Web版 有鄰 第491号 横浜開港150年・有隣堂創業100年「横浜を築いた建築家たち」(4)コンドル(1852-1920)
横浜開港150年・有隣堂創業100年
横浜を築いた建築家たち(4)
コンドル[Josiah Conder](1852-1920)
――日本の建築界の母たる風雅・清廉の士
吉田鋼市
-
- 横浜ユナイテッドクラブ
『神奈川の写真誌』から
だれもが知る日本近代の建築界の生みの親であり、これまでとりあげてきたエンジニア的な3人と違って正真正銘、生粋の建築家である。
正統的な建築教育を受け、当時の英国の代表的な建築事務所の一つで訓練を受け、由緒ある賞も受けて来日。それが明治10年のことで、時にわずか24歳であった。コンドルに託された仕事は、西洋の建築教育を行って建築家を育てることと本格的な洋風建築を建てることであったが、彼はその両方をよくこなした。
日本の最初期の建築家となる20名の工部大学校(後の東京大学工学部)卒業生を出し、約80もの建物を設計して建てた。鹿鳴館、東京帝室博物館、海軍省、三菱一号館(来春復元完成予定)が代表作であるが、それらは失われた。しかし旧岩崎久弥邸(旧岩崎邸庭園)、旧岩崎弥之助邸(開東閣)、三井倶楽部、旧古河邸、神田のニコライ堂など相当数が現存している。
おもに東京で活躍したわけだが、横浜にも浅からぬ足跡を残しており、短期間ではあるが同時期の横浜の建築を先導する役割も果たした。前回とりあげたパーマーの依頼で水道創設記念噴水を一時帰国中に選んできたのが横浜との関わりの始めで、ついで築港事務所(後に神奈川県港務部)を建てている。そして明治30年には居留地に事務所を開いて活動を開始。以後、明治34年の2度目の一時帰国までの4年間に十数件の仕事を集中的にこなしている。横浜ユナイテッドクラブ(明治33年)、居留地六十番館、居留地八十七番館、山手クライストチャーチ、山下町二十七番館、山下町十二番館などがその例だが、それらはすべて現存しない。ただし、山手の外国人墓地の墓をいくつか設計しているようで(『建築雑誌』掲載の「コンドル博士作物一覧表」に「数基」とある)、それらは残っているかもしれない。
コンドルは日本美術をこよなく愛し、自ら日本画を描き、生花など日本の文化に関する本も書いた。繊細にすぎるかもしれないが非常に優秀な建築家として将来を嘱目されていた彼を来日させた原動力の一つは、この日本趣味であったろうし、それがまた、上述の2度の一時帰国を除いて生涯彼を日本にとどまらせたのであろう。大正10年、67歳で亡くなった。墓は護国寺にあり、東京大学建築学科の前庭に全身像の銅像(大正12年)がある。
※「有鄰」491号本紙では4ページに掲載されています。
『書名』や表紙画像は、日本出版販売 (株) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 (株) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の利用規約やご利用ガイド(ともに外部リンク・新しいウインドウで表示)を必ずご一読ください。
第410号~573号は税別の商品価格を記載しています。
現在の税込価格は書名のリンク先等からHonyaClubにてご確認ください。
- 無断転載を禁じます。
- 無断転用を禁じます。
- 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。