Web版 有鄰 第572号 渋沢栄一の「論語と算盤」/守屋 淳
第572号に含まれる記事 令和3年1月1日発行
渋沢栄一の「論語と算盤」 – 1面
守屋 淳
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- 渋沢栄一(1840~1931)
深谷市所蔵
商業道徳と『論語』
『論語』は、日本で今でも高い人気を誇る古典に他なりません。
ところがその内容を正確に解釈しようとすると、大きな壁に当ってしまう難物でもあるのです。
そもそも『論語』の原型は、今から約2,500年前に、孔子(本名は孔丘 字が仲尼、子は先生の意味)の孫弟子や曾孫弟子たちが、手元に残されていた断片的な記録を持ち寄って編集したもの。このため、5W1Hがまったくわからないような会話や記録の数々が、雑多に寄せ集められた構成でしかありません。体系的に何かを示したものではないのです。
しかも『論語』は、とにかく記述が簡略であり、文章の解釈の幅が大きいという特徴があります。もともと漢文自体、日本語と違ってテニヲハがなく、受動態と能動態の区別もなく、ある漢字が名詞か動詞かさえわからない場合もあります。しかも複数の意味がある漢字ばかり。
だからこそ『論語』には、長い歴史のなかで2,000を超える解釈があると言われています。現在でも井波律子さんや高橋源一郎さんなどの新訳が出版されたりするわけです。
さて、そんな『論語』の教えを商業道徳として定着させようとしたのが、「日本の近代化の父」「実業界の父」と呼ばれ、2021年の大河ドラマの主人公や2024年からの1万円札のデザインに選ばれた渋沢栄一でした。
彼は明治時代に、今のみずほ銀行や東京ガス、JR東日本、東京海上日動火災など約500の会社、さらには日本赤十字社、聖路加国際病院、一橋大学など約600の社会事業にかかわりましたが、そんな彼のモットーの一つが「論語と算盤」。つまりビジネスには『論語』のようなモラルが必要だと説いたわけです。
しかし、中国古代の教えである『論語』と近代社会やビジネスとの間には、当然かみ合わない部分が多々あります。そのままでは、矛盾だらけになりかねないので、渋沢栄一はいろいろな手を使って齟齬を回避したり、否定すべき点は否定したりした上で、うまく活かそうとしました。そのさまを、いくつかご紹介したいと思います。
富は求めてもよいのか
まず『論語』にはこんな指摘があります。
孔子が言った。「人間であるからには、だれでも富や地位のある生活を手に入れたいと思う。だが、しかるべき役割を任された結果手に入れたものでないなら、しがみつくべきではない。逆に貧賤な生活は、誰しも嫌うところだ。だが、しかるべき役割を任されずにそうであるなら、そこに甘んじるべきだ」(子曰く、「富と貴きとは、これ人の欲する所なり。その道を以ってこれを得ざれば、処らざるなり。貧しきと賎しきとは、これ人の悪む所なり。その道を以ってこれを得ざれば、去らざるなり」)『論語』里仁篇
この一節は政治家や官僚についての言及として読むと、意味が明瞭です。
政治家や官僚は、人々の税金からそれなりの給料をもらっている存在。ですから、お金の面はそれに満足して、自分の利益ではなく公益を追うべきもの。もし今以上のお金や地位が欲しいのであるならば、功績をあげて認められた結果、昇進などして手にすべきである。もちろん、逆もしかり、と。
残念ながら、現在に至るまで私利を追い、仲間の利益だけを図ってしまう政治家や官僚が跡を絶ちません。しかし、孔子のこうした指摘こそあるべき姿なのは確かでしょう。
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- 『論語講義』乾 表紙
(国立国会図書館ウェブサイトから転載)
これに対して、栄一は『論語講義』という本のなかで、次のような解説を付けています。
「富と地位とは、万人が欲しがるものだ。しかし、これを手にするためには真っ当な道がある。つまり学問を学び、成果を出し、自分を磨いて、道徳を身につけることだ。富と地位そのものは、もちろん悪いものなどでなく、若い人がぜひ求めるべきものだ。しかし、これを獲得する手段や方法については、慎重の上にも慎重の態度をとらなければならないというのが、本章における孔子のお考えであろうと思われる」『論語講義』里仁第四 引用者訳
