Web版 有鄰 第495号 横浜開港150年・有隣堂創業100年「横浜を築いた建築家たち」(8) ジェイ・ハーバート・モーガン (1873−1937)

第495号に含まれる記事 平成21年2月10日発行

横浜開港150年・有隣堂創業100年
横浜を築いた建築家たち(8)

ジェイ・ハーバート・モーガン
Jay Herbert Morgan (1873−1937)
――横浜で最も親しまれている外国人建築家

吉田鋼市

根岸競馬場

根岸競馬場

J・H・モーガンは、大正15年に横浜に設計事務所を開いてから、昭和12年に山手の外国人墓地に眠るまで、横浜に珠玉のような遺産をいくつも残してくれた米国出身の建築家である。旧根岸競馬場(昭和4年〜12年、一等スタンドが現存、二等スタンドは昭和63年解体)、関東学院中学校(昭和4年)、横浜山手聖公会(昭和6年)、ベーリック・ホール(昭和5年)、山手111番館(大正15年、旧ラフィン邸)など、おもな現存作品をあげるだけでその重要性がわかるだろう。

残っている作品の多さとその作品の知名度からして、横浜随一の外国人建築家といってよい。

横浜での活動はわずかに11年間であるが、その間に30前後の設計を行い、うち20は横浜の建物である。横浜以外でも、東京の立教大学4号館、仙台の東北学院大学本館、神戸のチャータードビルがしっかり残っているし、2度の不審火にあった横浜市境に近い藤沢の自邸もある。

彼の作風には、押しつけがましいところや奇矯なところがない。教会や学校には中世風を、銀行には古典風を、そして住宅にはスペイン風をなど、スタイルは当時のオーソドックスな選択を行っている。しかし、どの建物にもなにかしらモーガン自身の作風が刻印されており、クールでありながらも温かく気持ちがよい。多くの彼の建物が、長く使い続けられてきているのもその魅力のゆえであろう。

大正9年に、当時の米国有数の建設会社フラー社の建築家として来日。東京の丸ビルなどの仕事をした後、東京で自営、そして横浜に来た。その横浜での最初の事務所が、旧露亜銀行(現在保存修復中)だったという。その後まもなく、自ら設計した今はなきユニオンビル(後に大沢工業ビル)に移っているが、彼の足跡は横浜の歴史と縁が深い。

来日前にはニューヨークで設計事務所を営んでおり、順風そうな履歴をもつ50歳近い米国人がなぜ横浜にとどまって仕事をしたか、不思議な気もするが、ともあれ立派な働きをした。

横浜の建築史上かけがえのないモーガンではあるが、その正確なフルネームをはじめ米国時代の経歴があまりよくわからなかった。しかし、米国のご遺族からの調査等を盛り込んだ水沼淑子氏の近刊の著書で判明するであろう。ちなみに、タイトルのフルネームは氏のご教示による。

吉田鋼市 (よしだ こういち)

横浜国立大学大学院教授。

※「有鄰」495号本紙では4ページに掲載されています。

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