Web版 有鄰 第582号 湘南と江ノ電 /泉 秀樹
第582号に含まれる記事 令和4年9月10日発行
湘南と江ノ電 – 2面
泉 秀樹
鉄道開通と藤沢
東海道線の横浜―国府津間が開通したのが、明治20年(1887)7月11日のことである。
当初藤沢駅は、藤沢宿(藤沢市藤沢本町)の源義経を祀る白旗神社の近くに開設する計画が立てられた。だが、それまでの生活を守ろうとする人達は反対した。藤沢宿の住民は大部分が藁葺き屋根の家に住んでいたから、列車の煙突が吐き出す煤煙による火事を恐れたのである。やむなく駅は藤沢宿から徒歩で15分か20分ほど離れた桃畑と松林のなかに置かれることになった。現在のJR藤沢駅がある場所(藤沢市藤沢)である。そのため、人の流れが変わって、それまで繁華街だった藤沢宿は次第にさびれていき、藤沢駅周辺が繁盛することになっていった。
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- 鉄道敷設特許状
(江ノ島電鉄株式会社所蔵)
それから11年後の明治31年(1898)12月20日付で内務大臣・西郷従道から「江之島電気鉄道」(以下・江ノ電)の敷設免許があたえられた。
神奈川県会議員・衆議院議員であった福井直吉を発起人総代とする他4人の発起人の申請に国家が応えたものである。
ごく簡単に鉄道の敷設免許があたえられたのは、のちに江ノ電が設立されたとき最大の株主になった片瀬の大地主・山本庄太郎の働きがあったからである。
山本は、片瀬に別荘を持っていた曾禰荒助に江ノ電のことを相談した。曾禰は長州・萩藩の家老の家に生まれ、維新後は衆議院議員やフランス全権公使を務め、日清戦争後の三国干渉などに関わった。福井直吉らが江ノ電敷設の申請を行った明治31年には、第三次伊藤博文内閣の司法大臣になっていた。曾禰は以後、農商務、大蔵、外務大臣などを歴任した。つまり、江ノ電敷設許可は伊藤博文や神奈川県知事・周布公平(蛤御門の変に敗退切腹した周布政之助の次男)たち長州出身者の藩閥政治の力に助けられたのである。
ところが、江ノ電を敷設することに、強硬に反対した庶民たちがいた。藤沢駅から片瀬や江の島へ向かう片瀬街道で商売をやっていた300人を超える人力車夫たちである。
藤沢―片瀬間を、人力車は約40分かけて走っていた。が、片瀬街道沿いに敷設される電気鉄道は、十数分で走る。これではとても太刀打ちできず、仕事を失うことになり、生きていけないではないか、ということになった。
利害が正面から対立する鉄道敷設側と人力車夫側の対立は深刻で、解決は難しいと思われた。車夫たちは自由民権運動で知られる自由党の森久保作蔵をかつぎ出し、何事でも実力行使して阻止したり、暴力をふるうこともある壮士(自由民権運動の活動家)を集めて対抗しようとした。
だが、かつぎ出された森久保が、人力車夫たちを説得して問題は解決された。ここでも山本庄太郎が仲に入ったからだ。
山本は江ノ電が走る路線を変更し、川袋(石上と柳小路の間)を通って片瀬へ通すことを提案し、これで妥協することになった。それは、山本自身が所有していた土地の範囲内を通る、ということだったから、人力車夫たちは文句のつけようがなかったということでもあった。こうして鉄道敷設側と人力車夫側は、なんとか和解して江ノ電は開通されることになり、明治33年(1900)11月25日に「江之島電気鉄道株式会社」が創立された。
江ノ電開業
そして、2年後の明治35年(1902)1月25日から鉄道敷設工事がはじまり、7か月後の8月22日には藤沢―片瀬(現江ノ島)間が完成した。
走った車輌は次のようなものだった。
「車輌の大きさは長さ7.5m、幅員1.8mの小さなものであり、車体は木造、運転台は開放型で窓が無く、乗務員は風雨を直接受けるなど苦労が絶えなかったという。また前照灯は脱着式で、日が暮れると装着した」(『江ノ電の100年』)
なんとも愛おしくなる小さな可愛らしい車輌で、ぜひ乗ってみたいという思いに誘われる。
その年(明治35年)9月1日に江ノ電は開業した。
藤沢―片瀬間の運賃は10銭だった。江戸前寿司一人前10銭、カレーライス5~7銭、天丼8銭、高級品であったアイスクリーム15銭、映画館の入場料20銭、という時代だから、運賃としては高価で、庶民が毎日気軽に利用できる料金ではなかった。
とはいえ、江ノ電の開業による経済効果は大きかった。江の島の観光客や避暑客、海水浴客を湘南へ呼ぶことになり、片瀬や鵠沼地区の別荘地開発を勢いづかせたから、地元に多くの金が落とされる好結果を招来した。
その後も、路線の延長工事が粘り強く進められた。
明治43年(1910)11月4日には、藤沢―小町(鎌倉)間全線10.27キロメートルが開通・開業された。最初から起算すると、8年9か月という時間がかかっていた。
歴史の謎を深堀りする
そして今、江ノ電沿線を眺めてみると、電車が全15駅すべて、歴史の深い謎に包まれていることに驚かされる。
①藤沢 藤沢宿の永勝寺に39基の飯盛女の墓がある。その理由とは?
