Web版 有鄰 第443号 [座談会]ジャズの街・横浜 ~「モカンボ・セッション」の時代を語る~
五十嵐明要/澤田駿吾/平岡正明/バーリット・セービン/柴田浩一/松信 裕

第443号に含まれる記事 平成16年10月10日発行

[座談会]ジャズの街・横浜
~「モカンボ・セッション」の時代を語る~

アルト・サックス奏者/五十嵐明要
ギタリスト/澤田駿吾
評論家/平岡正明
ジャーナリスト/バーリット・セービン
「横濱JAZZプロムナード」実行委員会チーフ・プロデューサー/柴田浩一
有隣堂社長/松信 裕

右から柴田浩一、平岡正明、澤田駿吾、五十嵐明要、B.セービンの各氏と松信裕

右から柴田浩一、平岡正明、澤田駿吾、五十嵐明要、B.セービンの各氏と松信裕
横浜・野毛「ダウンビート」にて

はじめに

松信世界中で多くの人々に親しまれているジャズは、20世紀初頭にアメリカ南部のニューオリンズで生まれました。日本では、大正時代に初めて横浜でジャズが演奏されて以来、本場アメリカからレコードが輸入され、特に戦後の横浜には米軍が駐留したこともあって関内や伊勢佐木町のクラブでジャズが演奏され、さまざまなセッションを通じて広く日本に浸透していきました。

また横浜では、毎年10月に、日本最大級と言われるジャズ・フェスティバル「横濱JAZZプロムナード」が開催されております。

本日は、中区野毛のジャズ喫茶「ダウンビート」にお集まりいただいて、横浜とジャズとのかかわりの歴史、当時の熱い横浜を語っていただきたいと思います。

ご出席いただきました五十嵐明要様は、アルト・サックス奏者として活躍されております。

澤田駿吾様はギタリストとしてご活躍のかたわら、ルーツ音楽院学院長を務められております。お二方は、昭和20年代後半、多くのすぐれた日本人ジャズ・ミュージシャンを生み出すきっかけとなった伊勢佐木町での「モカンボ・セッション」に参加されました。

平岡正明様は評論家でいらっしゃいます。横浜を拠点として、ジャズ、文学、芸能、映画など、幅広い評論活動を行っていらっしゃいます。

バーリット・セービンさんは、21年間横浜にお住まいのアメリカ人ジャーナリストでいらっしゃいます。小社より『A Historical Guide to Yokohama(ヨコハマ歴史ガイド)』を出版され、その中でジャズと横浜のことについても触れておられます。

柴田浩一様は「横濱JAZZプロムナード」実行委員会のチーフ・プロデューサーを務めておられます。

大正14年に伊勢佐木町でジャズのコンサート

松旭齊天勝一座の広告記事

松旭齊天勝一座の広告記事
「横濱貿易新報」大正14年

柴田大正14年の『横浜貿易新報』(神奈川新聞の前身)に、松旭齊天勝という女性の奇術師が、アメリカに行って帰ってきて、大正14年の7月1日から一週間、伊勢佐木町の喜楽座、オデヲンのちょっと先の、今の日活会館の所で帰朝公演をやるという広告が出ている。そのときアメリカからジャズミュージシャンを連れてきていて、演奏したのが、ガーシュインの「サムバディ・ラヴス・ミー」とか「ライム・ハウス・ブルース」なんです。「サムバディ・ラヴス・ミー」はその1年前(1924年)につくられたものです。それがもう横浜で演奏された。

澤田大正年間ね。すごいですね。

柴田もっとさかのぼること、今から150年前、日米和親条約が結ばれたときに、ペリーが来て軍楽隊が演奏しているんです。だから、日本で初めて西洋音楽に触れたのは、横浜の人たちだったんではないかと思うんです。横浜の音楽文化は歴史がある。

平岡ペリーが来たとき、晴天のへきれきが2つあった。1つは黒船の号砲であり、1つは、彼らが連れてきた楽団、西洋楽器の音量と音質、それを初めて日本人が聴いて、それが相当ショックだった。その影響で生まれたのが、文久2年の「野毛節」らしいという説があります。

