがめついから胃潰瘍になったんだ(笑)。絵でも見て少しのんびりしなさい」と言われたので、骨董屋にたのんで、どんどん病室に持ち込ませた。病院から「うちは骨董屋じゃない」と怒られましたよ(笑)。

だけど、そのとき、清方の贋物をつかんだ。どうもおかしいから、いろいろ考えた末に初めて清方先生のうちに使いをやった。そしたら先生が、「これは真っ赤なにせものです。こんなものを集めちゃいけないから私が全部見てあげましょう」と。若い社員を使いに出したんだけど、清方先生は丁寧に応対してくれた。その時、僕は大家とはこういう人をいうのだろうと、とても嬉しく感じましたね。

収集した清方作品はご本人が全部目を通している

福富僕は清方先生がご存命中に、鎌倉・小町のお宅へ何度もおじゃましたんです。

初めて訪れたのは退院後の昭和42年ころです。人から「清方先生の作品ですよ、ほかにないものです」とか、「贋物ですよ」とか、いろいろいわれているようなものを持って、毎週日曜日のお昼に先生の所へ行くんです。それで直接見てもらって、先生に「これはだめだよ」と言われたら、それはキャンセル。その中でも僕の自慢は「渓水」というサインがあったもの。ある人が、「これは清方です」と僕の所に持ってきた。「おかしいな」と周りの人は言っていたけど、僕はこれは面白いと思って、先生の所に持っていったら「あっ、これは私のです。これは(伊東)深水君なんかに見せれば、贋物と言われるだろう。私がまだ(師事していた)水野年方先生の所に行っているときに、父(戯作者・條野採菊)が私に渓水という名前をつけてくれたんだ」と。それはもう売ったけど、とっておくべきだったね。

だから、僕の持っている清方先生の作品は、清方先生ご本人が全部目を通している。作品を、10本なら10本置いていって、次にまた10本持っていって、前の10本を返してもらう。そこに先生が絵詞といって、その絵にまつわるいわれを全部書いてくれる。「これは私が18ぐらいのときに描いたものだ」とか、奥さんが証人で、「おーい」と呼ぶと奥さんが来て、「見てみろ、おまえ、これは珍しいだろう。金沢にいたときに描いたんだよ」とか。こっちはできるだけそういう絵を集めて持っていくと、それをなつかしみ、「これは戦後描いた絵だな」とか。戦後描かれた絵は少なく、明治に描いたものなんかが多かった。

池田輝方、蕉園の作品収集を断念

福富いまでも残念だと思うのは、中川一政の「監獄の横」や寺内萬治郎の「裸婦」、片多徳郎の絵とか、売ってしまいました。清方はほとんど売ったことはありませんが。

猿渡池田輝方とか蕉園は見る機会がほとんどないですが、マーケットに出ているんですか。

福富出たらみんな買っちゃうけどね。安いんですよ。

猿渡じゃ、ライバルは。

福富いなかったのが、画商に「ライバルが現れました。松岡清次郎という人です」と言われた。お金持ちで自分で買いに行くらしい。いくらで売れたんだと聞くと、えらく高い値段です。それから僕は買わなくなった。松岡さんは骨董や陶器を集めていましたが、絵画にまで手を出してきたんで。彼にはかなわない。

猿渡松岡美術館は2000年に御成門から白金台に移転しましたね。輝方も蕉園も若くして亡くなっているからそんなにたくさん描いてないのでは。

福富あるのはほとんど買いましたから。

猿渡じゃ、骨董屋さんや美術商の人も、これが出てくれば、とにかく福富さんの所に持っていきましょうと。

福富そうそう。あと北野恒富とかね。

妖艶な空気がただよう池田蕉園の日本画

猿渡来年春に横浜美術館で開催予定のフランス人浮世絵師のポール・ジャックレーの展覧会の準備を今やっています。お父さんがフランス語教師として招聘されたため、ポール・ジャックレーは数え年4歳で日本に来ているんですが、10代のころ、この池田輝方、蕉園夫妻に日本画を学んだと言われているんです。それで軽井沢のアトリエについこの間も行ってきて、まさに肉筆浮世絵ばりの日本画が幾つか残っていました。

蕉園と輝方のことは、一般にはあまり知られていないのですが、福富さんの『絵を蒐める』に、2人の恋の行方から全部書いてあって、興味津々でした。かなり妖艶な空気がただよってくる日本画ですね。

福富輝方は蕉園との結婚式の日に逃げていった。輝方は、自分より2回りほど歳が離れた旅絵師に狂ってしまったんですね。僕は輝方を持っていますが、松岡さんはもう一つすごいのを持っていますね。当時、輝方に何百万と出す人はいなかった。

