Web版 有鄰 第564号 台湾、乾杯!/温 又柔
第564号に含まれる記事 令和元年9月10日発行
台湾、乾杯! – 1面
温 又柔
「戦士、乾杯!」に描かれた複雑な台湾社会
日本の元号が平成から令和になって、まだほんの数週間。私は台湾にいた。傘についた雫を払ってから、誠品台大店に入る。数ある誠品書店のうちでも台湾大学の正面に佇む地下1階を含む3階建ての「台大店」が、私は特に好きだった。個性溢れる独立系書店がひしめくこの界隈の雰囲気が、そのまま店内に滲んでいる。
まずは、「文學」のコーナーに立ち寄ってみる。繁体字と呼ばれる、画数の豊富な旧字体の漢字が表紙を飾る文学書の数々を眺めているだけでも楽しい。やがて私の視線は、黄春明という名の前でとまる。彼の作品集の第1巻を棚から抜き出し、目次を探す。6巻目にあたる『等待一朵花的名字』の中にやっと、「戦士、乾杯!」が収録されているのを見つけることができた。
それは、黄自身を思わせる語り手が「“シオン”という名前をもつ少数民族の青年、朴さん」と知り合い、台湾南部の中央山脈にある彼の村の家に連れていってもらうという一篇だ。
山の中にあるシオンの家には、別々の額に入った3枚の人物写真が飾ってあった。それぞれ、シオンの伯父――厳密には母親の前夫――、父親、兄にあたる人物だという。3枚の写真の前で、語り手は言葉を失う。日本軍、共産党軍、国民党軍。写真の中のシオンの3人の親族は、互いに敵対する軍服を身に着けていた。シオンは言う。伯父は日本統治下の台湾で日本兵として太平洋戦争に参加し戦没した。父親は台湾が祖国復帰した直後に大陸に渡り共産兵になったまま消息不明だ。兄貴は、蔣介石率いる国民党軍の兵士として中華民国のために亡くなった。
「写真があって、日本兵、共産兵、それに我が国民党兵が一緒に並んだら、ウーン、そりゃ、賑やかだな」
シオンは事もなげに言った。
「この人たちはみな、あなたの身内だって考えたことありますか?」
私は真剣に訊いた。
「ああ、山地の連中は、みなうちと同じさ」
彼のしゃべり方は、また淡々とした調子に戻った。
「こんな運命に、悲憤を感じないの?」
「悲憤って?」
「悲しくて腹が立つといった……」
そう言うと、彼は考えこんだ。
しばらくたって、私はさらに訊いた。
「悲しくて腹が立ちませんか?」
「誰に対して?」
シオンの祖先たちは、この小説の作者である黄春明や私のような台湾の人口の9割以上を占める漢民族の子孫などよりもはるかに大昔から台湾で暮らしている。そんな「原住民」たちの頭上で、「国」と「国」の思惑が激しくぶつかり合い、その結果、「ひとつの家族、ひとつの共同体の中で、男たちが四世代にわたって」、別々の「国籍」を強要され、「部族を守るため」にも、その「国」の兵士として闘わざるを得ないという状況に陥る……繁体字が連なる頁をぱらぱらとめくるうちに、「戦士、乾杯」の日本語訳をはじめて読んだときの衝撃がまざまざと蘇る。台湾という社会が孕む複雑な亀裂を直視させられたと同時に、このような圧倒的な内容を「僅か400字詰原稿用紙32枚強」という短さの中に凝縮させた、黄春明という作家の技量に私はすっかり打ちのめされたのだった。それは、よい小説を読んだあとの極上の読後感であり、幸福な興奮そのものだった。
誠品を出る頃にはすっかり日が暮れていて、町はあいかわらず雨に煙っていた。風向きのせいか傘を差しても、ほとんど意味がない。けれども霧吹きのように頬にあたる小雨はかえって心地がよかった。台北はつくづく雨が多い。
-
- 台湾大学の正面から等間隔に植えられた椰子の木々
5分後、私は台湾大学の正門前にいた。等間隔に植えられた椰子の木々を見あげる。それらはどれも、ゆうに30メートルは越えていた。何年か前、この大学の卒業生である友人が教えてくれた。
――これらの木々は、日本人が植えました。
自然に生えた木じゃないんだ、と私が驚くと、きっと日本人たちは南国情緒を強調したかったのでしょうね、と友人はいたずらっぽく笑う。台湾人である彼女の流ちょうな日本語を聞きながら、私はふしぎないたたまれなさを味わった。