ダンスホールやチャブ屋で静かに潜行

昭和初期のチャブ屋の内部

昭和初期のチャブ屋の内部
横浜市史料室提供

柴田それで、ジャズが大正年間にそのまま浸透するのかなと思ったら、ダンスホールに潜っちゃうのね。それでチャブ屋が登場する。当時、今の本牧の山手警察署の裏あたりの十二天の所に、チャブ屋街があった。チャブ屋の建物は1階がダンスホールで、お酒が飲めるようになっている。女性がたくさんいてダンスが踊れる。そこでジャズが静かに潜行するわけだけど、何で表舞台になかなか出れなかったんでしょうね。

平岡昭和10年代から軍国主義になるから、退廃的な音楽というので、大正時代に一度流行しそうになったのが、みんな禁止になった。

柴田新聞にも書いてあるんだけど、ジャズを入れてはいけない、太平洋を渡らせてはいけないって、そんなばかなことを言っている。

澤田でも、大正時代には結構ジャズっぽい音楽が出ていますよね。

柴田大正13年の『横浜貿易新報』に出ているんですが、ポーランド人の声楽家がシアトル経由で横浜港に立ち寄ったらしいんです。当時は外国人の音楽家が珍しくて、新聞記者がきっと飛んで来たんでしょうね。ポーランド人が「あめりか人には音楽の妙味は判りません。彼等にはジャッズ・バンドの面白味しか判りません。――だから一流の音楽家は出ませぬ」と言ったとあります。

長谷川伸の作品にジャズ風の音楽が登場

平岡昭和3年7月に書かれた、長谷川伸の『舶来巾着切』という作品があります。その一番最後の場面なんですが、ノルウェー人の船員たちがいて、足元に楽器がある。話の最後、本船から迎えの舟が来るんです。それに合わせてジャズ風の音楽のエンディングで閉じる。

この芝居の時代設定は、明治29年までなんですね。ですから、大正14年に天勝さんと一緒に来た人たちが演奏する前に、チャブ屋ではもしかするとジャズがあったんじゃないかと思う。

柴田でも、現実的にはジャズじゃないと思う。ジャズ風だったんじゃないかな。

セービンチャブ屋の音楽のことは、谷崎潤一郎も描写していますよね。ピアノがあって、壊れたような音で、毎晩同じ曲が聞こえると。

関東大震災前にグランドホテルでラグタイムを演奏

セービンバーネット・ハーシーというアメリカの新聞記者が大正12年の関東大震災直前の横浜に来まして、彼は、横浜に着いて数時間もしないうちに、グランドホテルでジャズを聴いた。それは今のホテル・ニューグランドではなくて、もっと堀川に近い場所にあった、震災で姿を消したホテルです。

当時、横浜に6つぐらいジャズ団があるんです。彼はそれを本に書いてます。1つはヨーロッパのミュージシャンで、リーダーは元米海軍のバンドマスターで、グランドホテルで「ラグタイム」をやっていた。あとの5つは日本人のバンドです。それでこの記者は、日本人もすごくうまくて、東洋人はすごくものまねが上手だということを物語っていると書いています。

柴田アメリカ人が書いているんだから、信憑性がありますね。きっと実にジャズっぽかったんでしょうね。

セービンそうですね。ただ、私は本牧にあったチャブ屋のキヨ・ホテルの方に話を聞いたのですが、大体レコードだったらしいですね。ピアノもなかった。だから、ジャズと言っても、震災後から戦中まではレコードが多くて、楽器は多分、あってもピアノ程度だった。あとラジオ。

ダンスホールで演奏するためにバンドがつくられる

柴田チャブ屋にはピアノぐらいしかなかった。あるいはレコードだったということになると、ジャズバンドが本格的に表舞台に出るのは、鶴見の花月園ダンスホールとかになるんですかね。

松信花月園のダンスホールは昭和の初めですね。

五十嵐東京だと白木屋とか三越とか、デパートがスポンサーになって、バンドをつくってやっていた。

平岡いずれにしても、きょうの話では大正14年説よりもっと前ということが考えられますね。

澤田アメリカでニューオリンズのジャズが発生したのは、南北戦争の後でしょう。それにしたら、日本に入ってきたのは随分早いですね。

セービン早いですね。入るのはやっぱり船で入ってきますね。

1930年代には浸透していたジャズ

ホテル・ニューグランドでのジャズ演奏 1930年代

ホテル・ニューグランドでのジャズ演奏 1930年代
ホテル・ニューグランド提供

松信みなさんが最初にジャズに触れられたというのは、いつごろだったんですか。

澤田僕が子どものころの印象としては、物心がついたときにすでにジャズを聴いていたんです。うちに手回しの蓄音機があって、後に電気蓄音機になるんだけど、「マイ・ブルー・ヘブン」とかのレコードがあったんです。おやじが好きだったんでしょう。

