Web版 有鄰 第580号 確かな選択眼を持った三浦一族――進むべき武家社会を見据えた武士団の生き方 /伊藤一美
確かな選択眼を持った三浦一族
――進むべき武家社会を見据えた武士団の生き方 – 1面
伊藤一美
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- 三浦大介義明の武功を讃える
鎌倉材木座の来迎寺
三浦義明の願い
源頼朝の挙兵を聞いた三浦義明以下、石橋山への出陣加勢はかなわなかった。一族の長老義明は既に80才を越え、子息義澄以下を引き連れ、本拠地衣笠城に籠城する。だが外孫畠山重忠以下の平家方軍勢に囲まれ義明は討ち死にする。「源家累代の家人」義明は「貴種再興の秋」を喜び、「今老命を武衛(兵衛・頼朝)に投げうち、子孫の勲功を募らん」と願ったという。既に義明の末弟岡崎義実の子真田義忠も頼朝に代わり討ち死にしていた。後に証菩提寺(横浜市栄区)を建立し、彼を供養したように頼朝は三浦一族を頼みにしていた。
鎌倉史を替える和田氏と佐原氏
建久元年(1190)11月、懸案だった奥州藤原氏を平定し上洛する。頼朝を囲む行列十人には三浦義澄・弟(佐原)義連が供奉し、騎馬姿の義澄は一人で進む。行列でも三浦氏は特別だ。後白河からの恩賞として頼朝は三浦一族へ官位を推薦する。義澄は辞退し子義村が右兵衛尉となる。一族和田義盛・佐原義連も左衛門尉を与えられた。無官の人から侍身分を認められた瞬間であった。
この二人は、その後の鎌倉史を替えるべき人間といえる。義盛は侍別当(後に侍所別当)として頼朝軍団(御家人)統率の責任者となる。いわば日常警察(検察)と軍事長官を兼ねた存在だ。義連は、頼朝寝所警護役の一人として早くから頼みにされていた。彼は頼朝面前で下馬しない上総介広常を注意したり、広常と叔父義実との拝領物をめぐる諍いにも双方に理を説き、無事に収めている。後に頼朝は時政三男の元服にその加冠役をさせ、佐原義連の一字をとって「時連」と名付けた。後の北条時房である。加冠役とは成人の印として烏帽子を付けることだ。つまり擬制的な親子関係、北条氏と佐原氏との強い結びつきがここにできた。この子孫たちが、のちに三浦本宗一族が亡ぶ「宝治合戦」で北条方に味方する一つの起点はここにあるといえる。
梶原景時の粛正と和田氏
正治元年(1199)正月、カリスマ的存在であった頼朝が亡くなり頼家が将軍となる。不安な新政権の誕生だ。結城朝光が「二君に仕えず」と夢の事を語ったことが原因で梶原景時から讒言された。三浦義村に相談し、景時を恨みに思う中原仲業に訴状を作らせ、賛同する66人の連署を得る。この中には北条氏や大江広元、三善善信など文官らは見えない。和田義盛がそれを広元に将軍への披露を依頼した。景時は頼家の尋問にも陳謝せず、寒川一宮から一族あげて上洛するが駿河で滅亡した。景時は侍所所司として御家人らの動向監視もまた職務の一つだった。その上司和田義盛と三浦義村を中心にした梶原氏排除は、和田氏をはじめ御家人内部での不協和音があったことを示している。
尼将軍政子・義時と義村の新執行体制誕生
さらに不穏な事件が続く。
建仁3年(1203)7月、将軍頼家が危篤となる。外戚の比企能員排除に北条時政は動く。広元はこれを黙認した。仏事と称して能員を時政邸に招き寄せ謀殺する。『吾妻鏡』ではこの後「小御所」を幕府方武士が攻撃し焼失させている。この時点で幕府軍を動かすことができるのは尼御台所(政子)しかいないはずだから、政子の命令で弟義時が侍所別当和田義盛や三浦義村以下の武士を動員したとみてよい。
元久2年(1205)6月、時政は後妻牧の方から畠山重忠父子を粛正せよと持ちかけられた。在京する娘婿の平賀朝雅と重忠の子とのトラブルが原因だった。義時は父時政を諫めたが、その後に牧の方から苦情がきた。鎌倉に直後に到着したわずかな畠山重保主従は三浦義村勢に討ち取られた。その後、重忠一行がわずかな兵力で鎌倉を目指す。謀反の疑いを晴らすためだった。だが義時と時房を中心に鎌倉詰めの幕府御家人たちに畠山勢を討てという命令は既に出ていた。将軍実朝の命だが実態は時政の意向だろう。重忠の鎌倉への出向を伝えた稲毛重成、弟の榛谷重朝親子は三浦義村により殺害される。重成の妻は時政の女である。すべて彼らは畠山一統だ。時政の命を利用して、ここに非業の死を遂げた祖父三浦義明の仇を討ったといえる。
事件後、幼少の将軍にかわって尼御台所政子が恩賞付与を行う。既に平賀朝雅を次の将軍にという時政・牧の方の計画が察知され、政子は三浦義村に相談、幼少の実朝を義時宅に移すようにという提案を実行した。慈円『愚管抄』が記す「ヨキハカリ事ノ物」(良い謀り事ができる男)の面目躍如といえるだろう。
御家人から見離された時政は直後に出家し、伊豆北条に退去する。尼御台所と義時、そして三浦義村が核となる、新たな幕府政治がこれから始まる。
侍所別当 和田氏一族の滅亡