台湾大学の旧称は「台北帝国大学」。
つまり、台湾で最高学府を誇る大学の前身は大日本帝国が植民地にはじめて建設した国立大学なのである。日本人の植えた椰子の木のもとで、私は傘を閉じる。足元には、いくつもの水たまりができていた。
コクゴ、「國語」、「国語」
コクゴ、と私は呟く。
台湾大学が、台北帝国大学と呼ばれていた頃、ずば抜けた知性を備えながらここの大学に通っていたえり抜きのエリートたちは皆、日本語が堪能だった。いや、逆だ。日本語ができなければ、大学に進学することなど不可能だったのだ。
guo yu と、私はふたたび口にする。
子どものとき、音でしか中国語を知らなかった私は、台湾の大人たちが「中国語」という意味で口にするその言葉が、漢字では「國語」と書くのを知らなかった。
私は、台湾人なら中国語を話せるのがあたりまえなのだと思っていた。しかし、蔣介石がやってくる前の台湾人は「國語」を喋っていなかった。その頃の台湾人にとっての「国語」は日本語だった。
そんな台湾の人たちにとっての、「コクゴ/guo yu」、とは何だろう?
ひょっとしたらそれは、『戦士、乾杯!』のシオンの伯父と父親と兄がまとわされた「軍服」のようなものなのかもしれない。
私は覚えている。
――伯父は國語が通じないからね。
父や母、伯父や叔母たちは、中国語を話したがらない大伯父についてそんなふうにぼやいていた。私がものごころつく頃の台湾では、日本語が「国語」だった時代は、すでに「一昔前」のことだった。今思えばそれは、「戦士、乾杯!」が発表された1988年頃のことなのだ。日本では昭和が終わりを迎えつつある時期だった。
それから、さらに30年が経つ。
私は思う。親戚の中で國語が下手だったのは大伯父だけではなかった。
――又柔は國語を忘れちゃったの?
従姉の言うとおりだった。3歳のときに台湾を離れ、日本の小学校に通って2、3年も経つ頃には、私は以前ほど中国語が話せなくなっていた。従姉たちとちがって私は、「國語」ではなく「国語」を学んだ。
ときどき、人生のどこかの段階で、台湾に帰国していたのなら、自分はどうなっていたのだろう、と思うことがある。たとえば、9歳。あるいは12歳。15歳や18歳でもいい。台湾に帰った私は、中国語を、「國語」を、ちゃんと取り戻せたのだろうか、と考えることがある。私のことだ。帰国が早ければ早かったほど、身につきつつあった日本語は、サヨナラ、とばかりにあっというまに遠ざかったのにちがいない。
台湾大学の椰子の木々が今よりも低かったときの風景を私は想像していた。この大学に通っていた学生たちが、中国語ではなく、日本語で書物を読み、論文を書き、日本の植民地下にある母国の未来を憂えながら議論していた約100年前のことを、思う存分、日本語で空想していた。
はじめこそ、コクゴ、は、支配者から強いられた言語であったにちがいない。しかし、コクゴ、として叩き込まれたその言語を支えに彼らは、自分たちを不当に貶める支配者に刃向かうこともできたのだ。
日本語は、そんな彼らのものでもあった。
楊逵、呂赫若、呉濁流……大伯父や祖父と同世代の作家たちの名が脳裏をよぎる。誠品台大店には、彼らの作品集もあった。しかもそれは、黄春明やほかの台湾の作家たちと同じ棚に分類されていたのだ。そう、それらは、“日本語から中国語に翻訳された台湾文学”、としてその棚に並んでいた。日本語以外の言語で書かれた小説が「日本文学」とみなされる状況はめったにないことと比較すれば、「台湾文学」とは、何てややこしいのか。私は可笑しくなる。何しろ私は、台湾のこのややこしさにこそ、親近感を抱いてしまうのだ。
(台湾、乾杯!)
鞄の中にある、購入したばかりの『等待一朵花的名字』を意識しながら私はしばらくの間、やわらかな台北の雨に打たれていた。
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