Web版 有鄰 第491号 三崎と三崎の物語/いしい しんじ
三崎と三崎の物語 – 特集2
いしい しんじ
鶴見に住んでいたころ毎晩横浜のバーをさまよって過ごす
神奈川県に住むのは初めてではなかった。浅草に12年間住む前鶴見に1年住んでいて毎晩横浜のバーをさまよって過ごし、日中は遅い時間に銀座にある会社にいってデスクでCDをかけたり、人にきいた話を文章にしてまわりの人に読ませたりしていた。どうして給料をもらえたのかいまもって謎である。横浜のバーでよくおぼえているのは、僕は24才くらいだったが19才くらいの酔ったあんちゃんに、頼山陽がいかにすごいかという話をこんこんときかされたことで、やけにきれいな靴を履いた丸坊主でスーツを着た男性と僕はべろべろのあんちゃんに信服し、翌日の午前中にふたり待ち合わせて書店にいったら3軒まわって頼山陽の書いた本が1冊もなかった、ということがあった。それから3年後はじめての本が出て、その頃はもう浅草に住んでいたが、犬の出てくる話だったので犬の格好をして書店でみずから売るというはた迷惑なことをやり、横浜の書店にもいき、横浜駅の西口のあたりを歩いていたら横浜のラジオ局の人に今晩出ませんかといわれ、いいですよとこたえ、そして夜のラジオ局に着ぐるみのままいってその日会った人の名前を何十と生放送で呼びかけてから自己紹介をしたら自己紹介の途中で放送時間がきれた。
京急線で西の終点をめざし三崎に住むように
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- 三崎漁港にて
2001年から三崎に住むようになったのははじめは西の終点にいってみようと思いついたからで、浅草から都営浅草線に乗ると泉岳寺から京急線に乗り入れそのまま特急電車なら横浜、上大岡、金沢、横須賀中央と過ぎ終点の三崎口につく。昼過ぎにワンカップ二本もって乗り込み金沢文庫あたりで空になったが、海へむかう電車からみあげる秋の空は目玉が浮きあがっていきそうに冴え窓のすきま風も心地よい。三浦海岸の駅あたりで左手に海原がみえ、やけにでかい島だとおもったがあとで考えれば対岸の房総半島だった。ところが海へきたはずの三崎口の駅でおりたら駅前には道しかない。むこうにあるのは水平線どころか茶色い畑地の地平線である。少し酔っているせいもあってナンヤソレ、ナンヤソレ、と生まれ育った地方のイントネーションでつぶやきながらアスファルトの地面を蹴りつけていると、ナーあんた、海きただったらバスで港まで降りてかねえとよ海なんてねえだよ、と京急の駅員の人に三崎ことばでいわれアそうですか、と礼をして京急バスに乗りこんで降りたのがいま住んでいる三崎の日の出の家の前で、駅員の人がそういってくれなければもう二本酒を買ってUターンし、未だに三崎というのは港かとおもったら農地だったと信じこんでいたかもしれない。そして終点であることにくわえ、バスを降りて集落を歩いていたらボヤーとそこだけ明るい場所があって近づいていくと大きな魚屋で、その後店主の宣さんにいわせると、集魚灯に集まってくるイカみてえだった、という感じだったそうだが、なんにせよこの魚店まるいちと出会ったことで生活は音をたててまわり舞台のように一転したのである。
それは運送会社のトラックのバックするブザー音、業者のかけ声、掃除機などのたてる音でもあった。まるいちへ挨拶にいくと宣さんはオメーほんとに越してきたのかよバカじゃねえのか! と叫び、いや、まるいちの魚俺毎日食いたいから、というと宣さんは、ンジャー半年くらい経ったら手が穴子みてえになんかもなといって腕をくねくねさせた。三崎の魚店まるいちの魚は朝市場にあがったものを宣さんが三崎一といわれる目でたしかめ買ってきたものを細心を払って並べているから、手の込んだことをしなくてもそのまま刺身に引くか焼くか煮るかで日本一うまい。浅草に住んでいた頃は料理はなにもせずアジの塩焼きはアジに割り箸をくわえさせそのままガスレンジで炙って生焼けで食べていて、魚焼きグリルのことを濡れた食器を直火で乾かす装置だとおもいこんでもいたが、それが毎日魚を買って調理することをおぼえると、反動もあるのだろうがしめさばやあじの南蛮漬けや甘鯛の一夜干しなど作るようになる。新鮮、ということだけでなく奥さんの美智世さんはむつやきんめを指で押して確かめ、そのとき食べるのにいちばんいいのを選んでくれるのも日本一である所以である。
昭和30年代には世界一賑わっていた遠洋漁業の港町
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- いしいしんじ
『三崎日和』
新潮文庫