僕が一番高い値段をいうと松岡さんがまたその上の値段で買うんです。

僕は、谷中にある輝方のお墓にもお参りに行っている。

猿渡輝方とか蕉園に魅せられたというのは、水野年方の門下で、清方と兄弟弟子ということもあるんですか。

福富ええ。それと、蕉園は遠藤周作さんの奥様の叔母さんにあたる人だということも聞いたことがある。

浅野セメントの浅野総一郎が蕉園に直接描いてもらっていたらしいんですよ。浅野さんは蕉園を「お嬢」と呼んでいたらしい。「お嬢は金を持っているから、金をやるよりか、ダイヤモンドをあげるやな」と言って、絵を描いてくれると、ダイヤモンドか何かでお礼をしていたらしい。

清方に勝るとも劣らない島成園の美人画

島成園「おんな」

島成園「おんな」※

福富あと僕が好きな美人画家としては島成園ですね。成園は誰も知らなかったのを僕が掘り出したんだ。彼女は銀行マンの奥さんで、北野恒富の弟子なんですよ。

猿渡絵はすごくいいですよね。

福富絵は清方に勝るとも劣らない。

猿渡福富さんの所で拝見した時、一体何なんだろうと。何か放ってくるものがあって、ちょっとどきっとしました。

福富島成園の雰囲気はすごいですよ。それで今、成園が師事した恒富の孫が生きていて、僕の持っている絵を、貸してくれといわれる。展覧会なんかに貸すと、使いの者が行っても返してくれない。僕が取りにいくと、貸したお礼にいろんな話をしてくれるんですよ。

明るいだけの女性には魅力を感じない

猿渡あと油絵の美人画で渡辺(亀高)文子の絵も持っていらっしゃいますよね。

福富あれはどうも贋物だと言う人がいるけど、そうじゃないと思う。

猿渡渡辺文子と言っても多分、今は誰も知らないと思うんです。私がなぜそこに行き当たったかというと、父親が横浜で水彩画をかいていた渡辺豊州です。

渡辺文子はその娘なんですよ。で、渡辺与平という画家と結婚をしたけれど、相手が早逝したので、文子は亀高という船長と再婚し、最晩年まで花の絵を描いています。文子のまとまった展覧会は、戦後移り住んだ西宮市で行われています。福富さんの場合、美人画といっても、目のつけ所が違うような気がします。

福富僕は、薄幸の女性を描いた絵画が特に好きです。「マグダラのマリア」のような。明るいだけの感じの女性にはあまり魅力を感じませんよ。長年キャバレーをやっていて、苦労をしている女性を何人もみていることもあるかもしれない。

一番の美人画を選ぶなら、黒田清輝の「湖畔」

川上冬崖「幕兵調練図」

川上冬崖「幕兵調練図」※

猿渡「幕末・明治の横浜展」のときに、川上冬崖のフランス式の地図を国土地理院から借りて出品しましたが、福富さんの本でもこの地図のことを書いておられますね。

福富そう。冬崖の名前があまり知られていないころ、横浜の山手に住んでいたときに買った絵がある。

猿渡「横浜展」のときにお借りした「幕兵調練図」などですか。

福富ええ。それをみんな贋物だと言うから、冗談じゃない、冬崖の遺族から買ったものを。遺族を連れてくるからと。ところが、今、遺族が行方不明になっていないんですよ。

猿渡時代考証をする先生が、これは確かに幕府の兵隊たちが着ていた服だと証言されていて、画面の下に書いてある英文も、もしかしたら冬崖本人が入れたんじゃないかということまで福富さんは書いていらっしゃいますが。

福富もしかすると冬崖のじゃないということが、最近またわかってきたんですよ。靖国神社に行くと、すごいのがあるんですよ。僕が持っている「楽隊図」という絵と、ほぼ同じ構図ですが、犬がいるのと、いないのとあるんですよ。(笑)

猿渡近藤正純の絵が、靖国神社に入っているんですよね。

福富そう。ほとんど同じポーズの絵が残っている。

猿渡2世芳柳が由緒記を書いている。権田守吉が模写した画帳の中の「楽隊図」のことでしょうか。

福富権田の模写した絵は犬がいるやつ。そうすると、僕が持っている水彩の「楽隊図」も冬崖が描いたとは言い切れないと言うんですよね。

藤田嗣治の楚々とした女性像

猿渡あと、岸田劉生の話も聞きたいですね。

福富劉生も、「麗子像」が出たときは10億までなら買おうとしたけど、とうとう出てこなかったね。7億円現金を積めば探してくるよと、ある画廊に言われたけど、そうやっているうちにバブルがはじけた。そしたら、この間、4億か5億で売りに出たらしいんだ。もう買えなかった。

