Web版 有鄰 第593号 横浜の花火 /冴木一馬
横浜の花火 – 海辺の創造力
冴木一馬
日本に火薬が伝わり約500年が経とうとしている。火薬は当初武器として使用され、その後花火にも使われるようになった。火薬も花火も発明されたのは中国である。シルクロードを渡り西欧に広がり、日本には天文12年(1543)に火縄銃として入ってきた。その後、伊達政宗が天正17年(1589)に米沢城で唐人の揚げた花火を見ることになり、24年後の慶長18年には徳川家康も駿府城に於いて、明国人の揚げたものを三河の鉄砲隊とともに観覧する。その鉄砲隊が三河に技術を持ち帰ったことから日本の花火の発祥地は三河地方となっている。この長い歴史の中で一大転換を2度もおこなったのが横浜の花火である。
花火には「和火」や「洋火」という区別のしかたがある。和火とは木炭・硫黄・硝石だけを混合して作られた火薬を燃焼させた、暗い橙色のいわば江戸時代の花火である。対して洋火とは明治維新後、金属化合物が海外から導入され燃焼温度の高い塩素酸カリウムを使うことにより製造できるようになった、色の付いた花火を指す。現在でも花火大会では和火を打ち上げることがあるが、江戸時代とは様変わりした現在の日本では暗い橙色はネオンの明るさに負けて目立たなくなってしまった。
洋火が初めて打ち上げられたのは明治10年(1877)11月3日の天長節のことで、旧豊橋藩の平山甚太(平山煙火)の主催であった。紅雨、聯星、青珠と玉名(花火の名称)に色を識別する文字が使用されている。当時の人々は今までと全く異なる花火を見てどれだけ驚いたことか。かくして平山煙火の名は全国に広まり、毎年7月4日に横浜で開催された米国独立記念花火の定例製造人としての栄誉を与えられたのである。
それから120年後、横浜ではもうひとつの大きな事がなされた。1997年から2004年(2003年度は中止)まで開催されたスカイコンサート、国際花火競技会だ。
この初回の競技会でアメリカがパイロデジタルコンサルタント社製のコンピューターを使い、音楽に合わせて花火を打ち上げた。30分の1秒単位でプログラムされた花火は夜空で踊るように弧を描いた。それまでの花火は筒からまっすぐ上空に上がるものだが、常識を覆す出来事が起きたのである。それは花火筒を斜めに設置するもので、垂直に上げるのではなく、左右斜めに花火が打ち上げられた。これを見たものは一瞬何が起きたのか頭が混乱したであろう。同席していた行政の担当者が、斜めに上がったことから筒が倒れたとおもい中止を要請した逸話まで残っている。また国際花火競技会ということで、アメリカの「コメット」やイタリアの「スピン」、スペインの「ジェランドラス」など世界中の花火が上げられ、私も初めて目にする海外の花火に感動したものであった。そして今日本の花火は世界一の芸術品と呼ばれるようになったのである。花火後進国であった日本が世界一になったのは、江戸期の長い平和が続き技術が進んだことも一因で、そう考えるとまさに花火は平和の象徴とも呼べるのである。
(ハナビスト)
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