僕が5つぐらいのときから聴いているということは、1935年ぐらいには日本人の家庭には割合と浸透していたんじゃないですか。エノケンの歌も、ジャズですね。「マイ・ブルー・ヘブン」なんていうのは、その当時歌っているんですね。

五十嵐同じようなことなんですけれど、僕が5つだったから1937、8年ですかね。僕の生まれたところの、隣の隣がカフェだったんですよ。

柴田五十嵐さんはどちらのお生まれなんですか。

五十嵐八丁堀なんですけどね。毎晩、電蓄からレコードが表に聞こえてくるんですよ。それが好きで好きで、そこでかかっていたのは、当時は全然わからなくて、終戦後になってわかったんだけど、「セントルイス・ブルース」とか、それから、タンゴが多かったですね。「ベスタ」、「碧空」や、ジョー・ダニエルスの「フー?」とかが夜な夜なかかっていて、それをずうっと聴いていた。だから、それの影響で多分、ジャズミュージシャンになったんだと思うんですよ。

柴田そのときは、ジャズとかいうジャンル分けはなくて、洋楽でしょう。

五十嵐そうです。洋楽です。カフェだから、聞こえてくる曲の中には、例えば東海林太郎の歌も当然出てくるんです。だけど、わりと洋楽が多かったんです。

それから、近所に国華ダンスホールというのがあった。夏場になると、窓をあけているものだから、そこから音が聞こえてくるんです。昼間は、屋上で楽士がラッパを吹いたりして練習しているのを聞いていたんです。僕が小学校のときですから、1939年か40年ぐらいですかね。

昭和初期に東京や横浜にジャズ喫茶ができる

平岡野毛にある古いジャズ喫茶の「ちぐさ」ができたのは、昭和8年でしょう。

柴田「ちぐさ」の前身はミルクホールなんです。ジャズ喫茶としては、8年のオープンで、横浜では2番目でした。

それより前に、東京にはすでにジャズ喫茶はあったんです。昭和4年に、本郷赤門前に「ブラックバード」が開店しています。

五十嵐ジャズ喫茶というのは戦後になってできたんじゃないんですか。それは知らなかったな。

進駐軍の影響が大きかった戦後のジャズ

松信戦後はやはり、進駐軍の影響は大きかったんでしょうね。特に横浜には大勢の進駐軍が駐留していましたからね。

柴田僕は戦後生まれですけど、戦争に負けて横浜に進駐軍が来た。その辺はよく覚えているんですけど、それがなかったら横浜はもちろん日本にジャズはこれだけ根づかなかったと思います。

横浜駅の東口にトラックが止まっていて、東京に帰るミュージシャンを荷台に乗せて帰ったという話を聞きましたけれど。

澤田進駐軍のクラブの送り迎えは、トラックとかバスでやってくれていたんです。新宿の甲州口と東京駅降車口にミュージシャンが集まっていて、楽器を持って立っていると、そこに進駐軍のバスが着くんです。それで「ミュージシャンであいているのはいないか」と言って、バスに乗せられて、そこでバンドを編成して演奏させられる。仕事が遅くなって電車がなくなったときは、クラブで車を出してくれた。

平岡それは何年ごろですか。

澤田昭和26、7年ごろです。我々は5人で仕事をしていましたけれど、クラブからは8人編成で来てくれとか、オーケストラで来いという注文があるんですよ。そうすると、足りないから甲州口で拾っていこうといって、楽器を持っている人に、「あんたトランペット、来て」と言ってバスに乗せて、車の中でオーケストラをつくった。

セービンジャズらしいです(笑)。コラボレーションですね。バンドそのものの組み方もコラボレーション。

澤田新宿駅の甲州口は甲州街道沿いにずらっと屋台があるんですが、一時は、そのほとんどがミュージシャンの楽器預かりの店でした。飲み屋の棚にドラムセットとかが置いてあるんですよ。帰りには楽器をそこへ預けていく。翌日仕事にありついたら、また楽器を出す。バスがいつも2、30台並んでいて、「追浜のほうに行くよ」とか「厚木だよ」とか。