猿渡藤田嗣治もいいものをお持ちですね。福富さんが所蔵していらっしゃる女性像は、楚々とした日本女性ですね。藤田がああいう着物姿の女性を描くなんて珍しいですよね。

福富美人画のことで原稿執筆依頼がくることがある。だいたいいつも、美人画のことだけ書けと、注文される。その絵のどこに魅力を感じるか、襟足なのか表情なのかとか。そんなものはおたくで書いてくれと。僕は見るよりもモデルに興味があるし、絵にまつわる因縁話は得意で書きます。もし今一番の美人を絵の中から選べというなら、文化財研究所にある黒田清輝の「湖畔」の女の絵ですね。

あの女性は元芸者です。黒田清輝は黒田家へ養子に行って、養子先から、フランスに行って法律を学んで来い、とわれて行ったら、山本芳翠におだて上げられ、絵をやって帰ってくる。そして、あの女性と結婚させてくれと言ったら、養子先が「黒田家があんな者を嫁にもらえるか」と。それで結婚生活ができなかった。それで、50歳か60歳ぐらいになって、養子先の父母が亡くなってやっと、「湖畔」の女性を女房にした。

僕は、一つの絵に対して、知っていることを全部書こうと思うからね。

明治の面影を残す町並みの記憶が心のどこかに

猿渡「横浜展」に際して、どうしても福富コレクションからもお借りしたいものがあって、私たち担当一同が洗足池のお宅にお伺いしたんです。とても情趣あるたたずまいのお宅で、私たちが拝見したいような作品を次から次へと目の前に出されるので、本当に興奮状態で、あのときもう少し冷静になって、よく見ておけばよかったなとか、後になって思いました。

例えば、さきほどのワーグマンにしても今まで見たことのないようなもの、あるいは渡辺幽香の版画集にしても、「あら、ここにあったんですか」というものが次々と出てきて……。

貴重な作品を、かなりの点数福富さんからお借りして、「幕末・明治の横浜展」が充実したといってもいいくらいです。

篠﨑福富さんの美術館開設の構想なども教えていただけますか。

福富結局、一般の人たちに向けた美術館として開館するまでの許可がおりないんですよ。不特定多数の人が入るから、まず6メートル道路に面していないといけない。火災になった場合にね。

建物は6メートル道路に面していますが、ちょっと横道に入っているんです。ところが火災報知器やスプリンクラーで、10億円ぐらいお金がかかる。入場料は600円ぐらいしか取れませんよ。

もし開館したら、ガードマンを雇ったり、たばこ吸われたり、能書きたれられたり、それに作品を持っていかれちゃ困るし、やめたんですよ。

寝ている布団の上に美人画を乗せておく

猿渡洗足池のほとりにお住まいになられているのは、やはり勝海舟ゆかりの地ということですか。

福富ええ。僕は勝海舟が大好きだから。勝海舟は洗足池の風光を気に入っていたからね。それと江戸期には、広重の名所江戸百景に「千束の池袈裟懸松」があり、広く知られてた。僕の名刺の裏にも刷ってある。勝夫妻のお墓や別荘跡も残っている。

猿渡福富さんは、4月の永井荷風の命日に、「つゆのあとさき忌」というのを行われてますね。

福富ええ。僕の小岩のお店で昨年からやってます。荷風が好きだったお酒や、ストリップショー、あと小説「つゆのあとさき」のモデルといわれる「タイガーのお久」など、荷風好みの女性を集めて行うんです。

小岩は、荷風の『断腸亭日乗』などにも描かれていて、ゆかりの地でもあります。

篠﨑福富さんは、女性がお好きだからコレクションが始まったのかと思っていました。

福富そうです。はっきり言うと、女性が好きです。

篠﨑美女を集めたいというのが、始まりなんですか。

福富正直言うとそうですね。僕は自分の寝ている布団の上に、絵を乗せておくんです。そういうことをするからちょっとクレイジーだと言われるんです。

猿渡お宅には時々自分のお好きな絵を飾って楽しんでいらっしゃる。

福富そう。女性の絵や、藤田嗣治の絵もたまに飾る。僕は小学校に上がる前後の頃かつて紅葉山人や梶田半古が住んだり、清方さんが「リアルタイム」で暮らしていた東京の牛込の神楽坂や矢来町の界隈を徘徊していたことがありました。神楽坂に貸家があって、毎月家賃を回収する母について通っていた。

当時、まだ明治の面影を色濃く残す町並みを歩き回ったことが、心のどこかに残っているんでしょうね。だから江戸、明治の時代の作品の良さが理解できるし愛着が強く湧くのだと思う。

篠﨑どうもありがとうございました。

福富太郎(ふくとみ たろう)

1931年東京生れ。
著書『描かれた女の謎』 新潮社 3,200円+税、ほか多数。

猿渡紀代子(さわたり きよこ)

1949年川崎市生れ。
著書『長谷川潔の世界』 有隣堂 (上)(中)2,381円+税、(下)2,300円+税。

※「有鄰」416号本紙では2~4ページに掲載されています。

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