Web版 有鄰 第453号 野口英世と横浜検疫所 /星 亮一
野口英世と横浜検疫所 – 特集2
星 亮一
偉大な凡人――21歳で医師に
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- 検疫医官補時代の野口英世
(財)野口英世記念会蔵
野口英世が千円札に登場して以来、英世は国民のアイドルとして、ふたたびよみがえった感じがする。
『野口英世の生きかた』(ちくま新書)を書いた関係で、
「英世ってどんな人ですか」
とよく聞かれる。
「そうですね。ずばぬけて頭がいい人。努力家。でも、おかしなところもいっぱいある。まあ偉大な凡人かな」
と答えることにしている。
猪苗代高等小学校時代、英世は郡内で一番の成績だった。
高等小学校というと現在の高校のレベルだった。
「国家に対する国民の義務の要項を述べよ」
「北米の外図を記せ」
「パナマ運河と日本の関係」
といった試験問題が出ていた。相当に勉強しないと、トップの成績はとれない。
東京に出て医者の勉強を始めたのは明治29年9月である。
「志を得ざれば再び此地を踏まず」
と自宅の柱に刻んで東京に出た英世は東京の賑わいに度肝を抜かれた。
会津若松の会陽医院で医師国家試験の勉強をしての上京だった。
前期試験はなんなく突破し、後期試験に備えることになったが、後期試験は独学では無理で、独学で医師を目指す人の予備校的存在の私立済生学舎に入る必要があった。
高山歯科医学院の血脇守之助の援助でここに学んだ英世は、後期試験も突破して、晴れて医師になった。
英世21歳の秋であった。
あこがれの北里柴三郎の伝染病研究所に
英世はすぐに高山歯科医学院の講師に採用された。
つい数ヵ月前までこの学院で鐘を鳴らし、ランプの掃除をしていた英世が教壇に立ったのだから生徒の驚きは大きかった。
英世は背が低く、左手の火傷もあって、臨床医になることはあきらめ、基礎研究の道を進むことを考えた。
そこで順天堂病院の『順天堂医事研究会雑誌』の編集助手に潜り込み、勉強を始めた。月給は2円、薄給なので風呂にも入れず、体は垢でよごれ、髪はのび放題で見苦しく、異臭も放ち、「変人」と陰口を叩かれた。
欲求不満の裏返しだろうか、金が入ると酒をあおり、遊郭に繰り出し、朝帰りした。
仕事がら外国の雑誌や書物を見る機会が多く、次第に細菌学に興味を抱いた。
英世はここから北里柴三郎博士の伝染病研究所に移った。
北里博士はドイツに6年滞在し、世界的な細菌学者コッホに学び、破傷風菌の培養、血清療法などを会得して帰国した人物であり、英世あこがれの人だった。
待遇は見習い格の下級助手だったが、月給は一躍13円と破格なものになった。
明治32年春のことである。
病理学のフレクスナー教授との出会い
伝染病研究所に賓客があった。米国の名門、ジョンズ・ホプキンス大学の病理学教授シモン・フレクスナー教授である。
伝染病研究所も見学したいというので、北里は英語が堪能な英世を帝国ホテルに迎えに出した。博士は英世の通訳で伝染病研究所を見て回ったが、英世は夜の晩餐会からは外され、一人寂しく食事をした。しかし翌日からフレクスナー博士の一行を東京市内の衛生施設に案内する役が再び回ってきた。これは幸運だった。
英世の英語は読解力は十分だったが、会話がブロークンだった。拙い会話だったが医学の専門用語を知っていたので、それが威力を発揮した。
博士の案内の途中、英世は思い切って渡米を切り出した。
「私はぜひ、渡米して御地の優れた医学を研究したいのです。それは私の念願ですが、いかがでしょうか」
英世は身振り手振りで喋った。その英語が十分に通じたか英世は心配だった。しかしそれは取り越し苦労だった。
「それはいい考えです。その節はお力ぞえしましょう」
博士はニッコリ笑った。英世はこれで自分は米国に留学出来ると確信した。
横浜検疫所で外国から入港する船舶を検疫
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- 震災後の横浜(長浜)検疫所細菌検査室
楠山永雄氏蔵
だが英世に思わぬ事件が持ち上がった。
