Web版 有鄰 第594号 鎌倉将軍の正妻たち /山本みなみ

第594号に含まれる記事 2024/9/10発行

鎌倉将軍の正妻たち – 2面

山本みなみ

将軍の正妻となった3名の女性の生涯を辿り、歴史上に果たした役割を考えたい。

北条政子
―稀代の女性政治家―

初代将軍源頼朝の妻北条政子は、悪女として認識されることもあるが、源氏将軍の断絶と承久の乱という幕府存続の危機を乗り越えた功績は無視できない。3代将軍源実朝の暗殺後、皇子下向の交渉は難航したが、京都の貴族から幼い三寅(のちの九条頼経)を迎え、政子が実質的な将軍となることで、幕府の基礎が揺らぐことはなかった。承久の乱の際には、動揺する御家人たちに対し、頼朝の恩を演説して奮い立たせ、幕府方を勝利に導いた。

政子は、母としては悲しい人生を歩んだ人だった。頼朝との間に二男二女を儲けたが、娘たちは若くして病死した。京の神護寺に伝わる書状には「母が嘆きは浅からぬことに候」とみえ、子を失った母の悲痛な思いが綴られている。頼朝の死後、43歳で出家し、将軍頼家と実朝を見守ったが、彼らもまた政争に巻き込まれて命を落とした。

とりわけ将軍実朝の死は、京・鎌倉に大きな衝撃を与えた。最愛の息子を失った母親は、皮肉にも尼将軍として歴史にその名を残すことになる。実質的な将軍となった政子は、『貞観政要』(唐の皇帝太宗と臣下による政治上の問答を集めた書)を政治の助けとしていたという。幕府を維持するため、有能な為政者たろうとする覚悟が窺える。

高野山金剛三昧院の多宝塔

高野山金剛三昧院の多宝塔

政治に邁進する一方、家族の菩提供養にも力を尽くした。悲惨な最期を迎えた実朝のために、高野山に金剛三昧院を創建した。境内には、現在も政子発願と伝わる多宝塔(国宝)が佇む。周知の通り、かつての高野山は女人禁制であった。ゆえに政子が完成した多宝塔を目にすることはなかったが、実朝のことをよほど大切に想っていたのであろう。鎌倉のみならず、密教の聖地高野山にも菩提を弔うための寺院を築いたのである。

政子の遺志を継いだのは甥の北条泰時である。政子は、北条政村の執権就任を画策する伊賀氏の動きを封じ、泰時の就任を見届けてから亡くなった。近年発見された新史料によれば、政子は亡くなる前、「あなたにもしものことがあれば私は遁世します」と言い出した泰時に対し、「天下を鎮守することが恩に報いることになるのです」と諭したという。 

嘉禄元年(1225)7月、天下の行く末を案じた女性政治家は、泰時に期待を寄せてこの世を去った。享年69。本年は800年忌にあたる節目の年である。

政子の死後、「御成敗式目」の制定や評定衆の設置など、幕府の法整備が進んだのは偶然ではない。偉大な存在であっただけに、余人を以て代えがたく、法によって整備する方向へと進んだのである。類まれなる政治力を発揮した政子は幕府体制にまでも影響を及ぼした。

源実朝の妻
―公武融和の象徴として―

3代将軍源実朝の妻となったのは、貴族の坊門信清の娘である。坊門家は、信清の姉殖子(七条院)と高倉院との間に生まれた皇子が即位し、後鳥羽天皇となったことから、急速に台頭した一族である。実朝の婚姻話が持ち上がると、信清の娘に白羽の矢が立った。かくして、彼女は僅か12歳にして親元を離れ、遠く鎌倉の地に嫁ぐ。京都と鎌倉を繋ぐ坊門家と源氏将軍家の婚姻は、公武融和の象徴であったといえよう。

鎌倉では、鶴岡八幡宮・寿福寺など鎌倉近辺の寺社に実朝や政子とともに参詣し、幕府の安泰を祈るなど、将軍の正妻としての役割を果たした。実朝とともに永福寺へ花見に行き、桜の木の下を散策するなど、夫婦仲は良好であったようである。

建保7年(1219)正月、鶴岡八幡宮で、実朝が公暁の刃に倒れた。暗殺の翌日には寿福寺で出家して本覚を名乗り、しばらくして帰京したようである。当時、貴族女性の離婚・再婚は一般的であったから、本覚尼は亡き実朝の菩提を弔う道を選択したということができる。ここから、活動の舞台は京都へと移る。