三崎はただの田舎の漁港でなく昭和30年代には世界一賑わっていた港町だ。それはここが世界で最初の遠洋漁業の基地のひとつだったためで、ひと航海当たりの給金は毎度跳ね上がり、商店街は当時の銀座かそれ以上の人でごったがえし、たとえばある料理屋の壁には長嶋茂雄と石原裕次郎の色紙が押しピンで貼ってあるくらいだが、より大きな埠頭ということで清水や焼津にその基地が移って、梯子をはずされた格好になった三崎の町が呆然としたまま気がつけば21世紀になっていた。昭和の街並みが残る、風情がある、港町情緒、といわれても、三崎の人は正直に、ほんとは便利なショッピングセンターや、でかいマンションや、シネコンとかさ、できりゃよかったんだけどよ、ヤッパここ遠いんだよ、と苦笑する。下町に1軒だけあった銭湯が去年なくなった。花屋は上の町へ移転し、食材をそろえていたスーパーマーケットが店をしめた。町歩きブームや京都の町屋や、和のテイストなどと雑誌では煽っているいっぽう、日本中のほんとうの港町はだいたいどこもこんな風に穴ぼこだらけになっているのはいったいどういうことだろう。それでも町が寂ればかりを感じさせないのは、三崎の人が三崎にもっている誇りのせいだ。三崎の町自体「街並み保存」などで作られた場所でなく否応もなく「そうなってしまった」ほんものの町だからだ。
借りている家は昭和初年にできた日本家屋で階段が東西にふたつあり、学校帰りの子供らが勝手にあがりこんでぐるぐるまわっている。隣のバーの老人が階段をあがってきて、こちらが注意したら初めて、ア、ごめん、といって靴を脱ぐ、ということもある。三崎にいる限り鍵はしめたことがないので外出して戻ると玄関におろぬき大根やスイカ、作りたてのさんま寿司などがしょっちゅう置かれていて、冬は西風が厳しいのでこたつを出すが夏は四方から風が吹きぬけ、クーラーの必要がない、というよりクーラーを設置すると壁がめりめり割れて崩れ落ちるかもしれない。
豊かなにおい、声、ほんものの物語を内にふくんでいる町
引っ越した年吹奏楽にまつわる話が出版され、そのいっぽう一年じゅう三崎の借家でプラネタリウムの話を書いていた。窓を開け放して書いていると前の路地から子どもらが「いしい、しんだ、いしい、しんだ」と連呼するので窓から「しんでへん、喧しい」というと、ねー、カニ取りにいこーよー、という。いま仕事中、というと、さっきから見てんけーどー、なんもしてネーじゃん、ボーッとしてるだけじゃん、ねー、カニ取りにいこーよー、といわれ、すごすごカニ取りにいったことがある。小説の終盤で瀕死の熊が森へ踊りながら帰っていく、という場面を書いていたら隣の座敷から熊が踊りながら現れた、ということがあり、腰が抜けたが、これは現在の妻がその日たまたま熊の着ぐるみをもらったので東京から運びこっそり西側の階段をあがってきたのだと後でわかった。彼女には書いている小説のことは一切話していなかった。夏になると午前中創作、昼からは磯へ素潜りにでかけ、トコブシやウニが取れたら持って帰り、風の吹き通る二階の座敷で瓶ビールをあけた。何度も素潜りをしたせいか次の小説は長い時間水中にもぐったままでいられる男児の話になった。何度か人から、住んでいる場所が小説に影響することはあるか、ときかれたことがあるが、それはあるとおもうがどのように影響するか自分ではわからない。海辺だから海の話、歌舞伎町だから犯罪小説、という話でもないだろうしそれならば時代小説の人は日光江戸村に住めというのか。そこに住んでいるとき、自分がどのような時間を生きているか、意識の表層で自覚していない感覚が、書いている最中にたえず底から噴きだし、小説に彩りや湿り気を与えるということがまちがいなくあるだろう。だから僕が三崎に住んでいたときの実感は、当時書いていた小説の底に沈殿している。それを手にした人が読んでくれているあいだ、表面の文字やストーリーを追いながら同時に、意識の内奥にその三崎の感じが伝わっているかもしれない。そうであったらいいとおもう。なにがいいかといえば、僕なんぞの語彙や作文など、弾けとんでしまうくらい豊かなにおい、声、そしてほんものの物語を、いまだほんものの町で(否応なく)ありつづける三崎は内にふくんでいるからだ。
中央線終点の松本へ移り、たまに三崎へ戻る日々
「三崎に住んでいたときの」と書いたのは僕はいま三崎に住んでいるとはいえないからで、水中にもぐる男児の話を書きあげた翌週、これも中央線の終点の、信州の松本へ移っていまも住んでいる。引っ越したのは古い大工が自分の家族が住むためにみずから手がけた日本家屋で、家としての性能は、三崎の家がねこ車として4トントラックくらい高いが、いかんせん信州の冬は厳しく、窓の内側に垂れたつららや、朝、風呂場のたらいや蓋や石鹸入れがすべてひとつの氷のなかに閉ざされているという様を前に、これはとんでもないところに越した、と妻とふたり立ちすくんだものである。そうこうするうち4年が過ぎ、当初は考えられないことだったが、冬の寒さもある種の喜びと感じられるようになった。極寒だからこそ触れることのできる感覚があり、それではじめて浮かびあがる小説もある、ということだとおもう。とはいえ、住民票は三浦市にあり、三崎の家もまだ借りたままだ。たまに三崎へ戻ると、飲み屋のママさんやプロパン屋のおやじらから、ヨーウ、てめえ生きてたかよ、と声がかかり、僕は肩をすくめて軽く手を振る。ちょっとした航海から帰り陸にあがったばかりの船員の気分である。
※「有鄰」491号本紙では4ページに掲載されています。
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