松信進駐軍のキャンプの施設へ行くんですね。

アーニーパイル劇場のオーディションで出演料が決まる

EMクラブ(不二家ビル) 伊勢佐木町

EMクラブ(不二家ビル) 伊勢佐木町
昭和27年ごろ

柴田当時、キャンプでの出演料はどうでしたか。

五十嵐給料制です。普通よりよかったです。

澤田最初の給料は査定で決まるんです。米軍のアーニーパイル劇場、現在の東京宝塚劇場とかでオーディションをやるんです。そこでABCDというランクをつけられて金額が決まる。例えばAクラスは1時間600円。1ドル360円の当時で約2ドルです。演奏時間で計算してくれて、用紙にマネージャーがサインしてくれる。それを劇場の窓口へ持っていくと支払ってくれる。

五十嵐そこはPDといったよね。

澤田そう。グレードアップするには、またオーディションを受ける。個人ではなくグループ単位です。Aランクをとれば、どこのキャンプに行ってもその値段で稼げた。

キャンプの中には、オフィサーズ・クラブと、サージャント・クラブ、サービス・クラブとかアーミー・クラブとか、3つ必ずありましたね。

セービン海軍の場合はCPOクラブ。

澤田空軍はエアメンズ・クラブとか。大きい体育館みたいな建物でしたね。

セービン横須賀のEMクラブは珍しく基地の外にあって、ずいぶん有名な人がやっていたんですよね。

澤田我々もやりました。あそこは大きいホールと小さいのがありましたね。

平岡EMクラブは日本軍がつくったんですね。最初ホテルだったらしい。

五十嵐結局はネービークラブだった。

澤田取り壊す前にテレビで演奏してくれというので、僕ら最後に演奏したんです。床が抜けちゃっていて、「踏むと危ないよ」とか言いながらステージに上がりました。

日本人のミュージシャンはほとんど軍楽隊出身

平岡どうしてそんなにたくさんの日本人のミュージシャンがいたんでしょうね。

澤田ほとんどみんな軍楽隊出身ですよ。

五十嵐それから戦前からのミュージシャン。でも、まず楽器がなかった。僕なんかも楽器をようやく買って、それからスタートしたんです。

澤田10セントパートと言って、ペンタゴンで出した10セントで買えるオーケストラの譜面があったんです。それは軍隊用の譜面なんですが、実によくできていて、フルのメンバーでも、楽器が減って最後はコンボになっても、ちゃんと演奏ができるようにアレンジができているんです。コーラスパートもあって、兵隊たちも楽しめるようにつくってあるんですよ。

五十嵐それはキャンプで持っていて、サービス・クラブに行くと、いろんな曲の譜面があるわけです。それをすぐ演奏するんです。

澤田どうせ譜面はないんだろう、って配ってくれてね。

五十嵐それが自分たちのレパートリーになっていくわけです。

横浜にいくつもあったジャズのクラブ

「ゼブラ・クラブ」山下町

「ゼブラ・クラブ」山下町
昭和25年 撮影/奥村泰宏

松信当時、一般の横浜のクラブというと「ハーレムクラブ」が有名ですね。

五十嵐僕が覚えているところでは、「ゴールデンドラゴンクラブ」というのがありましたね。

松信どのあたりですか。

五十嵐今の横浜スタジアムのそばです。それから加賀町警察署前に「ゼブラ・クラブ」があった。

澤田それと石川町の「クリフサイド・クラブ」。

平岡クリフサイドは現在もありますね。

澤田それから、火事で焼けちゃったけど、中華街の入り口の「チャイニーズ・クラブ」は大きかった。

五十嵐本牧のほうの「シーサイド・クラブ」。たしかあそこはブルー・コーツがずっと出ていたのかな。

澤田弁天通りの近くに、「ザンジバル」っていうクラブもあった。

当時は珍しかったクラブのネオンサイン

「オリンピック」馬車道

「オリンピック」馬車道
昭和25年 撮影/奥村泰宏

松信「ゼブラ・クラブ」は、その後、大桟橋近くに移転して、私が中学生のころだと思うんですが、夜、自転車で通りかかると、白とブルーの斜めのゼブラのネオンが輝いている。当時ネオンなんて珍しくて、きれいでしたね。ドアが開くと中から音が聞こえてくる。自転車を止めて聞いた覚えがあるんですよ。

