Web版 有鄰 第585号 『私のことだま漂流記』/山田詠美 ほか
第585号に含まれる記事 令和5年3月10日発行
有鄰らいぶらりい
『私のことだま漂流記』 山田詠美:著/講談社:刊/1,815円(税込)
船に乗って暗い海を渡っていく、あるいは父と二人で映画館にいる。「私」の最初の記憶は、2歳くらいのときのものだ。まだ字も読めないのに、いかすアクセサリーだと思って本を小脇に抱えていた幼少期。大学に籍を置きながら売れない漫画を描き、暗澹たる気持ちで実家に戻った二十代の頃。現実の厳しさに何度も噛みつかれて鬱々としていた「私」は、何気なく開いた新聞で目にした宇野千代の連載「生きて行く私」を愛読し、心の中で「師」と仰いだ。そして初めて書き上げた小説でデビューすると、賛否両論を呼んだ――。
「生きて行く私」を愛読したときから約40年後、毎日新聞日曜版という“宇野先生”と同じ発表の場で書くにあたり、「私」は幼少期からの記憶を掘り起こし、自分を小説家たらしめているものが何なのかを検証していく。秩序なく積み重なった記憶の結晶の一つ一つに「私」が正確な言葉を与えて書くと、小説になる。たった一つの人生を生きている「私」の、根も葉もある物語なのである。
本書は、毎日新聞の「日曜くらぶ」に2021年6月から22年5月まで連載された、著者の本格自伝小説。かつて著者が「生きて行く私」を読んで励まされたように、本書の筆致も見事で、読者を力づける一冊だ。
『間借り鮨まさよ』 原宏一:著/双葉社:刊/1,848円(税込)
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- 『間借り鮨まさよ』
双葉社:刊
修業先のスペインから帰国した椋太は、東京・人形町で本格バスク料理店を開き、遠距離交際を続けていた佑衣と結婚した。ところが開業して3ヵ月後、年明けの2月からコロナ禍が深刻になり、夜の時短営業と酒類禁止などで売り上げが大幅にダウンしてしまう。大衆価格のスペイン食堂に衣替えして、ランチとテイクアウトを試みたが、営業をめぐって夫婦仲はこじれるばかりだ。そんな椋太の前に、丸ぽちゃ顔の中年女性が現れ、空いている昼に店を間借りさせてほしいという。「雅代」と名乗るその女性は、間借りで渡り歩く鮨職人だった。背に腹は代えられず椋太が承諾すると、スペイン食堂の扉の上に暖簾を掲げた『鮨まさよ』は繁盛し、鮨好きの追っかけたちがやってくる(第一貫 バスクの誓い)。
超一流の腕前を持ちながら、なぜか間借り営業に徹している鮨職人・雅代を軸に、日本各地の“間借り先”で起こる人間模様を描く。こじれた夫婦仲、洋菓子専門店を継いだ二代目社長の奮闘、小さな食堂と土地買収問題など、いろんな人の困りごとが、食べ物に関する多彩な知識や、美味しそうな描写とともにほぐされていく。雅代の鮨は、現代に甦った江戸前の屋台鮨だ。第一貫~第三貫まで3話が収められた、読み心地のいい連作人情小説である。
『バスに集う人々』 西村健:著/実業之日本社:刊/1,980円(税込)
田町から品川の海側は再開発の嵐が吹き荒れ、JR山手線には新駅が誕生した。家業の不動産会社を息子の雄也に譲り、路線バスの小さな旅を楽しんでいた吉住は、再開発工事が進む一帯に雄也と向かう。そこには、古い二階建て家屋がぽつんと残されていた。先祖代々の土地をどうするか、相談を受けた雄也は、奇妙な出来事に遭ったという(第一章 芝浜不動産)。
つき合っている彼女が急に冷たくなり、落ち込んでいた高校生の球人は、友達二人に誘われて、青森に行く。列車やバスを乗り継いで龍飛崎に行き、青森駅まで戻ると、龍飛崎でも見た男がいることに気づく。列車やバスにいなかった男が、なぜ到着しているのか? 球人は以前窮地を救ってくれた炭野夫婦に、電話で謎解きを頼んでみる(第二章 津軽を翔ぶ男)。
定年退職後、東京都シルバーパスを使って路線バスの旅を楽しむ元刑事の炭野と、その妻で、ずば抜けた推理能力を持つまふるが活躍するバス旅ミステリー。『バスを待つ男』『バスへ誘う男』に次ぐ「路線バス」シリーズ第三弾である本書は、バス仲間が遭遇する数々の事件から始まり、バスを駆使して情報を盗み出すフィッシング詐欺常習犯、“バス・フィッシャー”の謎を追う。バスと謎をめぐる人間模様が切ない。
『川崎警察 下流域』 香納諒一:著/徳間書店:刊/2,200円(税込)
物語の舞台は、1970年代の川崎。東京湾の漁師たちは立ち退きを迫られ、漁業権の交渉ではエリアに分けられた分断が生じていた。そんな中、多摩川河口のヘドロの中から水死体が見つかる。遺留品から元漁師の矢代太一と判明、彼はかつて川崎の海で漁を営み、漁業権問題で、自治体や企業を相手に交渉役を務めた人物だった。
川崎警察署刑事課のデカ長、車谷一人らが捜査を進める中、矢代の遺体には頭部などに複数の打撲痕があり、肺に海水が溜まっていたという解剖所見が届く。何者かによって繰り返し殴られて溺死した、殺人事件なのか。矢代はキーホルダーを二つ身に着けており、住んでいた家のものとは違う“もう一つの鍵”から、子連れの若い女性を文化住宅の離れに住まわせていたことが分かる。2年前に妻に先立たれた矢代は、若い女性に入れあげていたのか? 金庫に残された指紋から暴力団構成員とのつながりが浮上、ところが“プロ”による殺人事件が発生する――。
元漁師の不審死事件を端緒に、社会の深い闇に分け入っていく、書き下ろし長編警察小説。ベテランから新人まで、刑事たちの群像が巧みに描き分けられ、捜査の過程に引き込まれる。70年代を舞台にしながら、「今」に繋がるリアルさがある。
(C・A)
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