建保元年(1213)2月、信濃国の武士泉親平と結び上総・下総・越後・伊勢などの張本人130人余、伴類200人程による謀反事件が起きた。和田義盛の息子義直、義重、さらに甥の胤長も加担していたのだ。上総に住んでいた義盛は、侍所別当として鎌倉に出向き、将軍にも拝謁、息子の処分は撤回されている。だが、その後の将軍使者尋問や義時による御所警備など、次第に一触即発状況となっていく。『吾妻鏡』は一族の若い者たちが義盛の制止を聞き入れなかった、と記す。先の事件のように数ケ国の御家人らが事を起こそうとした状況からも義時政権への反発がかなりあったはずだろう。
同年5月、義盛ら和田一門は大江広元宅を最初に囲む。彼が将軍と義時の所在地に向かうことを知っての行動とみられる。ならば義盛一門は彼らを一網打尽としようとしたと考えるべきだろう。直前まで三浦義村・胤義兄弟も同意しながら結局は加担しなかった。『吾妻鏡』は「累代の主君」に弓を弾くことはできないからだ、とする。ならば三浦氏とは異なり、義盛一門は、やはり新たな「主君」を求めていたと考えるべきだろう。
戦いは2日で終わった。和田氏の縁戚となっていた相模の山内・梶原・土屋・毛利・波多野・渋谷・海老名の各氏族、武蔵の横山党など200人近くが討ち取られた。「和田合戦」よりは「和田鎌倉内乱」とよんだほうがふさわしいようだ。
政権の屋台骨を支える策士・義村の真骨頂
和田氏滅亡後、将軍実朝は三浦義村を御厩別当とする。年末には義時四男政村の元服に三浦義村が加冠役となる。政村と義村の強い結びつきが後年に謀反を疑われる要因となる。既に建仁2年(1202)義村女子と泰時は結婚、翌年時氏を生んでいる。だがすぐに離婚し、彼女は三浦一族佐原盛連と再婚している。建保6年に北条泰時が侍所別当となり、義村も侍所司の一人としてそれを補佐した。将軍実朝体制の屋台骨はまさに北条と三浦である。
歴史研究で実朝暗殺に三浦義村と公暁の関りが疑われるが、それは義村の歴史的存在が大きかったことが暗黙の裡に研究者たちに影響しているからなのだろう。
将軍後継者問題を契機に後鳥羽上皇と北条氏は対立し承久の乱が起こる。承久3年(1221)5月、義時が名指しで追討のターゲットとされた。だが尼御台所政子の巧みな言語操作により御家人層は自分たちの討伐・滅亡の危機と受け止めたのだった(『鏡』『古活字本承久記』)。既に京都で検非違使であった胤義から後鳥羽方への加担要請文も、義村はすぐに義時のもとに届けていた。
6月、京都を制圧した北条泰時は迅速な戦後処理に入る。三浦義村が特に御所警備・監視に重点を置いていることに注意が惹かれる(『承久三年四年日次記』)。さらに後鳥羽院御厩別当には泰時、案主(実務担当司)には義村の子泰村が配置された。泰村は泰時から一字「泰」を得ていることからも信用度は抜群といえる。すでに父義村は幕府御厩別当となっていたから、一時的とはいえ三浦氏親子で院と幕府の「馬」を管理する役職となったことも注目すべきことだ。
さらに義村は、わずか10歳ほどの茂仁親王を「おがみまいらせて」後堀河天皇にさせたという新史料も見つかっている(『賀茂旧記』)。御家人ではじめて受領となった「駿河守義村」の力の見せ所であった(『関東評定伝』)。彼の評判を貴族たちも注目している。藤原定家は、関白藤原道家を交代させる噂や北条義時女子と源通時との結婚仲介をした義村を「八難六奇の謀略」といい、中国漢の張良や陳平に譬えて軍師として見ていることがわかる(『明月記』)。だが彼も延応元年(1239)12月、突然の死去を迎えた。「大中風」だった(『鏡』)。
三浦本宗家の滅亡と新たな「大介」家の誕生
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- 三浦大介義明公之墓
(来迎寺)
寛元4年(1246)3月、病の執権経時にかわり時頼が継承した。7月将軍藤原頼経が京都へ送還された。謀反の疑いありということだった(寛元の政変)。連動して父の九条道家も政界を追われてしまう。なかでも三浦光村と前将軍との、別れゆく親しい関係が『鏡』に記されている。
宝治元年(1247)6月5日、三浦一門は鎌倉法華堂に籠って自害する。世にいう宝治合戦である。凡そ300人ほどが自決したという。『鏡』では、北条時頼と泰村との連携・交渉場面とともに安達景盛による子息義景・孫泰盛らへの三浦氏攻撃アジテーションが目立つ。六波羅探題の北条重時も三浦氏の威勢は評判だったと事件直後、公家に伝えているので水面下では安達氏との確執があったことは間違いないだろう(『葉黄記』)。
建長元年(1249)8月、幕府執権時頼・連署重時から三浦盛時は、父遠江前司佐原盛連跡の所領を兄弟の光盛とともに、「大介」の号は盛時が継承することを認められた(宇都宮氏家蔵文書)。
ここに正式に三浦「大介」家が執権時頼によって復活・再創されたのだ。つまり佐原家初代義連と北条時連(時房)との烏帽子親という関係の糸は切れていなかったといえる。
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