柴田伊勢佐木町の手前の吉田橋のそばに「オリンピック」ってあったでしょう。あそこは電飾がチカチカ、チカチカしていて、子供心にきれいだなといつも思っていた。

それから有隣堂の裏に「午後」っていう店があった。大橋巨泉が企画構成をやってたんですよね。

松信昭和34年のプログラムに「有隣堂裏」とあるんですよ。国道16号線に面したところだったらしい。

夜中から朝まで続いた「モカンボ・セッション」の演奏

伊勢佐木町のクラブ「モカンボ」で行われた「モカンボ・セッション」 昭和29年7月27日

伊勢佐木町のクラブ「モカンボ」で行われた「モカンボ・セッション」 昭和29年7月27日
左から澤田駿吾(ギター)、1人おいて渡辺明(アルトサックス)、五十嵐明要(同)ら

柴田昭和29年の「モカンボ・セッション」には、どんないきさつで出るようになったんですか。営業時間が終わった後と聞いてますけれど。

澤田我々はあそこのバンドだったんです。そもそも、僕がリーダーで、交通公社が仕切っていた進駐軍回りをやっていたんですが、「横浜にこういうクラブがあって、進駐軍じゃないけどやってみないか」と言われて、レギュラーのバンドの休みの日に一回僕らが出演したら、社長もマネージャーも気に入って、「このバンドにしよう」と言って、翌月から僕らが入っちゃったんですよ。

柴田社長は植木幸太郎さんという人でしょう。

澤田植木さんです。あの人は横浜銀行の支店長をやりながら、本牧でチャブ屋をやっていた。今じゃ考えられないですよね。(笑)

柴田危ない人だ。でも、いい時代だな。

松信「モカンボ」は伊勢佐木町の2丁目にあったんですね。そのころの伊勢佐木町はどんな感じでしたか。

五十嵐いいところでしたね(笑)。遅くまでやっている根岸屋があって、けっこう遊べたんですよ。

日本ではほぼ初めてのジャム・セッション

柴田じゃ、「モカンボ」がホームグラウンドだったんですか。そうすると、渡辺貞夫さんなんかは。

澤田ビジターです。我々がこういうジャム・セッションをやるから来ないかって誘ったんです。

五十嵐当時、ジャム・セッションというのは余りやっていないんですよ。

澤田日本ではね。皮切りでしょう。

五十嵐もっと前には渋谷に外国人クラブがあって、そこで我々はずっと演奏していて、そこはシビリアン・クラブ、つまり軍属のクラブだったんですが、進駐軍の兵隊さんもよく来ていた。楽器を持ってきたりする人もいて、一緒にまざってよくやった。僕らは勉強になるし、1か月に1遍ぐらい、夜中に集まってセッションをやっていた。

澤田東京のミュージシャンだけじゃなくて、土曜日には横浜あたりからも、進駐軍の中の元ミュージシャンが聞きつけて、来るようになっていたんですよ。

五十嵐そこがだめになって、我々は「モカンボ」に行ったんですが、「モカンボ」でジャム・セッションをやらないかという話が出て、澤田さんが発起人になってやり出した。

澤田お店が終わるのが、11時ちょっと過ぎで、その後12時から朝まで貸してくれと言ったんですが、お店の人たちが、すごく理解があって、「無料で貸すけれども、そのかわり飲み物や食べ物は別だよ」って、ホールはそのまま借りられたんです。バーテンダーなんかも好意的にみんな残ってくれて、おにぎりとか、サンドイッチをつくってくれた。入場料は手売りで300円か、500円か。

五十嵐でも、あれは後に取ったんだよね。最初は無料だった。

澤田あんまり混むようになったので、入場料を取ろうかということになったんですよ。

セッションでも、みんな遠慮してステージに上がってこないから、ハナ肇に仕切らせればいいだろうって、3回目のときに、司会もお金の管理も、全部ハナ肇がやったんです。植木等も手伝いに来ていましたね。その時の演奏が、レコードに残っているわけです。