②石上 砥上ヶ原は西行をはじめ源実朝、鴨長明たちが日本の文学史上有名な名作を書くモチベーションになった。なにが名作を生んだのか?
③柳小路 八代将軍・吉宗によって作られた「相州砲術調練場」(演習場)は、この界隈から望見できる駒立山を砲台にして大砲が放たれていた。この「調練場」は戦後米軍基地となって朝鮮戦争にどう関わったのか?
④鵠沼 大給松平氏の所有地で、1区画3千坪の別荘地として売りに出され明治の顕官や政治家、旧大名や新興経済人たちがこぞって買って別荘生活を楽しんだ。鵠沼はどんな避暑地だったのか?
⑤湘南海岸公園 聶耳という青年の記念碑がある。中国の国歌を作曲した人物で、鵠沼の海岸で事故に遭って亡くなった。才能のある青年の痛ましい死と日中関係の行方? を考えてみよう。
⑥江ノ島 弁財天はどこから来たのか。頼朝は何を祈ったのか? 弁天小僧はなぜ生まれたのか? 江戸庶民はなぜ江の島を好んだのか?
⑦腰越 義経は、鎌倉に入れずに「腰越状」を書いた満福寺になぜ留まらなければならなかったのか?
⑧鎌倉高校前 「スラムダンク」に登場する駅前に集まる中国人と台湾人たち。ここは亡命ロシア人女性達もお気に入りの風景だった。ここがなぜ、日本のバレエの発祥の地となったのか?
⑨七里ヶ浜 海難事故で死んだ12人の逗子開成中学の生徒を悼む名歌「真白き富士の嶺」の悲しい歌詞はどのようにして生まれたのか? その怪しい背景を探る。
⑩稲村ヶ崎 鎌倉へ攻め込んだ新田義貞は、なぜ稲村ヶ崎から? どのようにして鎌倉市中へ侵入したのか?
⑪極楽寺 名刹極楽寺と月影地蔵。『十六夜日記』の作者・阿仏尼は、なぜこの近くに住まいを構えたのか? 彼女の生き方とその生涯を見つめる。
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- 風情のある駅舎の極楽寺
(2012年筆者撮影)
⑫長谷 巨大な「長谷の大仏様」の美しさを、幕末維新に訪れた外国人は、日本人とは異なる感受性でどのように感じたか。
⑬由比ヶ浜 実朝は宋に憧れて巨大船を建造した。現代の日本人が西欧に憧れを抱くのと同じ感情である。怪しい宋の工人・陳和卿にそそのかされたこのプロジェクトは、なぜか狂ってくる?
⑭和田塚 勇猛をもって知られ、鎌倉幕府創立に貢献した和田義盛はなぜ北条義時に粛清されなければならなかったのか? 政治と権力について考えさせられる「和田の乱」を追う。
⑮鎌倉 鶴岡八幡宮と段葛と鳥居の語りかけてくる日本の「神」の謎とは?
詳細は有隣堂から10月末発刊予定の『江ノ電沿線 歴史さんぽ』でお楽しみください。
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