Web版 有鄰 第593号 大変な宿題 /半藤末利子

第593号に含まれる記事 2024/7/10発行

大変な宿題

半藤末利子

御主人の大怪我

結婚式での半藤一利・末利子夫妻(筆者提供)

結婚式での半藤一利・末利子夫妻
(筆者提供)

緑川さんご夫妻は、拙宅の真向かいの家の住人である。もう余り以前のことだったので忘れてしまったが、私達夫婦の方が、後からこの地に新居を建てて越してきたのであった。私達は、彼らより少し年上の夫婦であった。

はっきり言って私達2組は似た者同士で、年の差があったとは言え、それほど大きな違いはなかったように思う。たった一つそれも大きな違いがあったとすれば、それは私の夫が今から3年前に亡くなったことくらいではなかったか。

そして、それ以上に大変な変化と言ったら、緑川さんの御主人が、自宅から電車に乗って少し離れた所で、酔っ払って転倒され、大怪我をされた。その上大病(何でも血液の病)に襲われた、ということである。

緑川夫人はとてもしっかりした方であるが、御主人に倒れられてしまっては、どうしたらよいのか、夫人もしばらくは生きた心持ちがしないほど、大変な思いをされたことであろう。

医師にまかせるより仕方がないが、寝ずの看病が続いたであろうから、増して夫人の驚愕と精神的な悩み、苦しみはいかばかりであったことか。と、私は自分の身に置き換えて、夫人のいても立ってもいられぬ苦しみを我が身のものとしてとらえてみた。

私の主人も大酒を飲んでひっくり返って大腿骨骨折という大怪我をして、その怪我の手術が元で、結局最後はいろいろな後遺症に悩まされ、それが元で亡くなってしまったのであるから……。酒は飲まないに越したことはなかったが、それほど酒が好きだったのだ、と許してやらねばなるまい。

夫は90歳という老齢であったから、あたら命を失うのも止むを得なかったもしれないが、緑川さんはまだ夫より10歳近くぐらいは若い。その彼が両足を痛めてしまわれたのである。それなのに思うように歩けなくなってしまったら、御本人のみならず夫人もどうしたらいいのか。

そこうするうちに、季節は随分と春らしくなってきた。そして特別に緑川夫人とお話しする機会を持たない限り、御主人のことは私の脳裏から遠のいていた。

そんなある日、夫人から

「あのー、奥様。実は主人はもう随分と長いこと病院のリハビリセンターで過ごしておりましたでしょ。以前よりは随分と体全体はよくも強くもなってきたのですけれど、足がねぇー、思うように回復してくれませんの。でも本人は、いちど家の近くまでいいから行ってみたい、と申します。自分の家を見たいし、御近所の皆様のお姿も拝見したい、と申します。奥様、もし主人が家の近くに帰って参りましたら、会ってやっていただけますか」

と訊かれた。

「ええ、ええ。勿論ですとも。何か、用があって外出しない限り、お迎えさせていただきますわ」

と当然のことながら、満面の笑みを浮かべて私は返した。

「そうなれたらどんなにいいだろう」と心は早や緑川御夫妻を歓迎することで頭が一杯になっていた。

さてさて当日が来た。私が表に出ると、夫人が丁度、車に乗り込んで出かけるところであった。

「あっ、これから迎えに行って参ります」

と私に満面の笑みで言葉をかけた。

「いってらっしゃいませ。お気をつけてネ」

とハンドルを切っている夫人に私も大声で答えた。

夫婦にとっての老後

夫人が告げていた御主人の到着時間は午後12時半頃とか。私が表に出ると、御近所の顔見知りの奥様達が、4人5人と集まって来ていて、お互いに笑顔で挨拶し交している。

そこへ夫人の運転する車と先導された御主人を乗せた病院の車が2台到着。病院の職員さんらしき男性が二人、御主人の乗った車椅子を地面に降ろし、待ち構えていた私達の群れへと押し入れた。

私は自分の番が来て、前方へ押し出されてご主人の車椅子と向かい合う位置に来た時、初めて「おかえりなさい、緑川さん」と思いっきり笑顔を向けて呼びかけた。そして、彼のひざの上にそろえて置かれた両手の甲に私の手をそっと重ねた。緑川さんは一瞬びっくりされたようであったが、顔を上げ、私であると認めて下さったようで、軽くうなずかれた。

私は自宅に骨になった夫を迎えた時のことを思い出し、複雑な気持に陥った。

足を失うこと、歩くという機能を失うことの重大さを生きながらにして知らされた緑川さんご夫妻のこれからをどう受けとめたらいいのであろうか。どちらにとっても御主人の大怪我は大変な宿題をお二人に残してしまったのである。

特に年をとったのだから、これから残りの人生をお互い補足し合って無理の少ないように生きていかなければならない筈であった。それが御主人の大怪我で、老後の計画など一遍にかき消されてしまったであろう。

動きのとれない御主人を目の当たりにして、夫人はどれほど気をもんだことであろうか。私は自分の想像の中で、動き廻されたり、へこたれたりしているお二人の姿を目の前に見ながら、今、私がこうして自由に動きまわれて、年を取っても比較的自由に暮らせるのはありがたいことである、と思わずにはいられなかった。

そりゃ、夫が長生きして、今、二人で話をしながら生きていけたら、それに越したことはあるまい。一人きりは確かに寂しいが、私には自由があるし、どんな格好をしていても人に私自身とがめられることはないから気楽である。誰かの奥さんと呼ばれる窮屈の中で甘んじて生きていてもそれは困らない。現実に手のかかる人が隣にいるのは大変であろう。

これから夫人はどう生きていけばよいのか。

『硝子戸のうちそと』書影

『硝子戸のうちそと』
(講談社文庫)

『夏目家のそれから』書影

『夏目家のそれから』
(PHP研究所)

半藤末利子(はんどう まりこ)

エッセイスト。1935年東京生まれ。作家・松岡譲、夏目漱石の長女・筆子の四女。夫は作家、昭和史研究家の半藤一利。
著書『硝子戸のうちそと』講談社文庫 770円(税込)、『夏目家のそれから』PHP研究所 1,870円(税込)他多数。

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