このモカンボのセッションの後に、ハナちゃんと植木の2人は、フランキー堺のシティ・スリッカーズで腕を磨いて、クレージー・キャッツを結成したんですよ。

柴田僕は信じられないんだけど、当時若かったにしてもよく朝までやりましたね、いくら好きだと言っても。

五十嵐それは別に全然不思議じゃないですね。ものすごく楽しくて平気だったんですよ。

本物のジャズを見せたいという反発心がきっかけ

平岡このレコードで、五十嵐さんが出ていらっしゃる「パーディド」なんて、すごくエネルギッシュですね。

五十嵐1曲が30分なんて、そのぐらい平気で吹いていました。

柴田編曲の譜面なんかはどうしたんですか。

澤田ジャム・セッションは譜面なんかないんですよ。みんな覚えているんです。

テーマは一緒にやって、あとはアドリブで、好きなだけ何コーラスでもやる。

平岡ピアノの守安祥太郎さんが最後に弾いて、そろそろ曲を締めようかという感じで、もう1回頭が出ておしまいになる。

ほんとに400メートルリレーの競走みたいで、五十嵐さん、渡辺貞夫さんを含めた4人のアルト・サックス奏者が次々にバトンを受け渡すように回していく。これがすごく楽しいんだ。

澤田ジャム・セッションをやろうと言ったのは、そのころ、有楽町の日劇とか大きいところでは、大衆受けする音楽ばっかりやっているわけです。当時のはやり歌、「テネシーワルツ」とか、そういう曲。

我々は若いから反発心もあって、そんなのはジャズじゃないんだ。本物のジャズはこういうものなんだということを見せてやろうじゃないかというのが発端だったんですよ。

だんだんアドリブをやる機会が減るし、お店でアドリブで延々とやると、嫌われて首になっちゃうから、どうしても発散する場が欲しかったんですね。

すると、みんな我も我もと来るわけですよ。アドリブの勉強にもなるし、周りのプレイヤーたちの情勢がわかる。こいつは新しいことをやっているなとか、自分ももっとエッセンスを吸収してやらなくてはいかん、とか、すごく刺激になった。

柴田すばらしいですね。

キャンプから来る進駐軍のミュージシャンと共演

ハンプトン・ホース(ピアノ)と松本英彦(テナー・サックス)

ハンプトン・ホース(ピアノ)と松本英彦(テナー・サックス)
昭和28年 クラブ「マキシム」(東京日本橋) ちぐさ提供

松信進駐軍の人たちも来たりしていたんですか。

澤田米軍の中でハンプトン・ホースという有名なピアニストとか、そういう人たちが厚木のキャンプや横須賀あたりからも横浜に来るから、外国人でも「モカンボ」に遊びに来てくれたりする人もいたんです。日本人相手だけど、外国人がちらほら入っているという店でした。

横浜というのはやっぱりジャズの雰囲気なんですね。我々には肌で感じるものがありましたね。

松信聴きに来て、一緒に演奏したりもしたんですね。

着物を着てピアノを弾いていた秋吉敏子

松信セービンさんは、ハンプトン・ホースのことも書いていらっしゃいますね。

セービンハンプトン・ホースは常にキャッシュとヘロインの問題があって、ヘロインが欲しくて東京の基地から横浜に来ていた。ある晩、伊勢佐木町あたりをうろうろしているときに、彼の話によると、一番格好いい、おしゃれな町の女、売春婦に声をかけられて、「俺は音楽家だ」というと、「ハーレムクラブ」に連れて行かれた。そこでは若くて小柄で着物を着た女性がピアノを弾いていた。この着物の女性が、ニューヨークのビ・バップのアーチストに匹敵するぐらいにものすごくうまかったので、ハンプトン・ホースはとても驚いたというんです。それは秋吉敏子だったんですね。後で友だちになった。

澤田さんは、ハンプトンと一緒に演奏しましたか。

澤田しょっちゅう。僕は随分お金を貸したよ。(笑)

レコードも一緒に出しましたけれど、非常に柔和で、ほんわかした人なんです。物事にこだわらないし、演奏も気取らない。「ウマさん」と呼ばれていて、「ウマさん、ちょっとやってよ」と言うと、お客のリクエストで「ビギン・ザ・ビギン」なんかもすぐやってくれるような、きさくな人でした。それから、守安祥太郎のピアノと丁々発止でやるのが好きだった。