孔子のもとの考え方と、栄一の解釈、どう違うかおわかりになったでしょうか。
富に絞ってお話ししますと、富が必要か否かといえば、孔子は必要だと考えていました。政治家や官僚も生活者であり、働きに応じた給料をもらえないと生きていけないからです。
では、追い求めるべきか否か、といえば追い求めるべきではない、と孔子は考えていました。政治家や官僚は、公益を追い求めるべき存在として、税金からそれなりの給料をもらっています。そうである以上、自分の利益は追い求めるべきではないと、と考えたのです。
しかし栄一にとっては、この解釈をとってしまうと、『論語』が商業道徳として成り立たなくなってしまうのです。
なぜなら、商人や実業家は、税金から給料をもらえるわけではなく、自分の給料は自分で稼がなければならない存在。基本的にお金の心配をしなくていい政治家や官僚とはまったく立場が違うからです。
そこで栄一は、この一節を次のように読み替えました。
「孔子様でさえ、富は必要だといっている。だから求めて良いのだ。ただし、その求め方には正しい/正しくないがある」
『論語』を商業道徳とするために、かなりアクロバティックな解釈を施したわけです。
男尊女卑の否定
さらに、渋沢栄一は『論語』の教えを真っ向から否定する場合もありました。その端的な例が次の一節。
孔子が言った。「女と使用人は始末におえない。目をかけてやるとつけ上がるし、突き放すと逆恨みする」(子曰く、「唯だ女子と小人とは養い難しとなす。これを近づくれば則ち不孫、これを遠ざくれば則ち怨む」)『論語』陽貨篇
これに対して栄一は、次のような解説を付けています。
「今は昔と異なり、人はみな平等で、男女も同じ(政治上の権利を除く)権利を持っている。職業には管理する側とされる側があるにせよ、人権に高い低いの区別はないのだ。みな同じ人の子、もちろん奴隷視などしてはならない。世の中は籠に乗る人乗せる人、ともに一蓮托生の同じ国民。和気あいあいのうちに働いて、家業を盛んにし、家庭を管理する。これこそ善良な家庭の父母なのだ。
孔子の言う『女と使用人は始末におえない』というのは、第一に男尊女卑を原則として、第二に女子に教育機会を与えない時代の見方を反映している。今や政治上も男女同権に近づき、また教育も女子に行き渡ったのだから、昔と同じ見方はできないだろう。わたしはこう思う。孔子は、『過去の歴史を勉強することによって、現代に対する洞察を深めていく(故きを温ねて、新しきを知る)』と述べているように、意欲的に新しいものを取り入れようという考えを抱いている方だった。だから、もし孔子が今日に生れたならば、絶対にこのような言葉は残さなかったろう。婦人参政権も否認しないに違いない」『論語講義』陽貨第十七 引用者訳
渋沢栄一は日本女子大学を創設した成瀬仁蔵の影響を受けて、儒教的な価値観に根強い男尊女卑を完全に否定します。つまり、孔子の考え方は古い時代の女性観であり、近代化を進めている日本にはそぐわない、というのです。そしてすでに大正時代に、女性にも参政権を認めるべきだとまで主張しています。
自分のモットーの中に『論語』という言葉が入っているにもかかわらず、ずいぶん容赦のない態度をとっていますが、先述したように『論語』の中身は、今から2,500年ほど前の言行録。当然、今の時代に合う部分もあれば、合わない部分も出てきます。もし古典をうまくその時代に活用しようとするならば、時代に合った形での読み替え――あるときはアクロバティックな再解釈や内容の否定――も必要なのです。これは中国や日本の歴史の中で、多くの学者達がやってきたことでもありました。
栄一は、明治以降にその近代版、商業版を打ち立てたということなのです。
ですから彼は『論語』だけ、「算盤」だけを主張するわけではなく、2つを合わせた「論語と算盤」をモットーともしたのです。この対極的な2つのバランスをとってこそ、社会もビジネスも健全に発展するというのが彼の考えでした。
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