伝染病研究所の図書紛失問題である。
英世に嫌疑がかかるようなことがあっては困ると、北里博士は英世に新しい仕事を与えた。横浜の海港検疫官である。
仕事の内容は外国から横浜に入港する船舶の検疫だった。
海外から帰国した時、税関を通るが植物や動物などは検疫を受ける必要があるのは誰しもが知っている。当時、貨物はもちろん外国旅行はすべて船であり、横浜検疫所は今日考える以上に重要で大規模な業務だった。
日々の仕事は颯爽として格好のいいものだった。
服や帽子も気に入った。
外国船が入ると小型艇に乗って、波を立てながら進む時は、荒天を除いては気持ちがいいものだった。
外国の船員と会話が出来、自分の語学を磨くのにも絶好の機会だった。
給料は月30円以上ももらえた。酒も自由に飲める、服も買えた。
実に快適だった。結婚してのんびり暮らすのも悪くはないと、人並みのことも考えた。
「アメリカ丸」の中国人からペスト菌を発見
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- 旧細菌検査室
長浜野口記念公園(横浜市金沢区)内に保存されている。
そんなおり、英世に幸運が舞い込んだ。
9月上旬のことだった。英世は横浜埠頭に入港した「アメリカ丸」の検疫に当たっていると、船倉で苦しんでいる中国人がいた。診察すると熱があり、鼠蹊腺がはれていた。英世はただちに標本をつくり培養を試みた。
なんとぺスト菌が検出された。日本人として初の発見だった。
報告を受けた内務省も驚嘆した。北里博士も鼻高々だった。
当時、清国の牛荘でペスト病が蔓延していた。各国の領事が集まって組織する国際予防委員会から日本にも医師の派遣要請があった。内務省から派遣要請を受けた北里博士は、迷うことなく英世に白羽の矢を立てた。
「野口君、月給200円だよ」
と博士がいった。しかし英世には多額の借金があり、支度金はたちまちなくなり、血脇夫人が自分の着物を質屋に入れて15円を調達してきて、旅費をつくった。
英世は9ヵ月間、清国にいて、臨床医として訪れる患者の診察に当たった。清国での生活で英世は一段と逞しくなった。英米人を相手に英会話を磨き、さらに中国語も話せるようになり、米国に行っても暮らせる自信がついた。
世界の英世に飛躍する原点は間違いなく横浜だった。
英世は明治33年の6月に帰国し、渡米の準備に入った。
英世24歳、新たな大冒険の旅立ちであった。
英世に見習えばこの世に不可能はない
英世はアメリカで、次々と病原菌を発見し、世界の医聖となる。福島県猪苗代にある英世の生家は、このところ連日、大変な賑わいである。会津観光の中継地点としてここの存在は大きい。外国からの観光客も増えており、台湾、韓国などの団体客がよく訪れる。
英世の魅力はいくつもあるが、私は彼の負けん気と、すざまじい努力、天才的な分析能力、それでいて、どこかユーモラスな部分の、絶妙なバランスだったと思う。
ペンシルべニア大学に取材に行ったとき、大学の関係者は「これほどの努力家は後にも先にも英世をおいてほかにいない」と語った。
つたない英語しかしゃべれなかった英世が、夜も寝ずに毒蛇の研究に取り組み、1年後には5本の論文を書いた。
研究室に泊り込み、24時間、毒蛇をにらみ続けた。あだ名が東洋のモンキーだった。
そんなことを気にする英世ではなかった。
「うーうー」と奇声を発し、死にもの狂いに取り組んだ。
「成功か自殺か」と壁に張り紙もした。自らを鼓舞するためだった。
「英世に見習えばこの世に不可能はない」、私はそう思っている。
それでいて、おかしなところもいっぱいあった。借金の山もそうだが、夫婦の仲もそうだった。妻のメリー・ダージスは強い女性で、夫婦喧嘩をすると英世は投げ飛ばされて、組み敷かれた。これを見た知人は唖然呆然となったが、英世はニコニコしながら照れくさそうに笑うだけだった。案外、後のプロレスごっこが好きだったのかも知れない。
※「有鄰」453号本紙では4ページに掲載されています。
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