五十嵐やっぱり影響があったんだろうね。

澤田守安がピアノを弾いているのをハンプトンが見ていて、ハンプトンがやると守安が見ていて、かわるがわる弾きあう。お互いにいいところを出していた。

セービン相性がよかったんですね。

澤田ハンプトンは、最初会ったときはサージャントくらいの階級だったけれど、何度も問題を起こしては「モカンボ」にMPが来て連れて行っちゃうんですよ。それで裁判で刑をくらって、1か月ぐらい刑務所に入れられて戻ってくる。そのたびに降格で、最後には一等兵になっちゃった。

ずば抜けていた守安祥太郎のピアノ

守安祥太郎

守安祥太郎

柴田守安祥太郎さんって、そんなにレベルが高かったんですか。

澤田高いです。当時、日本人でずば抜けていた。

五十嵐今聴いても、あれだけエキサイティングなピアニストって、日本にはいないと思う。びっくりする。

あの人は別に音楽学校を出ているわけじゃないのね。

澤田そう。子供のときにクラシックはやっていたらしいんだけども、突如ジャズに目覚めて、レッド・ハット・ボーイズに入ってデビューしたんです。

五十嵐もともと非常に音楽的素養があったことと、それから自分で向こうのジャズを聴いて勉強した。後で考えると、要するに、ものすごく的確な目と耳を持っていたんでしょうね。

澤田彼はレコードを聴いて写譜するんですよ。フルオーケストラで使う細かい五線紙に、虫眼鏡で見るような小さな字で書いて。

五十嵐音を全部コピーするわけなんです。

澤田守安祥太郎を、我々がやっていたダブル・ビーツというバンドに招聘したときは、我々の給料をみんな1万円ずつダウンして、それで守安にあげたんですよ。守安はその当時7万円ぐらいの給料だったので、我々は5万円だったのを4万円ぐらいに下げて、それを彼の給料に上乗せして、それで呼んだわけなんです。

柴田それはすごい。一緒にやりたいがために。

平岡いい話ですね。

小さなオルガンで教えてくれたモダンジャズ

五十嵐明要氏

五十嵐明要氏

澤田それで彼が来たおかげで、それまで我々は白人っぽい音楽をやっていたんだけれど、途端に、黒人系の感じになって、バド・パウエルとか、チャーリー・パーカーとかいうふうな感じになっちゃいましたけどね。

柴田白人系というのは誰ですか。

澤田デイブ・ブルーベックとかを追求していたのが、180度転換して、これは大変なことだ。これがほんとのジャズだみたいな気持ちになっちゃって、守安祥太郎の影響を受けて、急にいろいろな勉強をした。

彼は僕のうちにしょっちゅう来て泊まって、みんなで酒を飲んだりしていたんだけど、幼稚園の教室に置いてあるような、うちのちっちゃなオルガンを弾いて、ベースラインを滝本達郎に教えるとか、僕には、コードの和音の積み重ねを教えてくれたり、モダンジャズはこうなんだよということを一生懸命に教えてくれたんです。それで随分勉強になりました。だから、僕がギター弾きとして人より先んじられたのは、守安祥太郎のおかげなんです。教えを請うたから。

五十嵐守安さんは、「貞夫には秋吉敏子さんがついている。もう一人ターゲットとしてトシ坊(五十嵐氏)を何とかしてあげたいから」と言ってくれていた。僕と貞夫と両方を育てようという意欲というか、そういう気持ちがあってやってくれたんです。すごくありがたかったですね。

松信秋吉さんは渡辺貞夫と同じグループだったんですね。

澤田それに対抗する意味で、こちらではトシ坊をスターにしてのし上げて、向こうと競い合おうというわけです。我々は守安さんがきた途端に、売れて仕事がすごくふえましたよ。どこへ行っても気に入られた。

柴田じゃあ、守安さんが亡くなられたことはショックだったでしょう。

五十嵐それはショックでしたね。

澤田彼は20代前半からジャズを始めて、31歳の若さで亡くなってしまったんですよ。

「ジャズ人生で横浜が一番大きなウェートを」

澤田駿吾氏

澤田駿吾氏

松信ジャズマンにとって横浜というのはどんな場所なんでしょうか。

澤田僕は自分のジャズ人生の中で、「モカンボ」で演奏しているときが長かったせいも、もちろんありますけれど、横浜が一番大きなウエートを占めているというか、印象に残る時代なんですね。