本覚尼の居所は、京都西八条にある実朝所有の邸宅であった。したがって、本覚尼は西八条禅尼とも呼ばれた。ここは、もともと平清盛の妻時子たちの住んでいた西八条邸のあった場所で、広大な敷地を有した。

承久の乱の際には、兄の忠信が後鳥羽院側につき、鎌倉側と敵対した。一時とはいえ、鎌倉に住んでいた本覚尼の心中は察するに余りある。乱後、忠信は捕らえられたが、政子に兄の助命を嘆願し、処刑を免れている。

寛喜3年(1231)、本覚尼は西八条邸の寝殿を堂にし、遍照心院(今の大通寺)を創建した。その後の動向は、文永9年(1272)80歳を迎えた際にしたためた2通の置文(遺言状)に詳しい。内容は、次のとおりである。

・遍照心院は、将軍家の祈禱寺である。

・僧は自分を母のごとく頼んで、仏道修行をしている。

・犯罪者が遍照心院の領域に走り入った時、他者はこの者に狼藉を加えてはいけない。

・遍照心院や寺領に問題が発生した場合は、安達泰盛に訴えて、将軍に申し上げなさい。

本覚尼が亡き実朝の菩提を弔う日々を送っていたことや罪を犯した者を保護していたこと、依然として幕府との繋がりを有していたことなどがわかる。また、実朝との間に子はいなかったが、実子のごとく修行僧たちに目を掛けていた様子を知り得る。

本覚尼がこの世を去ったのは、文永11年(1274)9月。享年82の大往生であった。この翌月には、モンゴル襲来が迫っており、本覚尼は鎌倉前・中期という長い歴史の目撃者でもあったといえよう。本年は没後750年にあたる。

置文のなかで、本覚尼は人生を次のように振り返る。

我すでに春秋を送ること八十年にみてり。人間の無常いくばくか、眼にさえぎる。おりにふるゝあわれ、ことに身をかえりみる思いふかし。

夫の暗殺や承久の乱によって、人の死を目の当たりにしてきた本覚尼は、人間の無常を感じずにはいられなかった。

竹御所
―源氏の血を引く姫君―

4代将軍九条頼経の妻となったのは、2代将軍源頼家の娘竹御所である。建仁2年(1202)将軍の姫君として誕生したが、翌年には小御所合戦(比企氏の乱)が勃発したため、両親を失い、祖母の政子のもとで養育されたと考えられる。建保4年(1216)には、政子の命により実朝の妻の養子となっている。

しかし、実朝の暗殺事件により、本覚尼は鎌倉を去る。保護者を失った竹御所は、再び政子の保護下に置かれたと考えられるが、その政子も、嘉禄元年(1275)に死去した。ここから竹御所は、政子の葬儀・仏事を差配する人物として活躍する。ときに23歳。しだいに、鶴岡八幡宮の放生会など幕府行事にも参加するようになる。

寛喜2年(1230)12月、28歳の竹御所は13歳の頼経と婚姻するに至った。もしも二人のあいだに男子が生まれれば、源氏の血を引く将軍の誕生を意味する。このような期待がかけられた婚姻であったと考えられる。

天福2年(1234)7月、32歳の竹御所はついに出産に臨んだが、お腹の子はすでに死んでおり、彼女自身も難産により亡くなった。初産にしては高齢であったことは言うまでもない。墓所は鎌倉の妙本寺にある。

以上、正妻たちの生涯を追ってきた。源氏将軍の断絶や幼い将軍の出現といった不測の事態がおころうとも、鎌倉幕府が存続しえた背景には正妻たちの存在があった。また、本来であれば、政子の後継者は本覚尼であるが、帰京したため、鎌倉将軍家を存続させるためには、源氏の血を引く竹御所が後継者となり、高齢での出産に臨むほかなかった。実朝の死は、承久の乱の呼び水となっただけでなく、正妻たちにも多大なる影響を及ぼしたのである。

山本みなみ(やまもと みなみ)

1989年岡山県生まれ。鎌倉歴史文化交流館学芸員。
著書『史伝北条政子』NHK出版新書 968円(税込)、『史伝北条義時』小学館 1,430円(税込)他。

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