その前に府中でやっていた時代があって、NCOクラブというところで、守安祥太郎とのつきあいが始まったんですけれどもね。だけど、東京ではいろんなところで演奏していて、専属として入ったのは横浜の「モカンボ」しかないんですよ。

しかも、そこがまた一番勉強になったような気もしているんです。ハンプトン・ホースなんかもそうですし、いろんなミュージシャンが来てくれた。守安祥太郎と、じっくり4つに組んで勉強ができたのも横浜だし、彼は死ぬ間際まで横浜でやっていましたから、やっぱり横浜でやっていた時代というのは僕にとって特別で、大きかったなという気がしますね。

12回目を迎えた「横濱JAZZプロムナード」

「横濱JAZZプロムナード 2003」クイーンズ・パーク

「横濱JAZZプロムナード 2003」
クイーンズ・パーク

松信柴田さん、「横濱JAZZプロムナード」も今年で12回目ですね。

柴田ええ、今年は、10月9日と10日です。こういうジャズの催しはたくさんあるんですけれど、僕は、規模から言うと横浜のが世界一だと思っているんですよ。

今年は、プロミュージシャンが300人以上出演します。アマチュアも入れるといつも1,000人は超えていて、去年が70ステージだったんですよ。今年は、2日間で90ステージです。常連のジョージ川口さんと世良譲さんが亡くなられたので、少し若返りも図ったりして。

プログラムも工夫して、早い時間から夜まで楽しめるようにしていますから、たくさん来ていただきたいですね。ただ残念なのは、いつも「神戸ジャズストリート」とスケジュールが重なっちゃってて五十嵐さんをはじめ出ていただけない方もいるんです。

澤田僕も始まったころ、2回くらいやらせてもらったことがありましたね。また呼んでくださいよ。

柴田ぜひ。若手と一緒に出ていただきたいですね。

この間、中田市長と、JAZZプロムナードをテーマに対談したんですよ。そしたら市長が、「柴田さん、横浜はジャズだよ」って言ってくれたんです。ということで今、追い風なんですよ。

ですから、いろんなところで、横浜とジャズというのをもっと強調してもらいたいんですよ。

松信有隣堂の本店ギャラリーでも、JAZZプロムナードの開催にあわせて、10月7日から12日まで、「JAZZ Meets Art! ジェレミー・スタイグ&徳持耕一郎のジャズ・アート展」を開催します。ジャズをモチーフに、音楽と絵画の新しい出会いをつくり出そうというものです。

これから先、ジャズと横浜を結びつけたイベントは、どんなふうに発展していくんでしょうね。

柴田ゆくゆくは、大きな声で主張しなくても、自然にみんなが、心の中で、ジャズ・イコール・横浜と思っている、という街になってもらいたいなと思っています。

実は、ジャズキャラバンというか、小学校を回って、子供たちにむけてジャズの歴史のレクチャーと演奏をやろうと考えているんです。小学生にジャズの教育をして、正しい横浜人をつくる(笑)。要するにJAZZプロムナードを長続きさせようという計画なんですけどね。

澤田それはすごくいいですよ。ジャズの歴史やいろいろな話を織りまぜながら、ジャズを聴かせたら、みんな興味を持つんじゃないでしょうか。底辺を育てないとだめですよね。

松信ありがとうございました。

五十嵐明要 (いがらし あきとし)

1932年東京生まれ。

澤田駿吾 (さわだ しゅんご)

1930年愛媛県生まれ。

平岡正明 (ひらおか まさあき)

1941年東京生まれ。
著書『ウィ・ウォント・マイルス』 河出書房新社 2,800円+税、
横浜的』 青土社 2,524円+税、ほか多数。

バーリット・セービン (Burritt Sabin)

1953年ニューヨーク市生まれ。
著書『A Historical Guide to Yokohama』 有隣堂 2,500円+税。

柴田浩一 (しばた こういち)

1946年横浜生まれ。

※「有鄰」443号本紙では1~3ページに掲載されています。

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情報紙「有鄰」とは